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イリアの世界  作者: 一集
第二章
71/75

60.イグニスと竜の鐘


平時のシリルには揺れる心がない。

誰かを害することもなく、撫でられ可愛がられ、それに甘んじるマスコットのようなものだ。

プライドはないのかと男子生徒に揶揄られたこともあるが、シリルはかわいらしく笑って「あるわけないじゃない」と答えた。


それはどこか一部が荒れていようと大勢に影響はない広い海のようだった。

その大海には逆鱗がない。

守るべき秘めたる宝もない。

海面が荒れていたとしても、潜ればそこは静かで穏やかに凪いだ深淵。


普段のシリルを知る者は、今回の事件で見えた彼の二面性はまさしく驚愕の一言だっただろう。

だが、シリルから言わせれば普段の自分こそがまどろみの中なのだ。

目を閉じた、うたた寝の最中。


シリルを構成するもの。

空と、風と、重力と、体を巡る沸騰する血。


空を見上げれば、魂が目覚める。

そう、これは目が覚めるという感覚に等しい。


向けられた敵意に、勝手に漏れ出す魔力が足元で渦を巻いた。

意識すらせずに飛行陣が描かれ、重力の楔を引き千切ろうと蠢き出す。


魔力が風を生んで、空へ帰ろうとシリルを誘った。


高揚に、地に着けているはずだった足がふわりと浮く。

全身に巡る魔力が爪の先、髪の毛の一筋までに行き渡り、銀色の髪に交じる紅が深く色を増した。


シリルが着実に支配空を広げている彼の世界、ワールド・アトラスは現実世界とほとんど遜色がないくらいに似通っていた。

だが一つだけワールド・アトラスにはないものがここにはある。


精霊だ。


歓喜した精霊の気配がした。

人の目には見えないけれど、不自然な風がシリルに吹く。


人々は目に見えない何を感じ取って不安気に辺りを見渡した。

魔物の大暴走に加えて飛竜の突然の襲来。

もうこれ以上は勘弁してくれ、というのが彼らの本音だろう。

事実、許容量がオーバーしているのか、本来なら「一体なんだ!」と何の解決にもならない怒鳴り声を上げていたはずの彼らは言葉の一つも発しなかった。


ふんと、シリルが鼻を鳴らした。


「まるで畜生だな」


高次元の意識体を気取っているにしては品がないと、シリルはもう少しマシな思考を持つはずの風の精霊王に皮肉を呟く。


それは好物を前に涎を垂らす犬の如く。

もはや狂喜乱舞。

狂ったように踊る躁の感情がシリルにすり寄って、マーキングのようにまとわりつく。


「お前たちは要らない。風の精霊王(イグ)、どこかに連れていけ」


助力?

冗談だろう?

僕を誰だと?


矮小な存在の癖に、手を貸そうだなんておこがましさに怒りすら湧く。

存在すら吹き飛ばす(怒り)に、精霊王が慌てて自分の子供たちを引き離しにかかった。


ウザい、邪魔だよ、そこからどいて。

心を込めて、そう伝える。


少しでもシリルに関わりたいと、未練がましさを引き摺る気配をぎっと睨んで吹き飛ばす。

風の精霊たちは王に促され、渋々と項垂れながら離れていった。


風の精霊王はシリルの性質をよく理解している。

しているから不用意にベタベタと纏わりついたりはしない。

だが、話しかけられれば飛んでくる位には惹かれてもいる。


精霊使いとも称されるリィンが、風の精霊王の使役頻度が低いのにはそんな訳があった。

こうしろ、ああしろと命じていたとしても、シリルの一言ですっ飛んでいくのだから然も在りなん。

同じ理由で火の精霊王も使いにくい。

彼はランスが大好きなのだ。


王ですら不要と言い切るシリルに、当然のごとく拒否された精霊たち。

彼らは代わりに、『次』に好ましい気配にふらふらと飛んでいく。

とても近くで、同じ空の気配と風の匂いがするものだから、精霊としての本能が働いたのだろう。


風の精霊がくるくると回る。

風を従える精霊が即座に祝福の加護を与えるくらいには、空に縁を持った者。

人ではない。

人型でもない。

それは頑丈な鱗を持ち、その巨体からは想像できない速度で、空を駆る者。


竜だった。


イグニスと呼ばれた雄竜は風が従うさまに、喉を歓喜に鳴らす。

口の端から漏れ出る炎は空気を燻らせて対流を生んだ。


「おや? これは思わぬ副産物(展開)


くつくつとシリルはそれを笑う。


いいんじゃない?

これは、すごく、楽しんじゃない?


「ねえ、ちょっと、飛んでみてよ」


シリルは上機嫌にイグニスに言った。


実力が見てみたい。


「君だけの力なんて高が知れてるけど、ドーピングありなら話は別だもの」


イグニスは答えの代わりに風を纏った。

翼を一振り。


次の瞬間、衝撃が人々を襲い、

――――彼らが最終的に認識した光景は、竜の頭を踏みつけて高笑いしているシリルだった。


一瞬でシリルの元まで迫り、返り討ちにされたらしい。

いわゆるかかと落としがきれいに決まった形だ。


頭上から床に叩き落された衝撃で石造りの塔の一部が陥没していた。

人の重み一つで床が抜けるかもしれない、修理は必須だろう。


「……ん~、まあ、合格かな」


偉そうに竜の頭を足蹴にしたまま、シリルは少し悩んで可愛らしく笑った。

足に力が入ったのは周囲にも見て取れる。

シリルにへばりついていた魔法陣が高速で回転し、何らかの作用をイグニスに齎す。


ぎゅう、とイグニスが開かない口の中で炎を溜めながら鳴いた。

泣いた、の間違いかもしれない。


「ぼくは心が広いからね。今までの無礼には目を瞑ってやろう。……だから、ほら、わかるだろう? ――自分が、今、何をすればいいのか」


悪魔の笑いとはこういうものを指すのだろう。


「……どっちが悪役かわかったもんじゃねーな」


ウィルがぼやくくらいには周囲はドン引きしていた。

トラウマ級の暴虐だ。


ぐぐぐと、ふらつく体を懸命に。

けれど、緩慢にイグニスがその巨体を起す。

ぼたぼたと口から落ちるのは得意の炎ではなく、血だった。


ひい、と貴族たちが慄く。

算盤的な話なのか、あるいは血に対しての本能的な恐怖なのかは判然としない。


シリルの重力魔術がその身に圧し掛かったままであることを考えると、動けるだけで脅威の力だった。

が、イグニスはそうしなければならなかったのだ。


王が、そうお望みなのだから。


ふらふらと身を立て、その太い首を下げて服従を示す。

周囲からは呻き声のような、苦い声が上がる。


もちろんシリルがそんなものに頓着するはずもなく、イグニスの頭を睥睨しながら愉快そうに顔を歪めた(笑った)


「正解」


言って、シリルは地面を離れた。

高貴なる生き物の頭を踏みつけ、首を渡り、その背に危なげもなく立って、命じる。


「誰よりも速く、誰よりも巧みに」


さあ、

――飛べ。


イグニスは吼えた。

無数の空飛ぶ魔物に、渾身の怒りを込めて。


浸透していく(しまう)命令に、従わされる屈辱と鬱憤を練り込み、羽ばたく。


豪風は一度だけ。

ふわりと、緩やかな滞空は一瞬。

弾丸のように飛び出した。


鍛えられていない人々の動体視力では追うのがやっと。


若い雄竜は狙い定めた魔物に迫る。

通り抜け様、その爪で引き裂き、その牙で噛み砕き、その炎で燃やし尽くす。

イグニスから逃れられるものはいなかった。


速さと攻撃力の高さと強靭さと魔法。

これといった弱点を持たず、それ以外を高水準で保つ。


竜が最強種の一角を担っている理由を、人々はそこに垣間見る。


地上で青い旗を振る人々が空を指差し叫んでいた。

搭の上の騎士と貴族もまた、喝采を上げる。


「遅い!」


不満を口にするのはシリルのみ。

攻撃はともかく、イグニスの軌道を制御しているのはシリルだった。


シリルの描く軌道を、イグニスは少し外れる。

それは例えば、トラックレースでコーナーを曲がる際に勢い余ってふくらむ選手のよう。

軌道を正確に描こうとするとイグニスは速度を落とさざるを得ない。


それがシリルの怒りの理由だ。


イグニスはぐる、と喉を鳴らした。

王と名乗るだけはある。

この小さな人間なら難なくそれを為せるとわかるから、イグニスは懸命に応えようと翼を動かし、魔法を操る。


自分の価値を、示さなければ。

そう思うから、必死になる。


必死になると、夢中になる。

速度を上げる。

自分の制御が効く、ギリギリを模索した。


そんな事もイグニスは知らなかったのだ。

自分の能力と、限界すら。


軌道上には障害物(魔物)が多い。

速度を落とすわけにいかないから、爪も牙も、使いたくはない。


誰か、あの羽虫どもを打ち落としてはくれないかと願えば、願った通りに空気の圧縮した弾丸がそれらを貫いた。

正確無比に制御された弾は寸分違わず、羽を千切り、あるいは魔力器官を、脳を、心臓を、狙い撃つ。

起点はイグニスの背。


イグニスにはわかった。

最も反動の少ない魔法を、威力の低い魔法を、いかに効率よく運用しているか。

そうする理由は、ただひたすらに速さを求めるから。


何者にも邪魔されず、拓けた進路をイグニスは最高速で駆け抜けた。

胸がすく。


同時に思う。


ああ、羽を制御するための、あと一筋の筋。

尾をたった一瞬早く振るための少しの背の筋。

肺に溜める空気があと一握り多ければ。

もう少しだけ、長く息が吐けるなら。


もっと速く飛べるのに。

もっと巧みに飛べるのに。


あと少し。

もう少し。

それが足りない。


簡単に得られたはずのそれらが、今のイグニスにはない。


並ぶ者なき環境ゆえ。

生まれた時から約束されていた、最強の座。

努力なくとも、イグニスは頂点だった。

それ以上を望まれず、そしてイグニスもまた、自分より上を知らなかった。

想像すらしなかった。


そして今、イグニスは己の未熟さに歯噛みする。

なぜ、思うようにこの羽は動かないのか。

なぜ、思うように体が制御できないのか。

なぜ、もっとできるはずだと思うのに、これ以上が出ないのか。


この人間が願う通りのことをできるはずだと、イグニスは思っていた。

だが、今はできないことを、打ちのめされる様な気分で認めた。


出来ないから、仕方ない。

ごっ、と闘争心が口から炎となって周囲の空を舐めた。

生命の焼ける、不快な臭い。


ひゅうと背から称賛の感情を乗せた口笛が聞こえた。


そうではない。

そんなものが欲しいのではない。


諦めてなどいない。

できないなら。

いま己だけで成し遂げられないなら。

他の何かを使うまで。


従え、と願う。

仕えろと、命じる。

自らの望みの為に力を差し出せと、イグニスは渾身の力で精霊から力を引き摺り出す。

絞り切られては消えてしまうような存在にとっては体を裏返される様な所業。

それでもイグニスは頓着すらしなかった。


示された急カーブを振り回される速度で侵入して、まとわりつく精霊たちに外から風を作り出させることで体を無理矢理抑え込む。


イグニスの軌跡を追うように、はらはらと花びらのように精霊の残骸が光となって散っていく。


それがどうした。


示された軌道を、飛んでやったぞ。

イグニスは吸い込んだ息で咆哮した。


背中の上で、後ろを振り向き目を見張る気配がする。


「ふふ」


嬉しそうな笑い声が聞こえた。


「はは」


楽しそうな笑い声がした。


「……これだからやめられない」


背中の気配が歓喜する。

狂喜する。


そして、彼は言った。


「もっと」


もっと、できるでしょう?


心臓が一瞬鼓動をやめ、呼吸が一秒止まり、脳は長いこと言葉を理解することを拒否した。

そうしてひらりと尾を振り、イグニスは空っぽの心と力で敗北を認めた。


「おおっと、ストップ」


タイミングよく、シリルがイグニスに滞空を命じる。

別にイグニスの心情に配慮したわけではない。


「おやあ? これはまた、珍しいものを見た」


遠く、今はまだ豆粒のような大きさの、強大な魔力を纏う、魔物。

ワールド・アトラスではシリルを阻む壁の一つとなって立ちはだかった。


「ってか、グランドリエで(国として)は初の遭遇じゃないの? グリフォン(・・・・・)って」

>その通りだな。


グリーンカード経由の、何が起きてももう驚かないぞとばかりに平坦な声はリィン。


>早くどうにかしてくれ。計画に支障が出る。


心配すらしてくれない。

むしろ急かす声はウィルと協力して大規模魔法陣を準備中のグレン。


「やるよ、やるけどさあ。――とはいえ、……アレ、何匹かな」


思わず声を潜めて、目を細めた。


豆粒はあっという間に大きくなる。

さすが最高速の座を争う種族。


空に撒かれた複数の影はそれとわかるほどに近づいた。

一、二、三、と指を差しながら数えていたシリルは、突然カウントをやめ、忘れていたとイグニスの背から空に飛び降りる。


「ここでお前の出番は終了だ」


こき使ったわりには優し気な手つきで、シリルはその首を叩いた。

ご苦労さん、と労っているようですらある。


イグニスは抗議の意思を伝えるように尾を不満げに振った。


「無理無理、お前弱いもの。盾にもならないんだから邪魔なだけだよ」


シリルの言葉は容赦ない。

そして真実だった。


編隊を作るグリフォンが相手では、若い竜には少々荷が重い。


「ってーわけで、ご退場~」


シリルは空中で一回転して勢いをつけ、イグニスの腹にドロップキックをかました。

見事に決まった攻撃はイグニスを吹き飛ばし、彼の巣へとその身を帰す。

勢い余って搭に突っ込んでいたが、まあ無事だろう。竜なんだし。


これでも大いに手加減はしている。

シリルが本気を出して蹴っ飛ばしたら、内臓破裂どころかイグニスが真っ二つに千切れかねない。


リィンが塔から顔を出してイグニスの無事を確かめてくれているようだ。

シリルはそれを確認して、もういいだろうと自分の戦場に向き直る。


シリルの目撃通り、リィンは確かにイグニスに声をかけていた。

だが、その内容はとてもひどかった。


「死んだ?」


死亡確認だ。

だが死体は喋らない。

死体でない事くらいは承知だったのかもしれない。


勢いのまま美しかった下庭を削り、最終的に搭の下階に体をめり込ませたイグニスは幾許かの沈黙のあと、瓦礫を除けてのそりのそりと這い出した。


十分な広さがある所まで歩を進めると、おもむろに羽を広げる。


「おい、あんまり性急に動くな」


あまり咎める気のない声だったから顔を上げる。

金色の髪の男が塔から顔を出し、頬杖をついたままイグニスに言葉を投げた。


「不具合がないか。ぎこちない場所はないか。可動は完璧か。――身体に衝撃を受けた時は、まず一番に確かめることだ」


基本がなっちゃいない。


「だから邪魔だと言われたんだ」


ぐるっと、威嚇の声が漏れたけれど、小さな王の仲間であるらしい金髪の男にはまるで効いていない。


「別にお前がなにをしようが止める気はない。身の丈以上を望めば身を滅ぼすだけだと忠告したかっただけだ」


イグニスはぐるりとその長く太い首を巡らせ、空の戦場を見た。

王が舞い、挑む者が翔ける空を。


そしてやはり、イグニスは飛び立った。

空へ。

上へ。

垂直に。


搭の天辺を抜ける寸前、長い咆哮を上げる。

竜の鐘、と言われるその音は、竜の発する声の中でもっとも広く、遠くまで響く。

威嚇でもない、怒りでも歓喜でもない、この国に初めて響いた竜の鐘。


応える声がした。

怯える声もした。


もう一度命じる。


飛べ、と。

竜の誇りを忘れたか、と。


ばさりばさりと重い羽音が聞こえた。


酷く飛びにくい空を、不器用に、戸惑いながら空に昇る。

イグニスを追うように、一匹一匹と増えていく。


率いる者となったイグニスは仲間たちにたった一つの命題を与えた。

誰よりも速く、巧みに飛べ、と。


殺意を乗せて、敵に吼えた。

空に我ら以外の生存を許さず。


イグニスは兵士を空に連れ去ろうとする愚者に、さらなる高みから制裁の鉄槌を落とした。


空から怒りを振り撒く。

地上すら舐めた炎は黒い川の一部を蒸発させた。


汚されたのは彼らの縄張り。

侵入者は殲滅されてしかるべきだった。


イグニスは心のままに飛ぶ。

怒りのままに殺す。

自我を繋ぎとめて、仲間を統率した。


そして手の届かない戦場を見る。


いつか、

いつか、

必ず、


――あの高みへと昇るのだ。



イリアさんが出てこないのは、出てきたら一瞬で話が終わってしまうので……。

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