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イリアの世界  作者: 一集
第一章
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6.豊穣祭と精霊の奇跡

この家ではニール以外にイリアを気にかける者はいない。

せいぜいニールに取り入ろうとしている二番目の姉が嫉妬交じりに厭味を投げかけて来るくらい。


伯爵家という家格から見てもエンドレシア家は夜に城に上がるはずだが、最近なにかと話題だというニールの存在からもそれは確実視してもいい。

個人の覚えめでたい場合を除いては家ごとの招待だ、両親と二人の姉、それからニールは共に城に上がる。


それを考えをめぐらせる当のイリアは両親からも詳細を伝え聞いていない。

そんな対応を不満に思うことなく、イリアのここでの行動は侍女に今日の建国祭への欠席を両親へ伝えさせて終わり。


自分でも冷たいことだと思うのだけど、イリアはいまだにニール以外の家族を家族とは思えない。

彼らと同じ空間にいることを苦痛とすら思うのだからその心は押して知るべし。


昼を過ぎた頃、今頃彼らたちは準備で忙しいことだろう。

貴族のおめかしはとても長い、夜会があるとなれば朝早くから総出で準備に入る。

特に女のそれはいつの時代も時間がかかる。

見栄で塗り固められた彼女たちのプライドの在り処はまさしくそこだからだ。


イリアもまた、誰もいない部屋で一人準備を始める。

黒く長い髪は三つ編みにして、それをくるくると器用に纏め上げる。

零れ落ちた髪がないかを確かめて満足そうに鏡を見た。


服は光沢もレースもない、質素なワンピース。

足首が少し見えるくらいの長さの、青い色。

靴は編み上げの短いブーツ。


出来上がったのはどこにでもいそうな幼い村娘だ。


斜め掛けの小さな鞄には小銭をつめて、最後の仕上げには村人たちが作ってくれたピンク色のシルビアの花を髪の毛に飾る。

これにはイリアとニールたちで少しの魔法がかけられており、その証拠として花びらの縁に向かって薄い銀色がきらめいていた。


「さて、行きますか」


イリアは窓を大きく開いて、まだ沈む様子のない陽の高さに時間が十分にあることを確かめた。


部屋の絨毯を軽く蹴れば、ふわりと浮き上がるように胸の高さほどもあった窓の縁に立つ。

その窓からまるで歩き出すかのように飛び降りる。

誰かが見ていようものならば絶叫モノの光景。


落下はひどく緩やかで、ふわりと綿毛のように地に降り立つ。

見上げて、開いたままの三階の窓を手も触れずに閉めた。


「戸締りは完璧」


うんうんと満足そうに頷きながら、もうひとつ、息をするように魔法を発現させる。

最近はセオの専売特許となりつつある幻術魔法は元はイリアのオリジナルだ。

まだ彼に遅れはとらない。

周囲の景色に同化して、イリアはのんびりと屋敷を出た。


王都は前世の記憶を持つイリアにとってもとても美しいと思える都市だった。


断崖を背に、半円状に広がる王都の中央はもちろん白亜の城が鎮座している。

当然どこからでも見える、王都で最も高い建物で、尖塔に照り返す陽はとても綺麗だ。


王都の構成は城を中心として、半円の遠心部に向かい貴族街、富裕街、商人街、商店街、市民街と続いていく。

もちろん通称であるが、それで話が通じるくらいには浸透している名称だ。


イリアの屋敷は当然、貴族街にある。

目的地には遠い。


貴族街で徒歩の人間はまずいない。

お貴族様は紋章入りの馬車で移動するのがステータスだ。

道の譲り合いも家格の駆け引きで、通常は大変面倒なのだが、今日に限っては立派な制服を着た騎士が整理に出ている。


これほど往来が込み合う日もない。

駆け引きなどやっていたらいつまでたっても目的地には着かない。

今日だけは家格など関係なしに、彼ら騎士団の誘導に従い粛々と神殿に向かい、祈りを捧げてから王城に向かうのだ。


たぶん神殿と王城の周りは神官と近衛兵がここにいる騎士達のように忙しく働いていることだろう。


貴族たちが例外なく信仰する神は世界の六神と呼ばれる存在であり、貴族たちが使う魔法もこの神によってもたらされたと伝えられている。

六神を祀ることを約束したことにより、建国を許されたというこの国。

信仰は当たり前のように浸透していた。


神殿に向かう列を作る馬車を横目にイリアは軽い足取りで貴族街を抜ける。


次に到るのは民の中でも富裕層の住む場所で、貧乏貴族と比べてもよほど裕福に暮らしている人々が住んでいる。

そこを歩き続けるとなんとなく活発な空気が紛れ込み始めた。


商人街と一般に呼ばれていて、商人たちの住居と、少々高級な店たちが立ち並んでいる地区になる。

ここら辺りまでは貴族も足を伸ばすことがままあった。


その先は貴族にとってはただの通り道。

王都を出入りする際に見る程度のものだ。


商人街を抜けた、そこは一気に喧騒の絶えない世界になった。

市民街と商人街の間にある、経済の最も活発な地域。

市場と、露天と、道にずらりと立ち並ぶ大衆店。


売り手と買い手の値段交渉の声や、子供たちが走り回る広場や、男たちの陽気な笑い声が響く酒場、女たちが急ぎ足で見て回っているのは八百屋と肉屋とパン屋だろうか。


イリアはゆっくりと魔法を溶いて行く。

背景から浮かび上がるように、歩き続けながらその姿を現した。


周りに気にした素振りの者はいない。

そういうものだ。


人間の目は、それと注意して見なければ、ゆっくりと変わっていく世界には気づかない。


至る所に掲げられた国旗と、飾られた建物が祭の浮かれた雰囲気をよりいっそう際立たせていた。

いつもより多い露天は今日ばかりは食べ物屋が圧倒的に多い。

市場は朝一で撤収しており、いくつもの円卓と椅子が並べられて人々の休憩所となっていた。


豊穣祭はこの商店街と市民街が主に舞台となる。

ご苦労にも休日を奪われた、警邏隊が定期的に見回っている姿をよく見かける。

それよりは少数だが、馬に乗った騎士たちの姿も。


市民に多く自治を許しているこの王都でも、さすがにこの日の騒ぎを市民で構成された警邏隊だけでどうにかしろとは言わない。

まあ、それで引っ張り出されるのは騎士だけなのだが。

たぶん貴族位に着くもので今日この日に普段の職務を全うしているのは騎士と神官と近衛兵と演出担当の魔法使いくらいのものだ。


騎士がいくら貴族といえども、その中でイリアを知るものはいない。

社交の場にはめっきり姿を現さない彼女の容貌を知るのはごく少数で、故に騎士が闊歩している街中でもイリアは悠々としていられた。


喧嘩がおきれば警邏隊が駆けつけ、犯罪が起きれば騎士たちが急行する。

彼らの影の努力は褒め称えられるべきものだろう。


そんな比較的安全な街でイリアは露天を冷やかしながら歩く。


歩けば開ける広場に当たった。

商店街と市民街を合わせて、大小十三もの広場が存在するのだから当然のこと。

広場に所狭しと並べられた、村の名前を大きく掲げた露天の前には多くの人が集っている。


王都外の村の名産品はこの時でないとお目に掛かれない物や、普段は高級品扱いで市民の手に入らない物もあるからだ。


舞台が設置された広場ではすでに催しが始まっており、その前に作られた観客席は大いに埋まっていた。

観客席の向こうには酒や飲み物、食べ物屋が軒を連ねており、この日ばかりはと道にまで机と椅子を並べて客の確保に努めている。

飲み食いしながら舞台を見られるそこは人気スポットのようで、舞台を目前にできる観客席よりにぎわっていた。


そんな広場をいくつか見て回り、目的の場所にたどり着いた時にはすでに陽が傾き始めていた。

前世以来の買い食いの楽しみも満喫したし、「そこのお嬢ちゃん!」なんて気軽に人々に客引きされるのも新鮮な気分だった。


目的の場所は比較的小さめの広場で、最もにぎわっている中心部からも少々外れている。

けれど普段からすれば賑わいは相当で、人混みに疲れた者や、穴場を探して流れてきた人々がゆったりと時を過ごしていた。


広場には舞台が設置されていて、ここもまた催しが行われる場所なのだと教えてくれている。

その広場の片隅に閑散とした店があった。


掲げられた看板の村の名前を確認してイリアはそこに近づく。


店番はひどく暇そうで、至近距離で影がかかるまでイリアの存在に気づいてはくれなかった。


「こんにちは」

「へい!いらっしゃい、お嬢さん」


反射的に揉み手をしながら立ち上がった店番は目の前のイリアを見て、それからあっと声を上げた。


「イ、イリアさま!?」

「しー」


声が大きいと注意すると男は慌てて口を自分の手で押さえた。


「どう?売れ具合は」

「それが…」


申し訳なさそうにする男の前にはシルビアの花が所狭しと並べられていた。

並べられていない花も彼の足元に残っていて、その量は多分持ってきた時から変わっていないのだろう。


「あまり芳しくなく…。イリアさまのお手を煩わせたというのに、すみません」

「あら、気にしないでいいのよ。元々は村のみなに配るために作ってもらったのですもの。」


残りものなのだし、ついでに村人たちがこのシルビアの花を採取して乾燥させて美しく作ってくれた労力に少しでも収入という形で還せればと思っただけなのだ。


それに、とイリアが続けた。


「きっと大丈夫よ。舞台が終わったときには、奇跡を起こしてあげる。」


悪戯そうに人差し指を唇に当てて微笑む。


ちょっとした仕掛けが施されたシルビアの花。

村人たちが喜んでくれると嬉しいのだけど。


「ね、一緒に店番をしてもいいかしら?」

「え、イリアさまがですか!?」

「『さま』付けは禁止よ、今のわたしはただの村娘なのだから」

「無理です!絶対に無理です!」


不満そうなイリアにも男は折れない。

無理なものは無理なのである。


村の人々にとってイリアは貴族らしくない貴族であった。

いい意味でだ。

貴族としての傲慢を見せず、穏やかで優しく、彼らが知る貴族の中で最も親しみやすい。


それでも貴族は貴族で、村人たちはそれを忘れたことはない。

毎回見せ付けられれば忘れようもない。


魔法、それはすなわち貴族の証。


六神が祀られた神殿に祈りを捧げることによって授けられるという奇跡の力。

彼女はその力を以って、精霊様を呼び出してくださる。


「仕方ないわね、今日はわたしは貴族のイリアではないわ。そうね、リアと呼んで」

「そんな無茶な!」

「あ、そこのお兄さん!すてきな彼女に奇跡の贈り物はいかが?」


イリアは男の悲鳴を無視して目の前を通り抜けていく人々に声をかけ始めてしまう。


「お、ちっこいのに店番か、えらいな」

「ありがとう、お兄さん!ぜひお花を買ってくれない?村に咲く綺麗な花よ」


茎のついたシルビアの花を差し出しながらイリアが元気な村娘を演じる。


「あー、綺麗だと思うが、花は必要ないんだよ。悪いなお嬢ちゃん」

「そんなこと言わずに!お兄さん、今日は彼女とデート?それなら絶対に損はさせないわ。騙されたと思って買ってくれない?それで、ぜひ彼女と一緒にここでやる夜の舞台を見に来て!」


目の前にはありきたりなシルビアの花。

縁が少しだけ銀色に色付いているが、ただそれだけ。


それなのにこの押しの強さ。

何がこの少女をここまで強気にさせるのか、少しだけ興味を引かれてしまった。


「何があるんだ?」


イリアは特上の笑顔を見せた。


「奇跡を見せてあげる。この花は奇跡の当事者になるための招待状よ」


どう?と首を傾げた小さな少女に、苦笑と共に男は折れた。

信じたわけではないけれど、最後まで口上を聞いた責任は取らなければならない。


それにその花は本当に安いものだった、ほんのコイン一枚。

友人と恋人の間にある微妙な距離の彼女と飲み食いをすることを考えても十分に買える値段。

女性はみな花が好きなものだし、まあいいだろうと思えるくらいには安かった。


「わかったよ、お嬢ちゃん、一輪もらおうか」

「ありがとう!お兄さんいい人ね!絶対に舞台を見に来てね」

「りょーかい」


軽い口調で請け負う男から代金をもらい、花を渡す。


それから夜になるまで売れた花はほんとうに幾本かだった。

イリアの口上に押し切られる者もいれば、他の花が買えずに、もっとも安く売られているこの花を買い求める者もいた。


夜の帳が下り始めた頃。

お誂え向きに月が隠れ始めた。


普段は暗くなると同時に宿屋や酒屋以外が店を閉めて、寂しさを感じさせる夜の風景も今日ばかりは違う。

皓々と灯された明りが道を照らし、少しも減らない道行く人の数はこの祭がまだまだ続くのだと教えてくれる。


イリアたちの前の組が舞台を終えて撤収するとそこはざわめきの残るただのオープンテラスかビアガーデンのようだ。

イリアはずっと一緒に店番をしていた男に場所を離れることを告げて寂しくなってしまった舞台に近づく。

椅子が見つからず、観客席を飲み食い処にしている人々は少しだけ不信に思っているようだ。

舞台というものはたいがい準備に時間がかかるものだから、心配そうに次の地区の名前をプログラムで確かめる人もいた。


そうこうしている内に見知った顔が一つ二つ増えて、観客席を埋めはじめる。

村々の人たちだ。

みなが皆、胸に、髪に、鞄に、袖や襟、思い思いのところにシルビアの花を飾っている。


先ほど花を買ってくれたお兄さんが綺麗めのお姉さんと共に姿を現したのを見つけた。

あちらもイリアに気付いたらしく、手を振ってくれた。

彼女の手の中にシルビアの花を見つけて、イリアは彼に手で大きな丸を作って応える。


人が増えれば興味も出るのだろう。

サクラの役割を期せずして果たしてしまった村人たちの他にも立ち見が出るほどまで観客が集まった。


「姉さん、探したよ」


わくわくと人々が足を止めていく様子を見ていたイリアの背に声がかかる。


「ニール、いい時間だわ」


ナイスタイミング。

振り返って微笑めばニール以外の顔が驚きに染められていた。


「イリア、見つからないはずだよ。まるで村娘だね。」

「みんなは、…とても素敵ね?」


夜会を抜け出してきた彼らの装いはとても立派だ。

さすがに自覚はあるのか、目立たないようにマントを被っているのは評価できるけれども。

たぶん、自分と同じくセオ辺りがみんなに幻術魔法をかけてここまできたのだろう。


少年たちを少し立派に見せているその姿をあとでじっくりと見せてもらおうと心に決めてイリアは急かすように準備に入った。


「さあ、いつもどおり、でも今日は特別派手にね?」

「わかってる、退屈だった舞踏会の分も楽しむさ。」

「さあ、憂さ晴らしだ」


肩が凝るやり取りを終えて背を伸ばすように気負いを脱ぎ捨てる。


「よく言う」

「んじゃお前はどうなんだよ」

「…否定はしない」


小さな笑いが彼らに蔓延して、目線で語る。

もう言葉はなく、それぞれの持ち場に身を翻した。


慣れたものだ。

馴染んでしまうこの他人であるはずの魔術の波動だとか、手に取るようにわかってしまうタイミングだとか。


シャンと鈴のような、それでいて高い音が舞台に鳴る。


ざわめきは一気に静まった。

観客の中にいる村人たちが一気に押し黙って舞台に目を向けたから、他の者たちもそれに続いてしまったのだろう。


静かな舞台に波の音。


どこから聞こえてくるのだろうと耳を澄ませば、舞台に海が浮かび上がる。


「え?」


呆然とした声がすべてを物語っていた。

村人たちはその様子に満足そうだ。


見ていろ、この美しい世界を。

俺たちはすでに知っている。

お前たちは初めてか?

驚くといい。


そして共有しよう、この感動と、奇跡を!


仄かに光を帯びた水面が広がる。

舞台から観客席に。

見上げれば水面は遥か頭上。


思わず水の中だと錯覚して息を止める者が出たほど。


「なんだ…これ?」

「目が、おかしいのか?」


魔法など、騎士たちがたまに捕縛劇で使うのを見る時くらいに、縁のない人々を驚愕させるには十分な仕掛け。


舞台を越えて、突如として現れた頭上の水面。

遠くからでも仄かに光輝く不可思議な光景。


「おい、あれなんだ?」

「魔法か?」

「こんな市街で?」


それに気付いた人々が何事かと足を向け始める。


「行ってみよう」


広場では突然の魔法で混乱した動揺も、次第に引いていく。

美しく揺らめくのは海面だ。

耳に優しい潮騒がそれを知らせる。


「きれい…」


催眠にかかったかのように、とろりとしてきた観客の視線が十分にこの世界に酔ったことを教える。


どれほどそれを見ていただろう、いつまでも見飽きることのない空の海にざざんと水を掻き分ける音がした。


「なんだ?」


それが何か、最初はわからなかった。

人々の目はあまりにも視界が狭く、その雄大な姿の一部しか目に留められなかったのだ。


その正体に気付いた村人たちだけが小さな感動の声を上げる。

『彼』は村人たちの間でもとても人気がある出演者だ。


穏やかだった海中に大きな渦、それを発生させたのが何者かの尾っぽだと気付く。

巨大な生き物の尾びれが視界から消えた。


「いったい何が?」


きょろきょろと頭上の海面を見上げていると唐突に魚群が人々の間を横切った。


「うわ、魚!」

「え、うそ」


観客を器用によけて泳いでいく魚たち。


「わあ」


驚いていた人々も次第に手を出し、思わず触ろうと試みたり、その不思議な現象に笑顔を零した。


魚と戯れていることに夢中になって忘れていた存在。


人々のすぐ頭上を何かが泳ぐ。

海の中だというのに、体を流されるような感覚に陥らせるほどの海流を引き起こしたのは。


腹が見えた。

それは急旋回して、遠い海面を目指し、優雅に揺れる尾びれが人々の視界を遮る。

いつの間にか海面は空の彼方。

空を目指して泳ぎ去る巨体が小さく見えるほどに。


ほんの砂粒程度になり、それでもその行く先を見ていた人々の足元にゆらりと影が揺れた。


「うわあ」


足元にはいつの間にか海面があった。

地面の中を泳ぐ雄大な、獣。

それは観客席の下を、酒場の露天を、集まってきた人々の足元を、悠然と泳ぎ去る。

『彼』が通るとき、思わず足を上げてしまう人々の反応にイリアはくすりと笑いを誘われた。


時々、海面に尾びれが叩き付けられて、その度に光の水飛沫が舞う。

水獣は巨体の割りに小さな目を瞬かせて地面の底に潜る。

小さくなっていく彼は海中に潜っていったのだ。


その行方を追う人々は地面をじっと見つめている。

何も知らない者が見ればさぞかし奇妙な光景だろう。


水獣は水底で体を反転させた。

猛然と、その巨体をくねらせ、この海面を目指す。


その勢いに恐れをなした幾人かが腰を浮かせて逃げ出そうとしたけれど、『彼』はそれよりも速く海面に辿り着く。


海を持ち上げて、舞台に踊り出たのは巨大な鯨。


夜の闇に仄かに煌く水色の輪郭が空気に触れて、鯨は目を細めた。

重力に引かれて叩きつけられる海面は割れたように波を起こした。


思わず目を閉じてしまうほどの迫力。


気付いたときには鯨はまた海の底に還っていくところだった。

代わりに海面に足の先を乗せて、見えない椅子の上で足を組んだ優美な『何か』がそこにはいた。


『どうであるか、炎の。わらわの子に勝るものはそなたにも作れまい?』


頭に直接響くような、不思議な声だった。

直感的に、それは人語を口にしているのではないと気付く。


なぜなら。

恐れ多くも。


ごくりと唾を飲み込んだのは誰だっただろう。


それは、彼の方は。

その優美なる姿は、力に満ちたその存在は。


「…精霊王さま?」


まさかと誰かの口が動くけれど、驚きを口にしても否定などできない。

圧倒的に、本能が知る。


平伏したくなるような、存在感。

目にしただけで涙が溢れるのは、魂が知っているからだ。


驚愕の声に『彼女』は反応しなかった。

当たり前の話だ、人間ごときの呟きなど、彼女にとっては水の一滴にも満たない他愛無き現象。


彼女の声に応えたのは人ではないもの。

ぼっと強い音を従えて炎が上がる。


それは人型を作り、同じように海面に降り立った。


『吾を愚弄するか、水の。』


それは決して怒りの声ではなかった。

笑いすら混じる、いつものやり取り。


けれど人間にはそれがわからない。


強い言葉が魂を縛り、心臓が悲鳴を上げた。

恐怖で凍りついた人々はただ耐える以外にやり過ごす方法を知らない。


『来よ、子よ、出でよ』


炎の王は力ある言葉を紡ぐ。


瞬間、つんざく様な咆哮が脳を揺らした。


『あな、やかましや。炎の。わらわの領域に何を持ち込むか』


不満を漏らした水の王の前に燃え滾る龍が現れる。

喉の奥に渦巻く炎の固まりは咆哮と共に海面を削った。


『騒がしいと思えば、相も変わらずそなたらか』


ふわりと空気から溶け出すように現れたガラスめいた硬質の姿。


『おお!久しいな、風の。良きところに参った。どうだ水の、風のに吾が子らの優劣を判断してもらうというのは』

『悪くはない、わらわたちではいつまでたっても平行線であろう』

『何をやっているのかと思えばそのよう瑣末事であったか』


だが、と風の王は空気を揺らす。


『我が子こそ至高に決まっておろう?』


空を仰げば駆けてくる天馬は風を従えて空を支配していた。


何を目にしているのだろう。

この光景。

耐え切れずにふらりと意識を失くす者がいた。

思わず支える周囲の人々も、その脳は処理をやめて久しい。

ただ、覚えていようと強く思う。


彼らは戯れに力ある獣を生み出して、戯れ、戯れた。


やがてぽつぽつと灯っていく小さな光。

蛍のように頼りなくさ迷うそれらは幾多の精霊。

王たちが戯れるたびに溢れる力から生み出される数多の生命。


まだ小さく曖昧に存在する光は、それでも幻想的な光景を魅せた。


『おや、わが子らが惑っておる。惜しや、忍や、仕方なし。今日はここまでにしようぞ』

『良き哉、善き哉。吾らが子を巻き込むのは本意ではない』


生まれてしまった存在は須く彼らにとって情を注ぐべきもの。


『増えよ、生きよ、我が子らよ。弱き者も美しき。強き者も在るがまま…』


急速に消えていく存在感に、喪失を覚える。

寂寥と懐古が波のように押し寄せて、人々は彼らの残滓を見上げる。


ふらふらと漂う生まれたばかりの、精霊とも言えない小さな光は休息を求めるように惑っていた。

人よりもまだ弱く儚いその光に誘われたのは憐憫。


「おいで」


と村人の一人が一輪の花を光に向けて差し出した。

イリアが言っていた言葉を思い出したのだ。


精霊はこの花が好きなのだと。


光は安息の場所を見つけたかのようにゆらりと花に降り立つ。


「精霊さま?」


花は光と同化した。

きらきらと光を零す花。


「わあ」


光たちは一つまた一つと花を目指して観客席に降ってきた。


青いきらめきを放つのはきっと水の精霊。

赤い光は火の。

黄色や緑はきっと風の精霊が降り立ったのだろう。


ぽっ、ぽっ、と灯り出すシルビアの花。


初めての客になってくれたお兄さんの彼女も、精霊に安息を与えようと必死に花を掲げていた。

少しのサービスで、イリアは二つの光を同時にシルビアの花に降ろした。


赤と、水色。

混ぜて柔らかな桃色の光が花から零れた。


「なんてきれいなの」


動くたびに帯のように光を振りまくシルビアの花がそこらかしこに出来上がる。


「その花、なに?」

「どこにあるの?」


そんな会話が交わされて、村人が指差す露天にはすでに人が殺到していた。


きらきらと不思議な光を放つ花を身につけた人々は精霊王の去った舞台を後に、やがて思い思いに散っていく。

夢のような舞台は、その花だけが夢ではなかったと信じさせてくれる。

輝く花は奇跡の目撃者の証。


知らない人々は道行く合間に目にするあの花はいったい何かと問う。

知る人々は応える。


「いと麗しき、力あるお方に触れた幸運な者たちだ」

と。


人々の記憶にはただ、その日、奇跡が起きたことだけが記憶された。

人々が現実と虚構の見分けがつかないのは弟たちの実力でもある。

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