鼻に一撃
一見、直進通路ばかりで単純に思われる癖に、他階層を経由しないとたどり着けないフロアなどがあって複雑な校舎の構造を理解していたはずなのに、結局迷った挙句統也に案内されてようやく美術室に到達したというのは業腹なのでここだけの秘密だ。
ともかく、美術室。
……なのだが。
「うわあ、こりゃ凄いねえ」
それを目にして思わず足を止めた俺の横をすり抜けて、統也は能天気な歓声を上げる。
「何枚あるのかな。しかもこれ、全部違う描き方だよ。タッキー、ほらほら!」
楽しそうだな。
俺はうすら寒い表情を隠しきれないが、いつまでも立ち止まっているわけにもいかない。渋々ながら、俺もそちらへ歩を進めていく。
「水彩、油絵、水墨、木炭、切り絵、キュビズム、色鉛筆、クレヨン、デジタル……うわ、まだまだあるよ。しかもこれ」
鑑賞しながら歩く統也の言葉を、俺は頷きとともに引き継いだ。
「――全部、林檎だな」
徹底して、林檎だ。
恐らく静物画というジャンルに当たるのだろう、机の上に置かれた一個の林檎が、統也の唱え上げたようなあらゆる手法で描かれている。
圧巻は、圧巻だ。だが、
「ちょっとある種の狂気めいたものまで見えてきそうだな……」
ここまで拘られると、正直ついていけない。
何だろう、この美術部は林檎が大好きなのか? 代々林檎を描く伝統でもあるのだろうか。
全くもって、奇習だ。
赤、朱、緋、紅。
おびただしい『あか』。
とはいえ統也の言う通り、全面が必ずしも『あか』であるというわけではなく、水墨のようにモノクロな絵もあるのだが……何だろう。
「…………?」
ふと――何か、引っ掛かるものを覚えた。
多彩な、という言葉がまさにふさわしいという、ただの一色『あか』だけでそれを表現し得るその色彩に、俺の何かが引っ掛かった。
今、俺の頭をかすめたのは、一体なんだろう。
「と、鑑賞している場合じゃなかったね、タッキー。早く中に入ろうよ」
しかし、俺がその微塵のような違和感を摑まえるより早く統也の声が割り込んできて、思考はあっさりと中断された。
「――ん、ああ。そうだな」
気のせい、だろう。既視感というものは、稀にあることだ。それも心当たりにたどり着けることなんてまずないのだから、放っておいていいだろう。
正直、これほど林檎が好きな人間などに会いたくないような気もしたが……やむを得ない。腹を括ろう。
俺は美術室の戸の前に立った。
ドアノブに手を掛ける。
「大丈夫かいタッキー、扉を開けてまず何て言うかは決めてある? それから入部を切り出す手順は? 声を大きくしていかないと聴こえないかもしれないよね。部室の先輩とはまずどれくらいの距離まで近づけばいいかな? ちゃんと先輩の目を見て話せる?」
「やかましい」
わざとらしく耳元で囁きかけてくる統也を追い払う。全くもって、悪魔の囁きだ。
俺が多少の人見知りであることは否定しない。認めよう。
だが助長してくれやがるな。
ひひ、と笑う統也をもう一度睨みつけて、俺は再度取っ手に手を掛ける。
ひとつ、呼吸。
統也のいらん御節介のせいで不用意に生まれてしまった嫌な緊張を腹の底に、落とす。
――よし。
く、と奥歯を噛んで俺は美術室の戸を引「ぎっ」顔面を押さえてもんどり打った。
「――うわあ、御免なさい! 大丈夫⁉」
戸を向こう側から体当たりでもしたんじゃないかという勢いで押し開けやがった誰かが慌てて声を上げるが、俺はそれどころではない。その声から相手が女子であることもわかったが、それ以外は何も確認するどころではない。戸を顔面に不意打ちで無防備に直撃してしまったのだから……本当に大丈夫か? 鼻、取れてないか? ちゃんとついてるか?
「む、ぐ、く」
「あちゃー、綺麗に決まったねえタッキー。すっごいいい音したねえ。鼻血くらい出てるよね。保健室行く?」
床で鼻を押さえたまま声も出せずに悶える俺の傍らにしゃがみこんで、統也は能天気な声で言った。
こいつ、後で絞める。
ていうか痛い。かなり痛い。そして熱い。さらには案の定、統也の言う通り紅くてどろりとしたものが手に下りてきた。
「わ、わ! 血が! どうしよう、ほんとに御免、えっと、えと、AED⁉」そんなもんにかけられて堪るか、むしろそれがとどめになるぞ。
「いや、鼻血だからAEDは使えませんよ。とりあえず、ティッシュありません?」
悶える俺よりパニックになっている加害者某の言葉に、何も言えないで痙攣している俺に代わって、統也が憎らしいほど冷静に答えた。というかこいつ、面白がってやがるな。声が笑ってやがる。――と、あー、いかん、涙が出てきた。鼻を打たれると涙が出ちゃう。
と、そのときぱたぱたと新しい足音が聞こえてきた。それも、加害者某の騒ぎ様を聞きつけた誰かが廊下の向こうから救援にやって来た、というわけではなく、加害者某と同じ方向。
美術室から。
「大丈夫ですか? 本当に勢いよく、鈍い音もしたし……これ、ティッシュ」
割と平静な声とともに、俺の顔横に箱ティッシュが差し出された。俺はとにかく夢中でそこから半分くらい一気に引き抜いて、鼻を押さえる。床に這いつくばってひいひいと喘ぐ俺を見て、ティッシュを差し出してきた誰かは、
「本当に御免なさい。とにかく、保健室に行きましょうか」
結構だ。統也に案内されるという恥辱を呑んでまで遥々やって来て、入室することもなく引き返し、どこにあるとも知れない保健室にまた迷いながら行くなんて御免だ。それにしばらく悶絶していたらやや冷静に、あと激烈な痛みも和らいできて、恐らく鼻は折れてないとわかった。
全く、存外に人体は頑丈だ。
とにかくそういうわけだから、俺は片手でぶんぶんと手を振った。俺の意を汲んだ統也も「保健室には行きたくないらしいです」それはちょっと意味合いが違うが、そうですか、とティッシュの人は案じるような声音ながらも頷いたようだった。
とはいえ放置するわけにもいかないらしく、
「それでも、冷やした方がいいですよね……えっと、ユウミ、保健室に行って何か冷やすものもらってきて」
「冷やすもの……液体窒素だね! わかった、理科室に行ってくる!」おい待て一体何で人の顔面冷却する気だ「違うよ、夕海。保健室って言ってるでしょ。冷やすものといったら、氷とか、そういうものよ」「こ、氷だね! わかった!」
加害者某――ユウミと呼ばれた誰かはやや不安の残る応答を残して走り去っていった。……保健室に行くんだよな。それなら氷を生で持ってきたりはしないよな。頼むぞ保健室の先生。まだ会ったことないけど。
「ええと、あなたたちは、美術室に用があったのかな……それなら、とりあえず、入る?」
立てる? と促されて、俺はよろよろと立ち上がった。まだ完全に衝撃が抜けきってないからややふらつくが、自立できないほどじゃない――俺は身を起こし、そこでようやく声の主を視認した。
まあ、こちらも声で既にわかってはいたのだが、女子生徒だった。
当然のこと、初対面の上級生だった。




