先輩の思い
いや、そうは言っても、別に沢城先輩とふたりきりというわけじゃない、統也も園田先輩も一緒に来るだろう――と思っていたら、どういうわけかふたりとも示し合せたように用事を思い出し、どこかへ行ってしまった。
いやいや、だからといって、別に何かあるわけじゃない。気負うほどのことでもない――古谷先輩には実に二時間近くの暇を出されてしまったが、別に普段から沢城先輩とは部室でふたりきりなのだ。身構えるほどじゃない。静謐な午後の部室も騒がしい学祭の只中も大きな違いはない。実際、横を見て見ろ。そこを歩く沢城先輩は、尊敬したくなるくらいに自然体だ。
うん。
「どうしよっか。どこかのクラスに入る? それとも外の出店で買って、適当な場所で食べる?」
「うーん、そうですね……」
正直、どちらでもいい。そんな俺の内心が顔に出ていたのか、俺のスタンスなど知ったものということなのかはわからないが、沢城先輩は「じゃあ外にしようか」と前に出た。
「食べるついでに、中庭企画見よう。今は多分、音楽系の部活の発表か、生徒会主催のカラオケ大会だね。中庭に入るところの階段は日陰だから、その辺りに座って」
そうですね、と俺は頷いた。それなら間も持つし、嫌な緊張もしないで済むだろう。
昇降口から外に出て、中庭に入る。そこに並ぶ部活動の出店、屋台を適当に見繕い、俺は焼きそばを、沢城先輩はお好み焼きを買った。それを持って、予定通り日陰になっている階段の、空いている位置に並んで座った。特設ステージではちょうど吹奏楽部の演奏が終わったところのようで、次は生徒会主催のカラオケのようだ。
「今年もすっごい盛り上がってるねえ」
割り箸でお好み焼きをつつきながら、沢城先輩は目を細めた。
「俺はこれ、初めてなんですけど、東高の学祭って毎年こうなんですか?」
「東高って言うか、合同文化祭だけどね。去年はねえ、西高でやって、これが結構盛り上がったんだけど、二日目から雨が降っちゃって」
今年は晴れてよかったねえ、と沢城先輩は笑う。
「今年は天気予報もいい感じだし、雨が降る心配はないかな。いきなり崩れたりしなければいいけど」
「そうですね」
頷いて、俺も焼きそばを箸で掬い取り、口に運んだ。麺類をすするのは、実は苦手だ。
焼きそばを押し込む俺の顔を、ふと沢城先輩が覗き込んだ。
「ねえ、滝崎くん」
「ふぁい……はい、何でしょう」噎せかけた。
「何か、あったの?」
いきなり何の話だろう。どういう意味ですかと問い返すと、沢城先輩は小首を傾げた。
「いや、ね。なんとなく。悩んでそうな顔してたから」
「そうですか?」
俺は何でもない顔をして返す、と信じる。もともと内心が顔に出やすいタイプではないと思うのだが、沢城先輩は妙に聡い人だし、実際悩んでいることも事実だったから、俺は少なくとも外面は平静を装う。
別段、隠すこともないはずなんだが。何もありませんよと返事する。そっか、と沢城先輩は頷いて、自分のお好み焼きに戻った。
「まあ、悩みなんて尽きるものでもないだろうしね……実際、今年は滝崎くんのお陰で凄く助かったから」
「そうなんですか?」
沢城先輩を助けた記憶なんて、ただの一度もないのだが……非情という意味ではなく、助けられることがそもそもなかったはずなのだが。俺はずっと、ただ部室にいただけだし、この文化祭にしたって、俺がやっているのは当日の店番だけだ。
だが、俺の内心をよそに沢城先輩は頷く。
「実は、美術部って冗談じゃなくて、本当に廃部寸前だったんだよね」
「……それは」
初耳だ。先程会った大宮さんがそのようなことを言っていたが、冗談ではなかったのか。
「少なくとも同好会に降格か、予算の削減は確実だったんだけど……まあ、それも仕方ないかなとも思ってたんだけどね」沢城先輩はお好み焼きを箸先で切り分けていく。「どのみち、私ひとりじゃ予算をたくさんもらっても使わないし。コンクールなんかにも出さないからね」
「え、出さないんですか?」
俺は驚いて思わず声を上げた。――そういう話をしたことが実は初めてだったのだが、俺はてっきり、沢城先輩はコンクールなどには出しているものだと思っていた。だって、沢城先輩は毎日林檎の絵を描いているが、その後にも別の絵を描いているのだ。林檎の方は文化祭で売るためのものだとしても、もう一方の方は何かに出品しているものだと思っていた。
沢城先輩は頷く。
「深い理由があるわけじゃ、ないんだけどね……何となく、出してないんだ。いつも描いてるのは、林檎の絵も含めて、全部私のただの趣味」
切り分けたお好み焼きの一切れを沢城先輩は自分の口へと運んだ。咀嚼し、飲む。
「去年も、結局ひとつも出さなかったし、今年も秋に一番大きなコンクールがあるんだけど、多分、出さない。戸木沢さんや古谷さんも、出した方がいいって言うんだけど……何となくね。出せなくって」
だから、と沢城先輩は続ける。
「生徒会としては、目に見える活動が必要なんだよね。それを見て、結果は二の次に、ちゃんと活動しているかで、予算繰りを計上するわけで、部員が私ひとり、コンクールにも出してない、となれば、今年こそ予算が全くもらえないかもしれないかとも思っていたけれど……滝崎くんが来てくれたお陰で、実は去年より予算がもらえてたりしてね」
にこっと、沢城先輩は笑った。――いや、それについては、やはり俺はただいるだけの存在なわけで、礼を言われても挨拶に困るところなのだが。
しかし、沢城先輩の言葉にはまだ続きがあった。
「最初はね、実は、男の子とふたりきりっていうのはちょっと抵抗があったんだけれど、滝崎くんは思っていたよりも静かな人で、安心してたりしたよ。夕海はもともとよく来てたけど、宮本くんも来るようになって、もっと明るくなった。――正直ね、静かなのは好きだし、集中もできるけれど……寂しかったりも、したんだよ」
それは、一体何の告白なのだろう。
何をもっての、どんな意図をもっての告白なのだろう。
判断できない俺は、反応もできない。
「だからね、何と言うか……一度、ちゃんとお礼を言っておきたくて。言ったこと、なかったから。――有り難う」
「……いえ」
そもそも礼を言われるようなことでは、ないです。
全く。
俺は俺の目的をもって、入部しただけ、だったから。
だから――違うんです。
「……いえ」
初めからそう言っていて、隠していることではないのに、俺は何も言うことができなかった。
「――へっへっへ、楽しんでますかいおふたりさん」
不意に横手から、よく知った声が聴こえてきた。というか、
「……なにやってんだ、統也」
呆れを含んだ目で見やると、統也だけでなく園田先輩もいた。一体どういう趣向なのか、とんでもなくレンズの大きなサングラスを装着している。
超下っ端のチンピラみたいな面構えになっている。
「……何がしたいんだ」
「いやなに、青春をささやかにかつ壮大に盛り上げてあげようかと」
「出オチでつまらない」
「直球過ぎる!」
阿呆なふたりに、俺はため息をつき、沢城先輩と顔を見合わせて苦笑した。
けれど――心のどこかで、俺は安堵していたのは確かだった。




