どうかきっと、もう一度
「――沢城先輩は、どうして青を使わないんですか」
美術室に入って、いつもの場所で林檎を描いていた沢城先輩を目にするなり、俺はそう言った。
室内には統也も園田先輩もいたが、俺は全く構わない。
沢城先輩だけを、見据える。
「……え?」
藪から棒な発言だ。それくらい、俺だってわかっている。統也や園田先輩も、どうしたの、と驚いているし、沢城先輩だって困惑の表情を浮かべている。
だが、俺は退かない。
「教えてください。沢城先輩は、どうして青を使うことをやめたんですか」
つかつかと前に出る。沢城先輩までの距離は、二メートルほど。
俺は、沢城先輩をまっすぐに見る。
「どうしてって……」
「俺はこの美術部に入部して、もう半年以上経ちます。沢城先輩が絵を描いているのも、何度となく見てきました――でも、俺は沢城先輩が青を使っているのを見たことがありません。どうしてですか」
語調も強く、俺は沢城先輩に迫る。沢城先輩は、唇を引き結んですぐには答えない。
「ど、どうしたのザキくん、怖い顔して。はるにゃんが青を使わないって……」
ここにきてようやく我に返った園田先輩が、恐る恐るといった感じで横手から口を挟んでくる。黙ってろ、とは言わない。じろりと視線を向ける。
「園田先輩。園田先輩は沢城先輩と、俺よりも付き合いが長いはずです。俺以上に、沢城先輩が絵を描いている様子を見てきたでしょう。思い出してください、沢城先輩が青を使っている情景を」
言われて、園田先輩は何か言おうとし、しかし口を閉じた。すると今度は統也の方が、
「で、でもさタッキー」
「お前はとりあえず黙ってろ」
「あれ⁉ 何か僕の扱い酷くないかな⁉」
無視する。再び沢城先輩に焦点を戻す。
「……『永遠の青』の作者が誰か、わかったんです」
語勢を抑えて、声音も落として沢城先輩に言う。すると、注意深く見ていないとわからないくらいに微妙に、沢城先輩の表情が強張った。
「そ……う、なんだ」
「ええ。わかったのは、ほぼ偶然と幸運に依るものでしたが」
頷いて、俺はさらに一冊の冊子を抜き出した。あらかじめ付箋の貼られていたページを開き、それを沢城先輩に向ける。
そのページは、
「『境界の青』です。沢城先輩が、三年前に描き上げた――沢城先輩の、最後の青。これ以降、沢城先輩は青を使っていない」
淡々と言う俺に、沢城先輩は何も言わない。
ただ、じっと、かつて己が描いた絵を見つめている。
「全て知ってしまえば、ふたつはあからさま過ぎるくらいに繋がっていた。途中で確信してもよかったくらいに。でも俺は、繋げて考えていなかった。『永遠の青』と『境界の青』。よく似ているわけです――描いたのが、親子なら」
横手から、園田先輩の息を呑む音が聴こえた。統也の反応はわからない。
沢城先輩は、反応しない。
「失礼なこととは重々承知で、俺は沢城先輩のお母さんのことを知ってしまいました。俺と同じ第三中学の卒業生であることも、職業画家だったことも、『青の魔術師』と呼ばれていたことも、――もう既に、亡くなられていることも」
沢城先輩は、まだ何も言わない。
ただ、感情の見えない瞳で俺を見返す。
「沢城先輩が『境界の青』を完成する間際に亡くなって、それ以降沢城先輩が一度も青を使っていないこと。一時期は絵を描くことそのものができなくなって、それでも今では絵を描くことそのものはできるまでになっているということ」
「――はるかちゃん、だね」
小さく、つぶやくように沢城先輩が言った。情報源のことだろう。俺は頷く。
「ど――どうしてザキくん、そんなに怒ってるの? そ、それに、ダメなんだよ? 人のことそんなに踏み込んで調べたりなんかしちゃ」
「わかってますよ、そんなこと。これが、失礼極まりないことだなんて」
恐る恐る、介入してこようとした園田先輩を、ばっさりと切り捨てる。
どうして怒っているかって? 知るか。
自分でも、どうしてこんなに憤っているのか、わからないんだから。
ただ、腹の底で何かが渦巻いているんだ。
「統也。お前、知ってたんじゃないか。この話を。少なくとも、文化祭の打ち上げの時には」
どうなんだ、と統也を見る。統也は――頷いた。
「うん――実は、ね」
「どうして黙ってたんだ」
「そんな簡単に、言えるような話じゃ、ないよ」
視線を落として、統也は言う。
「あれくらいの絵だから、何か賞を得ているはずだと思って、近いと思う年代の関連雑誌を片っ端から読んで、見つけたよ。そこから先は、もっと簡単だった――けれど、それは個人の問題で、他人が気安く踏み込んでいいような話じゃ、なかった」
そうだ。他人が安易に入り込んでいいようなものじゃあ、ない。
けれど、俺は立ち止まらない。
「沢城先輩」
視線が、こちらに向く。未だ色の見えない瞳が。
「――青を、使ってください」
沢城先輩の瞳が、揺れた。引き結ばれた唇が震えた。
「二か月後の高校国際美術コンクール、それに、出品してください――青を使って」
さらに、前に出た。沢城先輩との距離を詰める。手を伸ばせば届く距離まで近づいて、目線の高さを合わせて、跪く。
わずかに、沢城先輩の肩が跳ねた。
構わない。
「俺は、『永遠の青』が好きでした。あの青が好きでした。どんな人ならあんな青を描けるのか、あの青を描けるのは一体どんな人間なのか、それが知りたくなった。――多分、あの『永遠の青』が作者不明で、名前も何にもわからなかったから、なおさら知りたくなったんでしょう。名前だけでも最初からわかっていたのなら、ここまで熱心に調べなかったはずです。とにかく、俺は『永遠の青』について知りたかった」
でも、
「わかってみれば――開いてみれば、描き手は既に亡くなっていた。『永遠の青』を誰が描いたのかがわかっても、その人に会うことも、その人の新しい絵を見ることも叶わない。『永遠の青』の作者は――大宮若菜さんは、沢城若菜さんは、もういない」
沢城先輩の目を、まっすぐに見る。
「若菜さんは、いなくなってしまった」
「…………」
「でも、だから沢城先輩に、小春先輩に青を使ってほしいわけじゃないですよ」
つ、と沢城先輩の視線が流れた。それは、俺が未だ開きっぱなしに持っている冊子。
『境界の青』。
「若菜さんの代わりを、小春先輩に求めているわけじゃない……確かに、若菜さんの青と小春先輩の青は、似ていると思った。だから混乱したりもした。――でも、やっぱり、違うんですよ。若菜さんの青と、小春先輩の青は、違う」
違うんです。
「どうして青を使わなくなりましたか。どうして青を使えなくなりましたか。青が、お母さんの青が好きだったんでしょう。青を描くと、亡くしたお母さんを思い出しますか。大好きだった青に、大好きだったお母さんを思い出しますか。思い出すことが辛いですか?」
問う。
「青が怖くなりましたか。青が嫌いになりましたか。一度は絵を描くことすらできなくなりましたよね。でも今、小春先輩は絵を描くことはできている。また描けるようになっている。絵も、青も、どちらもできなくなったのに、絵を描けるようにだけはなった。どうして青は使えないんですか?」
問う。
「絵は、好きなんですよね」
言う。
]
「小春先輩は絵を描くことが好きだ。ずっと好きだった。お母さんが亡くなる前も、亡くなってからも、今だって、ずっと絵が好きだ。――青だって好きでしょう?」
「いや、でもはるにゃんは青が使えないって……」
「そうです」
園田先輩に、俺は間髪なく頷く。
「だからこそ、小春先輩は青を使わない。青が使えない。小春先輩にとって一番大事な、大好きな色だからこそ、簡単には使えない。どうでもいい色なら、こだわりのない色なら、こんなに徹底して避けることはないでしょう。――大切だからこそ、です」
でも、
「けれど、それじゃあ――ダメだ」
言葉を選ぼうとして、結局そんな、子供じみた言葉しか出て来なかった。
「小春先輩は、今の小春先輩は、ただ中途半端に逃げているだけだ。絵は描くのに、青は描かない。どちらも大好きだというのに、一方からは逃げている。半端でしょう。中途半端です。それじゃあダメです」
ダメだと、繰り返す。
繰り返す。
「青を使ってください」
言う。
言ってやる。
「俺は小春先輩の青が見たい。小春先輩が大好きで、憧れて、目指した青がどんな青なのか、見たい」
小春先輩は、何も言わない。
無言のままに、俺を見返す。
その瞳に浮かぶ感情は、俺には見えない。
だが、例えそこに何があろうとも、構うものか。
言いたいことを、言ってやる。
「俺には絵心なんてものはありません。自分でも恥ずかしいくらいに全くない。けれど、そんな素人目の俺でも、『永遠の青』を一目見て凄いと思った。『境界の青』を見ても、やっぱり凄いと思った。背筋が冷える思いでしたよ。――それじゃあ、今の小春先輩が青を使ったら、一体どんな絵が描けるんですか」
自分でも驚くくらいに次々と言葉を次いで、そして、一息呑んだ。
「俺は、先輩の描く青が、見たい」
見せてください。
小春先輩の青を。
小春先輩の瞳を揺らすのは、唇を震わせるのは、不安か、恐怖か。
「――ぁ」
その喉からもれた声は、掠れていて。
俺は、答えを聞く前に立ちあがった。
「タッキー?」「ザキくん?」
「――滝崎くん……」
小春先輩に背を向けて、俺は何も言わずに戸口まで離れた。戸を開けて、だが一拍止まり、振りかえらないままに、
「突然、すみませんでした。――今日はもう、帰ります」
そう言い残して、俺は美術室を出た。




