母のキャンバス
ふ、と吐息した。私しかいなくて、物音もない暗闇に、私の吐息は響くこともなく呑まれて消えた。
いつまでもこうしてはいられない。単純に、コンクールまで時間がないということもある。でもそれだけじゃなくて、夕海や、他にもいろんな人にまで迷惑をかけてしまっている。心配をかけてしまっている。いつまでも甘えていることは、できない。
「…………」
滝崎くんは。
私に、青を使うように言った、私の青が見たいと言った滝崎くんは、どうしているんだろう。
あれから一度も美術室に行っていない私は、滝崎くんと会うこともないままだ。
あの日から、ずっと。
「…………」
滝崎くんに、一体どんな感情を向けたらいいのか、わからない。
過去を掘り返された怒りか、傷に踏み入られた哀しみか、それとも、全く別の何かか。
このまま私が青を使えないままだったら、滝崎くんは私をどう思うだろう。
いや、滝崎くんだけじゃない。――何より、私は、私自身をどう思うんだろう。
青が怖くなったわけじゃない。嫌いになったわけじゃない。
今でもお母さんが好きなように、今でも青は、好きだ。
それなのに、それでも青が使えないような私を。
他ならぬ私自身は、どう思うのだろう。
「――小春、小春」
物思いに深く沈んでいたせいで、私を呼ぶ声に気付かなかった。
「あ、え、な、なに?」
不意を打たれて、慌てて私は声のした方へ顔を向ける。見れば、閉めていた私の部屋の戸が半分ほど開けられ、そこからお父さんが顔を出していた。
「いや、夕飯の準備ができたから、呼びに来たんだが……大丈夫か?」
お父さんは、心配そうな顔をしていた。
それも、そうだろう。真っ暗な部屋の中で、キャンバスを前に俯いて座っているのでは。
それに、お互いにはっきりと確認を取ったわけではないのだけれど、お父さんだって、私が青を使おうとしていることは、わかっている。
……お父さんにまで。
心配をかけてしまった。
「大丈夫、大丈夫だよ。何でもない――夕飯ね、わかった。有り難う、すぐに行くね」
それでも、せめてこれ以上は心配をかけまいと、私は努めて明るい声で応じて、笑って見せる。ああ、とお父さんは頷いた。
「わかった。それじゃあ、冷めないうちに来なさい――」
何か言いたげな顔ながらも、そう言い残して部屋を離れようとするお父さんに、しかし私は、
「――あ、お父さん」
不意に心に浮かぶものがあって、呼び止めてしまった。
どうした、とこちらに向き直るお父さんに、その、と私は口ごもった。咄嗟に、思いがまとまる前に言ってしまった私は、迷い……けれど、続けた。
「お母さんの使ってたパレット――まだ、残ってる?」
恐る恐る出した私の問いかけに、お父さんはちょっと不思議そうな表情になりながらも、頷いた。
「若菜のパレット? ああ、あるけど……どっちだ?」
どっち、というのは、ふたつある、ということだ。そう――お母さんは、パレットをふたつ使う人だった。
今、私がほしいのはその一方だ。
「――青の方」
「わかった」
お父さんは頷いて、ちょっと待ってなさい、と言って私の部屋を離れた。それからさほど待つこともなく戻って来る。
その手に、布の隙間なく巻かれた板状のものを持って。
「若菜の、青のパレットだ」
「……有り難う」
差し出されたそれを、私は受け取った。お父さんは、それを受け取った私を見て頷き、
「それじゃあ、夕飯、忘れないように」
「うん」
私の返答を受けて、今度こそお父さんは私の部屋を出ていった。階段を降りていく足音が聞こえ、居間の戸が開き、閉じる音。そこまで聞いてから、私は改めて、手元に残されたそれを見た。
ゆっくりと、布を解いていく。
長い、一枚の布だ。お母さんの遺品のひとつだから、お父さんも大切にしまっておいたのだろう。
布を全て取り去った。後に残るのは、一枚の薄い木の板だ。
お母さんの、パレット。
その表面には、全面に絵具が残されていて。
乾燥して固まったままのそれは、全て、青だった。
青、ブルー、紺、藍、群青、縹、水色、空色、その他諸々。
名前のわかるものも、わからないものも、ありとあらゆる『あお』がここにあった。
お母さんの、青のパレット。
お母さんは、絵を描くとき、ふたつのパレットを使っていた。他の色を載せるパレットと、青だけを使うパレット。
その青を、私はじっと見下ろした。
軽い――けれど、重い。
あまりにも繊細で軽妙な彩りが、パレットの全面を覆っている。そのほとんどが、私にはどうやって調色したのかまるで想像だに出来ないものだ。
――小春先輩が大好きで、憧れて、目指した青がどんな青なのか、見たい。
私の青なんて、数年のブランクを差し引いたところで、お母さんの青には到底及ばない。
けれど。
「…………」
見る。
お母さんの青を。
お母さんが、ずっと、大切に使っていたパレット。お母さんは確かにこのパレットを持って、絵筆を取って、描いていた。
その証。
お母さんの痕跡。
「…………」
私は絵が好きだ。
絵を描くことが好きだ。
お母さんが大好きで。
絵を描いているお母さんが大好きで。
お母さんが描く青が大好きで。
青が、大好きだ。
「…………」
いつの間にか、私は泣いていた。
嗚咽して、咳き込んで、震えていた。
けれど、視線は、顔は、下げない。
きゅ、とお母さんのパレットを胸に抱きかかえた。
お母さんの青を。
筆を取る。
手は、やっぱり震えている。
「…………」
『永遠の青』を、思う。
『境界の青』を、思う。
お母さんが描いてきた青を思う。
私が追いかけ続けていた青を思う。
お母さんの青を思う。
私の青を思う。
「…………」
キャンバスを、見る。
ただでさえ、とても大きなそのキャンバスは。
それ以上にもっと、途方もなく大きく見えた。




