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空色パレット、海色キャンバス  作者: FRIDAY
弐 混色交錯
20/33

『境界の青』

「小春のお母さんは、画家だった。それも、割と有名な、ね。一部じゃ『青の魔術師』とか呼ばれていた」

「……青の」


 それは……だが、俺がそれについて明確な考えを打ち出す間もなく、大宮さんは話を進めてしまう。


「小春はお母さんが好きでね。お母さんに憧れて、小春自身も絵を描くようになっていた。母親譲りか、これもまた上手でね。お母さんに習いながら、その母の描く青を目指して描き続けていた。めきめきと腕を上げていっていた小春は、中学生の時、当時の技量の全てを込めて、お母さんには内緒で傑作を完成させようとしていた。それを中等部で全国区の難関コンクールに出して、大賞を取れば、きっとお母さんは喜んでくれる――ってね」


 そこでようやく、俺の注文していたコーヒーが運ばれてきた。メイド服を着込んだ女子生徒が丁寧に置いてくれるが、俺は見向きもしない。話が途中だ。

 メイドが立ち去るのを待って、大宮さんは再び口を開いた。


「順調に作品は完成し、小春はコンクールに出品した。そして見事、小春はコンクールで大賞を取った。全国統一絵画コンクールでね」

「――『境界の青』」

 俺の言葉に、大宮さんは頷いた。


 戸木沢先輩に見せてもらった、あの冊子を思い出す。

 そこに掲載されていたあの絵を、思い出す。

 あれは確かに、傑作と呼ぶにふさわしい出来栄えだろう。

 そこまで聴けば、それは成功譚のひとつでしかない。サクセスストーリー、母親に憧れた娘による親孝行――けれど。


 大宮さんは、だけど、と続けた。

「入賞作品の発表が行われる数日前に、小春のお母さんは亡くなった」

 病死だった、と。


「実は小春のお母さんは、小春の知らないうちに重い病気に罹って苦しんでいた。けれど娘を心配させまいと、隠そうとして隠しきれていない娘の努力に障ることのないようにと、お父さんにも強く言って、自分の病気を隠していた。小春には気づかれないように通院して、治療をして――でも、ダメだったの。仮に入院していたって、現代医療じゃ余命を延ばすのが精いっぱいの病気だったらしいわ。お母さんは、それでもせめて、小春が絵を完成させるまでって頑張っていたんだけど……間に合わなかった」


 大宮さんは、自分の前に置かれたままのコーヒーを見つめる。

 俺が来た時にはまだわずかに湯気を立てていたそれも、今はすっかり冷え切ってしまっていた。


「小春はその事実を、お母さんが亡くなってから知ったの」

 カツン、と爪先でカップの縁を弾く。

「ただでさえ、大好きだったお母さんが亡くなって傷ついていたのに、そんなことを知って……自分の知らないところでお母さんが苦しんでいて、それでも自分のことを考えて、隠して、絵を教えてくれ続けて、そして一切に気付くことができなかったということは――小春には、辛すぎた」

 大宮さんは言う。

「小春は、筆を持てなくなった」

 絵が、描けなくなった。


「青が使えないどころじゃない、一切、絵が描けなくなった――ずっと塞ぎ込んでしまって、コンクールの授賞式にも欠席した。学校にもしばらく行けていなかったわね。痛々しくて見ていられなかったけれど……私は、それじゃダメだと思った」

 だから、と大宮さんは言う。

「あの子が東高に入学してきたとき、私はあの子を強引に美術部に入部させたの。その当時から部員はほとんどいなかったからそれに託けたりとか、あれこれと理由をつけてね。あの子は抵抗しなかった。どうでもいい、みたいな感じだったわ。とにかく私はあの子を入部させて――それから、無理矢理絵を描かせた」


 大宮さんはカップを取り、唇を湿らせる程度に口に含んだ。

「とにかく、なんでもいいから描かせるべきだと思ったのよ。小春は、多少嫌そうな顔はしたけれど、強く抵抗することはなかったわ。けれど、キャンバスの前に座っても、何も描かなかった……描けなかった。それでもダメだと思って、私が言ったのよ。それじゃあ、って。『一日一枚、毎日林檎の絵を描きなさい』」


 それは、沢城先輩のあのルーチンワークの話か。別段林檎が好きなわけでもないと言っていたのに、毎日真面目に描き続けていたのは、そういう始まりだったのか。


「いろんな技巧の参考書を買ってきてね、これで描いたら、これはどうか、って勉強させた。そうしていたら、そのうち、少しずつ描くようになっていったのよ。――やっぱり、本質的に絵を描くことが好きなのよね、目に見えて明るくなっていったわ。私が卒業する頃には、少なくとも見かけは、もとの明るさが戻っていた。――けれど、どうしても青を使わせることができなかった。私じゃあ、小春に青を使わせることはできなかったのよ」


 言って、ふ、と大宮さんは吐息した。

「――これが、小春が青を使わない、使えないことにまつわるお話。つまり、『境界の青』を描いて以来、小春は青を使っていないのよ」

「……大宮さんは、どうしてそんなに沢城先輩のことを知っているんですか? どうやら、高校に入学する以前から知っていたみたいですけど」

 話を聞いた第一の質問、としてはやや的外れなことを訊いているような気分になったが、大宮さんは快く答えてくれた。

「ああ、それはね。実は私と小春が親戚だからなのよ。私のお父さんと小春のお母さんが兄妹でね。小さい頃からよく遊んでいたの」

「そうなんですか」

 世間は狭い、ということか。親戚で幼少から親しかったのなら、沢城先輩が大宮さんを『大宮さん』ではなく『はるかちゃん』と呼ぶのも普通だろう。これで、それについては一応の納得はいった。

 それじゃあ、もうひとつ。


「……大宮さんは」

 俺は、口を開いて言った。声が掠れたので、今やすっかり冷めてしまったコーヒーを一口すすってから、

「大宮さんは、どうして沢城先輩に青を使ってほしいんですか」


 俺の問いに、大宮さんの顔から一瞬だけ一切の表情が失せた。けれど、すぐに笑みを取り戻して答えた。

「そうね……小春に、お母さんのことを克服してほしい、とか、そういう理由も勿論あるんだけど……一番は、凄く単純な理由ね」

「単純な?」

「ええ。――ただ私が、小春の青を見たいだけよ」


 その笑みは。

 これまで大宮さんが浮かべ続けていた笑みとは違って、どこか寂しさの感じられる笑みだった。


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