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空色パレット、海色キャンバス  作者: FRIDAY
参 無色透明
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母のキャンバス


 ふ、と吐息した。私しかいなくて、物音もない暗闇に、私の吐息は響くこともなく呑まれて消えた。


 いつまでもこうしてはいられない。単純に、コンクールまで時間がないということもある。でもそれだけじゃなくて、夕海や、他にもいろんな人にまで迷惑をかけてしまっている。心配をかけてしまっている。いつまでも甘えていることは、できない。


「…………」

 滝崎くんは。

 私に、青を使うように言った、私の青が見たいと言った滝崎くんは、どうしているんだろう。

 あれから一度も美術室に行っていない私は、滝崎くんと会うこともないままだ。

 あの日から、ずっと。


「…………」

 滝崎くんに、一体どんな感情を向けたらいいのか、わからない。

 過去を掘り返された怒りか、傷に踏み入られた哀しみか、それとも、全く別の何かか。

 このまま私が青を使えないままだったら、滝崎くんは私をどう思うだろう。

 いや、滝崎くんだけじゃない。――何より、私は、私自身をどう思うんだろう。

 青が怖くなったわけじゃない。嫌いになったわけじゃない。

 今でもお母さんが好きなように、今でも青は、好きだ。

 それなのに、それでも青が使えないような私を。

 他ならぬ私自身は、どう思うのだろう。


「――小春、小春」

 物思いに深く沈んでいたせいで、私を呼ぶ声に気付かなかった。

「あ、え、な、なに?」

 不意を打たれて、慌てて私は声のした方へ顔を向ける。見れば、閉めていた私の部屋の戸が半分ほど開けられ、そこからお父さんが顔を出していた。

「いや、夕飯の準備ができたから、呼びに来たんだが……大丈夫か?」

 お父さんは、心配そうな顔をしていた。

 それも、そうだろう。真っ暗な部屋の中で、キャンバスを前に俯いて座っているのでは。

 それに、お互いにはっきりと確認を取ったわけではないのだけれど、お父さんだって、私が青を使おうとしていることは、わかっている。


 ……お父さんにまで。

 心配をかけてしまった。


「大丈夫、大丈夫だよ。何でもない――夕飯ね、わかった。有り難う、すぐに行くね」

 それでも、せめてこれ以上は心配をかけまいと、私は努めて明るい声で応じて、笑って見せる。ああ、とお父さんは頷いた。

「わかった。それじゃあ、冷めないうちに来なさい――」

 何か言いたげな顔ながらも、そう言い残して部屋を離れようとするお父さんに、しかし私は、

「――あ、お父さん」

 不意に心に浮かぶものがあって、呼び止めてしまった。


 どうした、とこちらに向き直るお父さんに、その、と私は口ごもった。咄嗟に、思いがまとまる前に言ってしまった私は、迷い……けれど、続けた。

「お母さんの使ってたパレット――まだ、残ってる?」

 恐る恐る出した私の問いかけに、お父さんはちょっと不思議そうな表情になりながらも、頷いた。

「若菜のパレット? ああ、あるけど……どっちだ?」

 どっち、というのは、ふたつある、ということだ。そう――お母さんは、パレットをふたつ使う人だった。

 今、私がほしいのはその一方だ。


「――青の方」

「わかった」


 お父さんは頷いて、ちょっと待ってなさい、と言って私の部屋を離れた。それからさほど待つこともなく戻って来る。

 その手に、布の隙間なく巻かれた板状のものを持って。

「若菜の、青のパレットだ」

「……有り難う」

 差し出されたそれを、私は受け取った。お父さんは、それを受け取った私を見て頷き、

「それじゃあ、夕飯、忘れないように」

「うん」


 私の返答を受けて、今度こそお父さんは私の部屋を出ていった。階段を降りていく足音が聞こえ、居間の戸が開き、閉じる音。そこまで聞いてから、私は改めて、手元に残されたそれを見た。

 ゆっくりと、布を解いていく。

 長い、一枚の布だ。お母さんの遺品のひとつだから、お父さんも大切にしまっておいたのだろう。


 布を全て取り去った。後に残るのは、一枚の薄い木の板だ。

 お母さんの、パレット。

 その表面には、全面に絵具が残されていて。

 乾燥して固まったままのそれは、全て、青だった。

 青、ブルー、紺、藍、群青、縹、水色、空色、その他諸々。

 名前のわかるものも、わからないものも、ありとあらゆる『あお』がここにあった。


 お母さんの、青のパレット。

 お母さんは、絵を描くとき、ふたつのパレットを使っていた。他の色を載せるパレットと、青だけを使うパレット。

 その青を、私はじっと見下ろした。


 軽い――けれど、重い。

 あまりにも繊細で軽妙な彩りが、パレットの全面を覆っている。そのほとんどが、私にはどうやって調色したのかまるで想像だに出来ないものだ。



 ――小春先輩が大好きで、憧れて、目指した青がどんな青なのか、見たい。



 私の青なんて、数年のブランクを差し引いたところで、お母さんの青には到底及ばない。

 けれど。

「…………」

 見る。

 お母さんの青を。

 お母さんが、ずっと、大切に使っていたパレット。お母さんは確かにこのパレットを持って、絵筆を取って、描いていた。

 その証。

 お母さんの痕跡。

「…………」


 私は絵が好きだ。

 絵を描くことが好きだ。

 お母さんが大好きで。

 絵を描いているお母さんが大好きで。

 お母さんが描く青が大好きで。

 青が、大好きだ。

「…………」


 いつの間にか、私は泣いていた。

 嗚咽して、咳き込んで、震えていた。

 けれど、視線は、顔は、下げない。

 きゅ、とお母さんのパレットを胸に抱きかかえた。

 お母さんの青を。

 筆を取る。

 手は、やっぱり震えている。

「…………」


 『永遠の青』を、思う。

 『境界の青』を、思う。

 お母さんが描いてきた青を思う。

 私が追いかけ続けていた青を思う。

 お母さんの青を思う。

 私の青を思う。

「…………」


 キャンバスを、見る。

 ただでさえ、とても大きなそのキャンバスは。

 それ以上にもっと、途方もなく大きく見えた。



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