沢城小春の青
完全に、陽が沈んだ。
部屋は暗くなる――けれど、私は電気をつけることもなく座っている。
真っ暗なわけではない。カーテンも開け放したままのお陰で、月明り、街灯りが差し込んで、薄ぼんやりとはいえ部屋の中は見える。
机も、本棚も、画材が並べられた戸棚も。
右手に握られたままの絵筆も。
左手に載せられたままのパレットも。
目の前にそびえるキャンバスも。
――青を、使ってください。
滝崎くんに詰め寄られてから、もう一週間以上が過ぎた。あれから私は滝崎くんとは一度も会っていない。それどころか、私は美術室にすら行っていなかった。授業が終わるとまっすぐに家に帰り、こうして自分の部屋にこもって、キャンバスを前にして黙って座っている。その繰り返し。
画材は、揃えてある。もともと持っていた物だって多かったし――ずっと避けてきた青系統の油絵具をあっさり購入できたときは、何だか拍子抜けしたような気もした。
けれど、いざキャンバスと向き合うと、手が動かない。
調色どころか、絵具をパレットに載せることすらできない。
他の色なら、難なくできるのに。どうして。
――二か月後の高校国際美術コンクール、それに、出品してください。
高校国際美術コンクール。それは、高校生の部でも最大のコンクールだ。――滝崎くんが知っていたのかはわからないけれど、実のところ、母も学生時代に出品して、しかも大賞を取っていた。――母が大好きだった、青で。
母も通った道。
だからだろうか。
国内最大級のコンクールなのだから、中途半端な作品なんて出せない。けれど、ゼロから始めるには二か月という期間はただでさえ短くて、しかも私はそれを、既に一週間以上空費してしまっている。
「…………」
滝崎くんの顔を思い出す。口調を、語勢を、視線の強さを思い出す。
私は、私に詰め寄る滝崎くんに、何も言えなかった。
思いはあった。言いたいことは、確かにあった。けれど、何ひとつとして言葉にできないまま、滝崎くんを力なく見返すことしかできなかった。
「…………」
滝崎くんが、どうして私の母のことや、私自身のことを知ることができたのか。はるかちゃんが教えた、ということも多いだろうけれど、でもそれだけでもないと思う。私の知る限りのはるかちゃんの性格からして、全てを簡単に教えてしまうようにも思われない。調べたんだろう。本当に。滝崎くんの友達で、夕海ともよく漫才めいた掛け合いをしている宮本くんも、知っているようなことを言っていた。私自身、強いて隠そうとしていたわけでもない。真剣に調べれば、いずれ誰にでも知られることだった。
真剣に調べれば。
「…………」
どうして、そんな真剣に調べたの?
――俺は、『永遠の青』が好きでした。
好きだから。それだけの理由で、調べられてしまうの?
いや……好きだからっていう、それだけの理由で十分なのか。
私が、母が好きで、母の青が好きだったという理由で、青が使えなくなっているように。
でもね、滝崎くん。母はもう――
――若菜さんは、いなくなってしまった。
そう、お母さんはもういない。
いなくなってしまった。
――若菜さんの代わりを、小春先輩に求めているわけじゃない。
代わりになんか、なれっこない。お母さんの青は、私が描けるどんな青よりも、綺麗だ。
届かない。
届かないまま、お母さんは逝ってしまった。
――青が嫌いになりましたか。
なってない。
「嫌いになんか、なるわけがない」
――絵は、好きなんですよね。
「好きだよ」
――今の小春先輩は、ただ中途半端に逃げているだけだ。
「……そうなのかな」
逃げているだけ、なのかな。
――小春先輩が大好きで、憧れて、目指した青がどんな青なのか、見たい。
「有り難う、滝崎くん。でもね――」
私は、自分の手を見下ろした。
絵筆を持つ指は、手は、震えていた。
真っ白なままのキャンバス。
彩ることのできない筆。
囁く私の声は、震えていて。
「使わないんじゃないんだ」
濡れているような、そんな気もした。
「使えないんだよ――」




