筆を取る
リビングに降りていくと、お父さんは食卓にはついていたけれどまだ食べていなかった。部屋に入ってきた私に気付いてテレビを消し、炊飯器や鍋から夕食を取り分けていく。
実のところ、夕食の支度も取り分けも、お母さんが亡くなってからはずっと私の仕事だった。忙しいお父さんのために、私がお母さんの家事を引き継いでいた――それが、ここしばらく私の様子がおかしいことに気付いたお父さんが、いつの間にか何も言わずに代わってくれていた。
そのお父さんの不慣れな手つきを見るたびに申し訳なく思うのだけれど、今の私はそんなお父さんの気遣いに甘えてしまっていた。
泣き腫らして赤くなっているだろう私の目にも、何も言わないお父さんの優しさに、甘えてしまっていた。
「……いただきます」
お父さんが自分の席につくのを待って、私は箸を取った――けれど、正直に言って、食欲はなかった。
もそもそとご飯を口に運んで、それをお味噌汁で流し込む。
お父さんが先日、やっと覚えたんだ、と誇らしげに話していた肉じゃがを食べる。切り方が荒くて、ひとつひとつがとても大きいところが、何となくお父さんらしいと思った。
「……美味しくないか?」
遅々として進まない私の箸を見て、お父さんがやや不安げに言った。私は首を横に振る。
「ううん、そんなことないよ」正直、味なんて全くわからない。美味しいとも、美味しくないとも。「御免ね」
「いや、いいんだけど……」
言って、なおもお父さんは私を心配げに見ている。
多分、迷っているのだろう――ここ最近の私の様子がおかしいことについて、訊いたものかどうかを。
けれど、何となく憚られて、切り出せないでいる。
そんなところだろうと思う。
思ってしまうからこそ、より申し訳なくなる。
お父さんの心配がわかっているのに、改善することも、嘘でも元気に振る舞うことすらできない自分が、申し訳なくなる。
「――ねえ、お父さん」
だから私は、とにかく何か話そうと思って、こちらから口火を切った。
「どうした?」
途端にお父さんは応じてくれた。うん、と私は言って、けれどすぐには何も思いつかない。何か話題を用意していたわけではなかったからだ。
「その……お母さんって、どうして絵が好きだったのかな」
結局、出てきた言葉は、そんなところだった。
ずっと、考えていたことだ。案の定、お父さんは私の問いに怪訝な表情になった。
「若菜が、か? うーん……」
お父さんは箸を止めて考え込んでしまった。そんなに深い意図をもって訊いたわけではなかったから、私は慌てて何か他の話題に逸らそうと口を開く。けれど私が何かを言う前に、お父さんが答えてしまった。
「それな……俺も結婚する前に若菜に訊いたことあったけど、確か『好きだから好き』とか、そういう理由だったぞ」
「『好きだから好き』?」
思わず訊き返した私に、お父さんは頷いた。
「好きであることに理由なんかない、とかそういうことも言ってたな。うん、とにかく若菜は絵を描くことが好きだった。結婚する前も、小春が生まれた後も、どこかに行くと必ず、この景色は絵になる、とか、この構図は気付かなかった、とか言っててな。そうやってはしゃいでる若菜も、俺は好きだったんだが」
はは、とちょっと恥ずかしそうに笑うお父さん。私も、つられてちょっと笑ってしまった。
「寝ても覚めても、って感じでな……小さい頃から、ずっと好きだったって言ってた。勉強熱心で、大学を出た後も職業画家をやりながら、いろんなこと勉強してたな。得意なのは風景画だけど、それ以外もいろいろと。それは知ってるだろ? 若菜の買い集めた本、家じゅうにあるもんな」
私は頷く。私も、生前のお母さんにそれを使っていろいろと教えてもらったし、お母さんが亡くなった後も自分で勉強した。
「唯一人物画だけは苦手だって言ってたけど、小春が生まれてからは凄い勉強しててな。風景画ほどじゃないが、結構上達したらしい。俺は絵はさっぱりだから何とも言えないけど、何か偉い人たちがそんなことを話してた。――若菜はな、小春が生まれたとき、『画家になってほしいとまでは言わないけれど、絵が大好きな子になってほしい』って言ってたよ。だから小春が成長するにつれて絵が好きになって言っているのを見て喜んでたし、中学校で美術部に入ったときなんかも凄く喜んでたな。結婚記念日をすっかり忘れるくらいはしゃいで、パーティしよう、とかって」
「そう、なんだ……」
お父さんの話を聞いていると、何だかお母さんがとても子供っぽい人のように思えてきた。けれど、お父さんの中ではそう映っていたんだろう。
私の中では、大らかで、遠く及ばない人のようだったお母さんは。
「――それじゃあ、青は? お母さん、どうして青が好きだったの?」
それも、私がずっと考えていたことだった。私が大好きなお母さんの青を、どうしてお母さんは好きになったのだろう。
ああ、とお父さんは頷いた。
「『青の魔術師』とかって言われてたもんな。恥ずかしいとか言ってたけど……それも、絵が好きなのと同じような感じだったよ。『好きだから好き』。他の色が嫌いだとか、好きじゃないってわけではなくて……とにかく、惹かれるんだってさ。海とか、空とか。だから自然公園とか行くときは、必ず絵を描く道具一式、車に積んでたな」
青に惹かれる、か。
私がお母さんの青に惹かれたように。
お母さんも、誰かの、あるいは何かの青に惹かれて、始まったんだろうか。
「――私も」
「うん?」
「私も、好きだよ。青――お母さんの、青」
そっか、とお父さんは笑った。それから、ふと箸を置いて、席を立った。
「そうそう、今思い出した。この間家の掃除してたらな、若菜のノートが出てきた。それも大量に」
「お母さんの、ノート?」
「そう。デッサンノートって奴? 鉛筆とかで書き込んであるんだ。見るだろ」
うん、と頷いた。ちょっと待ってて、と言ってお父さんはリビングを出ていった。その間に、私は少しでも食事を摂ろうと頑張ってみたけれど、どうしても箸が進まない。どうしよう、と思っていると、お父さんが段ボールを抱えて戻ってきた。
「これだ、これ。これだけじゃなくて、他にもたくさんあるんだけどな」
それを床に降ろして、蓋を開いた。私も覗き込むと、そこには大学ノートがびっしりと詰まっていた。
「これ、全部……?」
「おう。しかもこれだけじゃないんだって。学生時代から全部保管してたんだな、こういうのがあと三箱くらいある」
思わず私は息を呑んだ。百冊や二百冊どころじゃない冊数のノートが、これ以外にもある――全て、お母さんの手によるものが。
どれ、とお父さんはそのノートを探っていく。まだそれほど時間の経っていないように見えるものから、相当年季の入ってすり切れたノートも見える。その中から、お父さんは数冊を抜き出した。
「これだこれ。小春が生まれた頃の。小春を描き残すって、張り切って描いてた。キャンバスに描いた奴は見たことあるだろうけど、これはその練習の」
手渡されたノートを、開いてみた。
それは確かに、お母さんのノートだった。
ページを開くごとに、いろんな絵があって……途中から、全てが人のデッサンになる。
赤ん坊の絵。つまりは、これが私だろう。
初めの方は、確かにどこか歪な絵ばかりだった。けれど、途中からぐっと上達して、人らしくなっていく。
ひとつとして同じ構図もなく、丹念に描かれていて。
「…………」
「――小春? どうした、大丈夫か?」
お父さんの声で、我に返った。
私は、知らずまた泣いていた。
お母さんの絵を胸に抱いて、泣いていた。
今度こそ、涙が止まらなかった。
どこか痛いのか、と慌てるお父さんに、私は大きく首を横に振った。大丈夫、痛いわけでも、哀しいわけでもないから。
ページをめくるたびに触れる、お母さんの愛情を感じて。
ただ、温かい気持ちがあふれ出てしまった。
大丈夫、大丈夫だからとうわ言のように繰り返す私に、そうか、と一応の頷きを返しながら、お父さんはまた別のノートを差し出してきた。
受け取って、お父さんを見返す私に、お父さんは言う。
「それが、一番新しいノートだ。……と言っても、もう三年前のものなんだけどな。若菜が最後に使ってたノートだよ」
言われて、パラパラとめくる。確かに、他のノートと違って、後半のページは白いままだ。
お父さんも、別のノートを眺めながら小さく笑った。
「全く……いちいち描いた日付とか記録して。そういうところだけ几帳面なんだからな。部屋の掃除とかは苦手だったくせにさ……」
懐かしむような声音で、お父さんは言った。確かに、どのページにも一貫して同じ位置に、日付と、恐らくはスケッチした場所やものの名前が書きこまれている。
私はお母さんの最後のノートの、一番最後のページを開いた。
お母さんの、最後の絵だ。
ほとんどが一ページに一枚分で描いていたものが、これは珍しく見開きで描かれていた。日付を確認すると、それはお母さんが亡くなるほんの数日前のものだった。
改めて、私はそれを見る。鉛筆画のためすぐには構図が見えにくく、少し顔を離したりして見る。
そして、凍り付いた。
「……お父さん」
「ん、今度はどうした」
食い入るようにノートに見入ったまま、私はお父さんに言った。
「御免……夕食、もう食べられない」
「ん、お、おう、そうか」
「――御免ね」
言って、私は立ち上がった。幼い私が描かれたノートと、お母さんの最後のノートを抱えて。そのまま私は、まっすぐにリビングを出ていこうとして――戸口で、立ち止まった。
お父さんを振り返る。
「お父さん」
ノートから顔を上げ、私を見るお父さんに、私はようやく笑顔を見せた。
「――有り難う」
おう、と恐らくわかっていないながらも頷くお父さんを残して、私は階段を駆け上がった。途中何度か踏み外しそうになりながらも、自分の部屋に飛び込む。
息を切らしたまま、お母さんのノートを抱えて、私は真っ白なままのキャンバスの前に立った。
キャンバスは、やっぱり、とても大きく、大きなままだ。
私は、目を閉じる。
思う。
お母さんの青を、思う。
私の青を、思う。
――俺は小春先輩の青が見たい。
滝崎くんの言葉を、思う。
――小春先輩が大好きで、憧れて、目指した青がどんな青なのか、見たい。
私が大好きな青を思う。
私が憧れた青を思う。
私が目指した青を思う。
青。
蒼。
碧。
藍。
紺。
縹。
ブルー。
アクアマリン。
ターコイズ。
シアン。
コバルト。
群青。
濃紺。
瑠璃。
露草。
浅葱。
水色。
空色。
海色。
あお。
「…………」
私は、目を開いた。
そこにはキャンバスがある。
私は、下唇を浅く噛み、ノートを抱きかかえたまま、キャンバスの前に置かれたままの椅子に座った。
深呼吸を、ひとつ。
涙はまだ、乾いていない。
呼吸だって、乱れたままだ。
けれど、心は落ち着いた。
「――お母さん」
囁く。
呼びかけに答えてくれる人は、もういない。
けれど、遺してくれたものは確かにあるし。
私の中に残ったものも、確かにある。
だから。
私は筆を取った。




