ふたりの距離感
「ザキくん、あれから一度もはるにゃんに会ってないでしょ」
昼休みにわざわざ俺のいる教室にまでやってきて、俺の前に仁王立ちした園田先輩は、開口一番にそう言った。その言葉の意味するところも、言わんとするところもわかる。
俺が一方的に沢城先輩を責め立ててから、という話だろう。
だから俺は頷いた。すると、園田先輩は眉根を寄せ、だんっと俺の机に両手を叩き付けた。
「痛っ……」
「何やってんですか」
「はるにゃんに会ってないどころじゃないでしょ」間の抜けたことをしながらも失速せずに続ける。「ザキくん、あれから美術室に行ってすらいないじゃん。ねえ、何があったの? 美術室に入るなりいきなりはるにゃんを問い詰めて、言うだけ言ったら帰っちゃってその後何も言わないで。はるにゃんずっと困ってたし、私もわけわかんなかったよ。何で喧嘩なんかしたの?」
「……喧嘩というか」
喧嘩にすらなっていないのだが。俺は園田先輩から視線を下に逸らす。
自分勝手だけを言い散らして、その上言い逃げしたことに、負い目を感じていないわけではない。むしろだからこそ、沢城先輩に会わせられる顔がなくて、美術室に行けないでいるようなものだ。
逃げるな、というようなことを言っておきながら、その俺が沢城先輩から逃げている。全く、間の抜けた話だ。
「ちょっとザキくん、何を笑ってるの?」
「いえ……俺は馬鹿だなと、思って」
「何をいまさらそんなことを」
空気読まずに流れをぶった切るようで非常に心苦しいのだが園田先輩にだけは言われたくない。
「まあまあ、園田先輩。タッキーだってこれで結構気に病んではいるんですから、大目に見てください」
ひょい、と横手から統也が顔を出した。助け舟のつもりだろうか。それを受けて、園田先輩は詰め寄っていた俺から顔を離した。
「みやもん、でも」
「ただでさえテンションの低いタッキーがこれだから、僕もちょっと困ってるんですよ。外がどんなにいい天気でも、タッキーの周りだけ空気が澱んじゃってて息がしにくいったらありゃしない」それがフォローのつもりなら俺はお前の人間性を疑うぞ。「とにかくそれだけ、タッキー自身あれは言い過ぎたなとか、ちゃんと反省してるんです。だから今は、そっとしておいてあげてください」
「……でも」
統也に諭されて、園田先輩はまだ何か言いたそうな顔だったが、とにかく矛は収めてくれたようだ。やや落ち着いて、俺に向き直る。
「ねえ、知ってる? ザキくん。美術室に行ってないのは、ザキくんだけじゃないんだよ……はるにゃんも、あれから一度も美術室に行ってないんだよ」
「……そうなんですか」
知らなかった。そもそも、俺と沢城先輩の接点は美術部だけなのだ。学年が違うから教室のある階も違い、ニアミスすることだってまずない。俺があまり出歩く人間じゃないから、校内で見かけるということもないのだ。
「はるにゃん、あれからずっと元気ないんだよ。授業中もずっと上の空で、放課後になったらすぐに帰っちゃう。あれからずっとそんな感じで、もう見てられないんだよ」
「…………」
そんなことを、言われてもな。
俺にどうしろと言うんだ。あれだけ言い放っておいて、どの面さげて会いに行けと。
それに――勢いのままにぶちまけてしまったが、あれは紛うことなく俺の本心だったのだ。
沢城先輩の描く青が見たい。
それを撤回する気は、ない。
「だからさ、とにかくザキくんは――」
口をつぐむ俺に対し、さらに言い募ろうとした園田先輩だったが、廊下から誰かの呼ぶ声がして、く、と言葉を呑んだ。
「……移動教室の途中で来たから、友達待たせてるの。だからもう行かなきゃなんだけど」
悔しそうな表情ながらも、園田先輩は言う。
ずびし、と俺の鼻先に人差し指を突きつけた。
「とにかく! 絶対にはるにゃんと仲直りすること! いいね、絶対だよ! ――私、このまま皆バラバラになっちゃうなんて嫌なんだから」
後半はやや聞き取りにくい声だったが、そう言い残して、園田先輩は小走りに教室を出ていった。俺は一言もないままその背を見送る。
「……なかなか凄い剣幕だったね」
園田先輩が完全に見えなくなってから、統也が寄ってきて言った。
「まあ、園田先輩も園田先輩なりに心配してるんだよ。このままふたりが喧嘩したままだったら嫌だから、仲直りしてほしいって。それは僕も同意見だけどね」
「……仲直りも何も」
喧嘩とも呼べないような一方的なものだったんだって。あれは。
俺の独りよがりと言ってもいい。
俺の様子を見て、統也は肩をすくめた。
「高校国際美術コンクール、か。もう二か月も切っちゃってるわけだけど、普通なら二か月あったって到底時間が足りてないよね。タッキーもかなり無茶を言ったよ」
「……そうなのか」
それについては、それほど深く考えてのことではなかった。直近の大きなコンクールがそれしかわからなかったからだ。
「で、そんな時間のないなかで、美術室に一度も入ることなく、沢城先輩は毎日まっすぐに帰宅している。――これは、初めから描く気がないともとれるよね」
「……やっぱり、そう思うか」
それは、俺も薄々考えていたことだ。だが、
「いいや、思わない」
自分で振っておいて、前言を軽々と翻す。どういうことだ、と統也を見るが、統也はまたも肩をすくめた。
「別に、何の根拠もないんだけどね。でも僕は、沢城先輩が何もしていないとは、思わない――タッキーほど沢城先輩と関わってきたわけじゃないけど、そう信じられる。タッキーだって、そうじゃないの?」
俺は何の反応も返さない。けれど――確かに、そうだ。
沢城先輩は、結局青を諦めたままなんじゃないかと、そういう思いも確かに少なからずある。
けれど、決してそんなことはないはずだ、という思いも、あるのだ。何の根拠もないのだけれど。
信頼、というにはおこがましく。
願望、というよりは確固とした思い。
「……喧嘩したわけじゃない。だから、仲直りっていう距離感も取れない。けど」
こんな、まるで喧嘩別れしたみたいな感じも、嫌だな。
言いたいことを全て言い切ってしまった俺に、沢城先輩へ向けてできることはない。できることは、待つことだけだ。
沢城先輩が、青を描くのか、描かないのか。
その答えが出るまでは、俺と沢城先輩との距離は埋まらない。
「――それにしてもさ、タッキー」
俺の中である程度の形を伴った決着がついたことを察してか、ふと統也が緊張のない声をかけてきた。何だ、と見ると統也は何やらにやにやと笑いながら、
「あのときのタッキー、男前だったよねえ。沢城先輩のこと、小春先輩、とか下の名前で呼んじゃった痛い痛い耳を引っ張らないで!」
「あれは別に、変な意味があったわけじゃないぞ。ただ、沢城先輩のお母さんと沢城先輩を混同しないようにというか、より言葉が伝わるようにあえてそう呼んだ、というか……」
深い意味のあったことではないのだ。全く、統也はそういう細かいことにいちいちかかずらうから往々にして鬱陶しい。必死で暴れる統也の耳を離して、俺は吐息した。
――ああ、そうだ。
「なあ、統也」
「何だいタッキー、まるで何事もなかったかのように。僕の耳の形が変わっていたらどうしてくれるんだ。僕も園田先輩に倣ってタッキーのことムハマドとか呼ぼうかっと御免なさい何でもないですっ」
「今週末、お前暇か」
俺の手を逃れて距離を取った統也に問う。先程俺に捩じり上げられた耳をさすりながら、何さ、と統也は答える。
「まあ、特に予定はないけど。何で?」
「いや……それなら、お前も一緒に来い」
行きたいところがあるんだ。
俺はそう言った。




