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イリアの世界  作者: 一集
第二章

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EX.ランスロット・オーヴェル




強く匂う鉄錆に似た空気の中に、微かに漂う粘るような匂い。

例えるなら、森の中の澱んだ匂い。

あるいは雨が降る直前の、土と草の薫る匂い。

そこに若干の焦げ臭さを足したならこんな匂いになるのかもしれない。


誰に聞いても認識できないらしいその匂いに鼻をひくつかせながら、ヴェインは道をのしのしと歩く。

鎧に身を包んだ巨体はさながら歩く鉄塊。


辺りは阿鼻叫喚というに相応しい様相を呈していた。


王都の周りを囲む様に点在する町の一つでの出来事だ。


王都から伸びる街道を飲み込んで発展した町の人々は、ほんの一時間も歩けば至る、王都を囲む城壁の前で朝から店を広げるか、王都手前で宿泊を余儀なくされた人々相手の商売を生活の基盤としている。


食材を運ぶ農民たちも、裕福な観光客も、物騒な冒険者も、商品を卸しに来た旅商人も、必ず抜けることになる街道に陣取っているから品物の流通は豊富。

こうした町があるからこそ、王都を目指す人々は門の開閉時間の調整を気にせずにここまでやってくるのだ。


あるいは王都から出てくる者にも需要はある。

門は日の出と共に開き、日の入りと共に閉まる。

王都を起つ時間に制限があるからこそ、先に王都を出て自由に時間を使えるこの町で出発時間を調整しようという冒険者や村人商人も多い。


平和を長年甘受した(のち)に需要に応じて生まれた、比較的歴史が浅い小規模の賑わった町。

それが王都周辺に点在する王都近郊街道町群(ネーブリンゲン)の成り立ちだ。


王都と違い、町は門を閉めたりはしない。

真夜中の客はむしろ割のいい商売につながる。

歓迎こそすれ、拒む理由はなかった。


王都近くの治安のよさもあるだろう。

だからこそ、門自体が存在しない町が多い。

南街道の上に作られたこの町、第三王都近郊街道町オウネーブリンゲンもそうだった。


故に起こる悲劇の事など考えたこともなかったはずだ。


はじまりは王都の鐘。


寝静まるというには夜こそ商売時とばかりに賑わう酒場や、遅くまで旅人を受け入れる宿屋、夜が明ける前に遺跡や狩場に旅立とうとする冒険者たちが準備に追われ、ざわめきを多く孕んでいる。


突如鳴り響いた王都から聞こえてくる激しい鐘の音にいまだ活動時間真っ只中の人々はどうしたことかと顔を見合わせた。


だが、王都のそれは収まるどころか次第に重なりを加え始める。


あらゆる神殿に配置が義務付けられている鐘。

それが呼応するようにかき鳴らされ始めたのだ。

一番身に響くのは大神殿と王城の巨大な釣鐘だろう。


他神殿の鐘は時間を知らせるために日に幾度か耳にするのだが、この低音を聞いたことがある者は町にはいなかった。

ここ百年単位で一度も鳴らされたことがなかったのだから当然の話。


初めて耳にするとしても、異常事態を知らせるものだと気付かないわけがないくらいには激しく人の危機感と警戒心を煽る音。

戸惑いに揺れる町人と寝静まっていた宿泊客たちも叩き起こされて何事かと道にぞろぞろと出て来る。


さては王都で火事でも起きたのかとぼんやりと明るい王都の方向を振り仰いだ。


若い町だけに商売別の代表はいても町長はいない。

成り立ちからして、最初から存在していないのだ。

町人たちが各々税を納めることで存在を許されているだけの、町としては正式に認められていないという立ち位置が今まで問題になることはなかった。


つまり、町には意見をまとめてくれる人物も、詳しい情報をもたらしてくれる者もいない。


元より王都に宛てて走らされた魔物の大量発生の報を携えた早馬が町に情報をもたらすことはなかったのだ。


故に、王都には予想したような火の手は見えなかったが、朝になれば事態も明らかになるだろうと静観の構えを選んだものが最も多かったのは当然。


それでも真夜中の緊急事態に素早く行動できたものがいないわけではない。

いや、むしろ少なくはなかった。

機に聡い商人たちは特に。

駄載獣や輓獣を持っている者はその速度を頼りにさっさと王都へと財産を抱えて走らせた。

自分の勘と嗅覚に鋭い冒険者たちも王都に引き返すか、少なくとも装備を整え厳戒態勢に入る。


しかしそうやって王都に戻っていく者たちに、多くの人々は呆れた目を向けた。

なにせ真夜中。

王都にいち早く着いたとしてもその門は日が出なければ開かない。


ならば治安がいいとは言え、日中に比べれば遥かに危険度が高くなる道中を行く意味は薄いように思えたのだ。


遠くもない、目の前の堅牢な王都への絶対的安心感。

彼らはいつでも駆け込めるシェルターのような気分で王都を頼っていた。

まるでシェルターの中にいるかの如く。


実際のところは、この緊急事態に王都は夜ながら門を開いていた。

数ある同じような町から、身の危険を感じ取った多くの人々が闇をものともせずに大挙して押し寄せ、そのほとんどを受け入れ終えた頃。

日の出を前にゆっくりと門は閉ざされた。


やがて朝日が昇りはじめて、薄っすらと辺りを照らし出す。

仮眠をとった町人たちが、さて事態の把握に努めようかと起き出してくる。


王都の鐘は鳴りやみ、事態は収束したのかと首を傾げながら、人々はどこか嵐の前の静けさのような沈黙を得た王都を不安気に振り返る。


まるで何かを待っているかのようだ。


そう思って、王都が注視するような目の前の見晴らしのいい、今日に限っては見晴らしが良すぎるように感じる平原に目を向ける。


「ん?」


広がる平原の向こうから点々と現れた者たちの正体に、町人は目を凝らす。


初めに突き止めたのは目が良い冒険者たちだった。


「魔物だ!多いぞ!」

「なんと!大量発生か!?」


その言葉を皮切りに彼らは次々に町から駆け出した。

仲間たちと共に、街道を無視して右へ左へ。


王都の鐘の意味を正確に把握したのだろう。

今からでは王都に逃げ込む時間もなければ、門が閉ざされていることも予測できた。


生存率を上げるための努力は惜しまない。

この限られた時間で出来ることはほんの少しの移動だけ。

ならば少しでも防衛が楽な町へ行くべきだ。

門構えの一つもない町よりは板の一枚だとしても、簡易の柵だろうとマシな方へ。


町人たちは当たり前のごとく王都へ向かって駆け出した。

機を逃していることなど考えず、あるいは知っていたとしてもそれ以外にとれる手段がない。

無事に辿り着き、王都が門を開いてくれる希望に縋る。


親とはぐれた子供の泣き声と、道を開けろと怒鳴る男。

火事場泥棒の異様な興奮と、それにかちあってしまった女の悲鳴。

自分の村へ帰ろうと魔物の現れた平原へ駆け出す青年と止めようと縋る村娘。

荷馬がひっくり返る音と馬を奪おうと主人を殴打する従者。


混乱の極みが町を襲っている頃、宿屋の二階で男は高鼾からやっと目覚めた。


王都の鐘にすら起きなかったのは豪胆でも何でもなく、ただ酒に溺れて眠っていただけの事。


酒の残る頭をぶんぶんと振り、騒がしい表通りの様子に「なんだあ?」と呟く。

手入れされてない顎髭と酒を浴びるように飲んで寝てしまったせいで脂ぎった髪の毛。

長年の不摂生で手に入れた太鼓腹とずんぐりとしたシルエット。

中年真っ盛りの年だったが、見た目はもう少しばかり老けて見えた。


印象を一言で表せば盗賊の頭領のような男だ。


一応盗賊ではない。

きちんと住居もあり、王都に居を構えるこの男がなぜこんな町にいるのかと言えば、ただ酒のため。

同じ金を持って王都でエールが三杯飲めたなら、この町では五杯飲める。

それだけの理由。

宿泊代の分、損していると思う者もあるだろう。

だが、心配はいらない。

酒場で潰れることが多いが、それ以外の宿泊料金はすべて特権を振りかざして踏み倒している。


これでも貴族を名乗ることを許された身だ。

最も貴族としては端に引っかかるか否かの騎士家。

士爵家と呼ばれることもある身分だった。


身一つで立身出世を目指す平民が夢見る特権階級。

ヴェインは幸運にもそれを掴んでいた。


最も、ヴェインの父も、祖父も、その前も、(あやま)たず士爵家。

だが士爵家を頑なに貴族とは認めないものも実のところ多い。


何故かと問われれば、士爵家の特殊性にあるだろう。

準男爵家以上の一般貴族との一番の違いは、血での存続を許されていない点だ。


士爵家とは個人の突き抜けた技量に与えられる栄誉。

騎士として叙勲された貴族外の平民だけが名乗ることのできる称号。

そんな中、長く士爵家を繋いできたオーヴェル家は特異と言わざるを得ない。


親から子へ、孫へ、血の繋がった一個人が途切れることなく、この栄誉をもぎ取ってきたという事なのだから。

あるいはそこまでしても男爵家にもなれないうだつの上がらない家だと言えなくもない。


のろのろと窓から表通りを見下ろしたオーヴェル家四代目に当たるヴェインはその騒ぎに酒の残る頭を一気に覚醒させた。


宿泊部屋の二階から身を乗り出して、脅威が近付いていることを確認したヴェインは厚みのある体を揺らして、少しだけ愉快そうに目を眇める。


蜘蛛の巣のかかったような濁った表情が爛々と輝き出し、脂肪の塊のように思えた体に力が漲って、緩んでいた筋肉が表面に浮いてくる。


どうしようもなく粗野で、体が大きく力が強いことから暴れ出すと厄介この上ないと酒場では邪険にされていた。

その短所が唯一輝く場所、それがここにある。


酒に溺れても唯一手放さなかった武器はこの町にも供していた。

枕元に立てかけられた重厚なバトルアックス、それがヴェインの相棒だ。


万全を期するなら鎧の一つでも欲しい所だと、ヴェインは普段の千鳥歩きを忘れたように堂々と歩き、道中の井戸で顔を洗うような余裕すら見せた。


逃げ惑う人々の喧騒もどこ吹く風。

いかな火事場泥棒でもこの立派な体格の男に絡もうとは思わないらしい。

彼の行く道を遮る者はいなかった。


そうして乗り込んだのは自警団の詰め所。

もう逃げ出した後なのか、荒れた室内に人影はない。

予想通り、武器ならばともかく鎧のような重さのあるものは放置されていた。

それをありがたく頂戴して、装備を整える。


物足りないヴェインは冒険者たちを相手にしている武器屋にも足を運び、店主のいなくなった店で同じような考えの冒険者たちと獲物をあさる。

見繕ったのは片手で扱える盾だ。


ようやっと満足したヴェインが鎧の可動範囲と盾の重さを確認している時に、ついに魔物が町に侵入した。

表の喧騒はあっという間に悲鳴に取って代わられた。


魔法を扱える貴族や、普段から荒事に慣れている冒険者以外はこんなものだ。

小型の踏みつぶせば殺せるような魔物ですら命の脅威。


そんな中、ヴェインは嬉々として叫んだ。


「長かったな、今回の休みは!待ちくたびれたぞ!」


ヴェインが最後に戦場に身を置いたのはもう15年以上前になる。

唯一の活躍の場から遠のいて15年。

15年もの間、ヴェインは乱暴者の役立たずでしかなかった。


かつて辺境伯の元で送った魔物たちと生存圏を争う日々。

泥にまみれた混戦模様に悪態ばかりが口を吐いたものだが、今となってはどうしてこうも懐かしく思えるのか。


答えは知っている。


「ここが俺の仕事場だからな!」


愉快で仕方ない。

ヴェインは大きな腹を笑いで揺らした。


戦場での活躍を評価されて士爵家を名乗ることを許され、王都に騎士として配置されたはいいが、そこは平和に浸かった風のない土地だった。


ヴェインは嵐が好きなのだ。

苛酷な戦場で笑える人間だったのだ。


のんびりとして見える仲間たちに戦場の心構えを説き、王都守護の重大任務を得ながらも緊張感の見えない彼らを叱咤した。

油断が何を招くのか、ヴェインはよく知っていたからだ。

もちろん早々に騎士団で孤立し、その後の凋落は推して知るべし。


せっかく男爵家からもらった嫁も、次第に荒れていく夫の生活と性格に早々に根を上げた。

辺境で血と泥と汗に塗れ慣れてきた男に、王都の空気は一切馴染まなかった。


やがて酒に溺れ、自制の利かない性格からその粗暴さを恐れられるようになり、ヴェインは腫れ物に触るような扱いをしてくる王都を抜け出し、ここにいる。


「はっはっはっは!いくらでもかかってこい、魔物風情が!」


魔物襲来の報(悲鳴)を聞き、表通りに飛び出す。

魔物がくる方向は一つ。

それがわかっていれば、ここはヴェインの狩場に他ならない。


小型で、足の速い魔物たちが疎らに、けれど途切れなく駆けてくる。

それを斬り、叩き落し、潰し、粉砕する。


「逃げ遅れたヤツは俺の後ろにいろ!魔物どもは俺を抜けんからな!!」


がっはっはっと大音声で笑えば、希望に縋るように町人たちが魔物を掻いくぐりヴェインを目指して走ってくる。


巨大な斧が振られるたびに魔物が切り裂かれ、石畳を叩けば地面が揺れる。

その迫力は力こそすべての戦場においてはまさに無双。


男がいつも酒場で暴れている厄介者だと気付いた者はどこにもいなかった。


どれくらい斧を振るい続けたのか。

気付けば鉄錆の臭いが濃い。


「うん?」


ヴェインは魔物が途切れた隙を窺って背後を振り返る。


「…うむ」


守っていたはずの町人はどこにもいなかった。


終わりのない魔物の襲撃に耐えかねて町からの脱出を試みたのだろう。

壁はヴェイン一人。

いつ壊されるとも知れない人壁だ。

わからなくもない。


その跡とも見える屍の山を若干複雑そうに眺める。


ヴェインの背から飛び出して、幾許もなく倒れ伏した町人たちの姿があった。


ヴェインにとっては雑魚でも、町人たちにとっては脅威。

そして魔物は無数にいるのだ。

ヴェインが対処できるのは、目の前に飛び出してくる魔物たちだけ。


路地から走ってきた魔物が、屋根から飛び降りてきた魔物が、家を突き破って出てきた魔物が、彼らの逃走を阻んだのだろう。


大して強くはないが、数だけは多い魔物の群れ。

あと何時間斧を振るい続けられるか、実際のところはヴェインでもわからない。

自分の背後で動かずにいたら助かったかというと、答えはないのだ。

町人たちの判断はあるいは正しかったのかもしれない。


もしかしたら一人二人は逃げられた者もあったろうと、ヴェインは大して感慨も抱かず、それを望んだ。


守るものがいなくなったのだからここに留まる意味もない。


ヴェインは表通りをのしのしと歩き出した。

鼻をひくつかせる。


どうも自分の特技で、魔物の臭いをかぎ分けられるらしい。

かつての戦場仲間曰く、魔物の発する魔力の匂いなのではないかということらしいが、ヴェインはその真否を気にしたことはない。


匂いは魔物が現れてから一度も薄れようとしない。

こんなことは辺境でもなかった。


薄れるどころか段々と濃くなっていく、その匂いにヴェインはある可能性に至る。


「規模が、」


とてつもない大きさの暴走なのではないか。


魔物の集団発生にしては手ごたえがなさすぎる。

だが数だけは異様に多い。


足元を駆け抜けていくのは軽く、足の速い魔物ばかり。


それは進行速度に差がある軍隊のような構成だ。

統率者のない軍を好き勝手に走らせたら、騎馬は早く、歩兵は中間に、そして重装歩兵は遅くなる。


はたと思い至った。


ではこれらか来るのは―?


「きゃああああ――!!!」


思考を遮ったのは布を裂くような女の悲鳴。


反射的に走り出す。


イノシシのような黒い獣の背が見えた。


「やはり来たか!」


中型の魔物だ。

四足を誇る獣はそれなりに足が速い。


中型魔物の先行隊がついに到着したらしい。


だからと言って考える暇もなく、それに取りついて背中を割る。

目の前の脅威、それがヴェインにとって今排除するべき敵だからだ。


小さな家の壁に頭を突っ込んでいた魔物は不快そうにヴェインを振り返った。

獣型は天然鎧とでも言うべき毛皮が厄介な連中。

重さで勢いの付く斧でも大した傷にはならなかったようだ。


これはキツイ、とヴェインは顔を顰める。

この魔物の話ではない。

ここから先、押し寄せるだろう魔物への対処の話だ。


黒い獣はヴェインを脅威と認めたのか、蹄を石畳に叩き付けながら向き直る。


魔物の頭の形に見事に切り取られた壁。

空いた穴から怯えた女と、その腕に抱えられた子供の姿が見えた。

逃げ遅れた末に隠れることを選んだ弱者たち。


ヴェインは苦笑した。

弱い者は嫌いだ。

弱さを盾に謙るでもなく、強者に守られることを疑わない。


泣いて、縋って、(おもね)って。


当然のように助けろと訴えてくるあの傲慢な目。


昔、どこぞの商人のそんな目が気に食わなくて、抉ってやったことがある。

それが決定打で騎士団を追い出されたが、今もヴェインは同じ状況ならば同じことをする自信があった。


だがヴェインはその商人を殺してはいない。

助けてやったのだ。

救ってから、その対価に目を貰っただけ。


「まあ、守るものがいれば、守るよな」


ヴェインは騎士で、弱きものを守ることこそがその責務だからだ。









絶え間なく振るっていた斧を下げて、さすがに疲れたと瓦礫に腰を下ろす。


然もありなん。

ヴェインは年を取ったのだ、昔のようにはいかない。


重く思えてきた鎧を剥がそうとしたが、すぐに思いとどまる。

黒い粘り気のある血で切れ味の悪くなってきたバトルアックスを握ったまま、少しばかりの休息に目を瞑った。


魔物は波のように襲ってくる。

この途切れ目はやがて来る嵐の前触れだ。

次の嵐はさらにキツイものになるだろう。


すでに幾度かの嵐を乗り越えたヴェインは、次に備えるこの時間がどれだけ貴重なものかよくわかっていた。


戦場では緩急が大事だ。

口を酸っぱくして言い聞かせてきたことを自分で実践する。


辺境でも絶え間ない戦いに身を置いていた。

あの頃は戦友たちが戦う横で、よく休息のために堂々と眠ったものだ。

ヴェインの図太さは仲間への信頼の証。

回復力の高さは短時間でも深い眠りにつけるから。


だが、仲間はあの頃にあって、今は無い。

そのほとんどが魔物に命ごと噛み千切られ、あるいは戦傷に一線を退き酒浸りの毎日だという。

似たもの同士とは、こういうことだろう。

酒場の置物となり果てた彼らには会いたいとは思わない。


過去の栄光に水を差すような現実は見たくなかった。


親父(おやじ)?」


目を閉じていたヴェインは懐かしい声を聞いたと思った。

いや、聞いたことはない。

だけど何かを思い出させる声。


いつの頃からか、関わりを持たなくなった幼い息子が脳裏に思い浮かんだ。

嫁が置いていった、自分には似なかった細く弱い子供。


あの頃は酒に溺れながら、なぜこんなにも恵まれないのかといつも苦々しく息子を見下ろしたものだ。


自分の代でオーヴェル家を終わらせるわけにはいかない。

士爵家を継ぐための名声を手に入れられるだけの実力を身につけさせるつもりだったが、厳しく躾けすぎたのか、やがて口も利かなくなった一人息子。


距離を置くようになったのはいつ頃からだったか、何が理由だったか。

ヴェインはそんなことを考えた。


「おい、寝てんのかよ」


だが、せっかくの休憩時間を邪魔する声がある。

やはり幻聴ではなかった。


「起きろって」


ヴェインはもうしばらく休みたい気持ちを圧してゆっくりと目を開いた。

思ったより近い場所に自分をのぞき込む顔があって、ヴェインは少し覚醒を早くする。


「…なにをしてる、こんなところで」


唸るような声が出た。

それが誰かを認め、自分でも驚くほど低い声になる。


久々に見た、憎き天才剣士の顔だ。

覚えのある声よりずっと落ち着いた声音が答えた。


「なにって、魔物の暴走に巻き込まれて逃げてたんだけど。あんたこそどうしてこんなところに?」


逃げているにしては悲壮感が足りない。

吞気にも質問を返してくる相手を前に、そうだこんな奴だったとヴェインは思い出す。


いつだって余裕な態度を崩したことがない。

本当に面白いくらいにこちらを格下扱いしてくる。


この男に敗北を喫してからヴェインの人生は最悪の下をいくようになった。


「ふん、国を守るのは貴族の務め。民を守るのは騎士の務めだ」

「あんたのことだから、酒でも飲みにふらっと外に出てただけだろ?」


呆れたような目を向けられたが、事実だけにむっと顔を顰める事しかできない。


「まあいいや。丁度いい、帰ろうぜ王都に」

「誰がお前なんぞと」


まるで駄々っ子のような台詞だとヴェインは情けなさを顔に出さないように努力しなければならなかった。


案の定、深いため息を吐かれる。

これではどちらが年上かわかったものではない。


この年若い天才には自分には望めない、輝かしい未来があった。

未来がある若者は簡単に道の終わりの知れた先人の心を叩き折る。


「まさかとは思うがここで戦うつもりなのか?ずっと?」


出来ると思っているのか。

そんな響きの混じった言葉だ。


彼の言っていることは至極真っ当。

魔物の群れが際限ない今、ここで粘ってもジリ貧だ。


だが彼の助けを借りるには誇りが許さない。

弱いなどと、死んでも思われたくない。


もう最盛期を過ぎたヴェインに彼を降す術はなく、実力に伸びしろすらないがそれは譲れない一線だった。


「いい加減俺を荷物扱いするな!」


思わず怒鳴るように吠える。


「…荷物?」


いつものように軽く流されるか、相手にもされず苦笑するだけかと思っていたが、彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして不思議そうに首を傾げた。


「あんたみたいな重い荷物なんて背負うつもりはない。弱いフリはやめてくれ。当然、自分で歩けるんだろ?」


アホかと最後に呟かれて、カッとする。

悪態を返そうとしたが、それは別の声に遮られた。


少しばかり遠い所から、出立を告げる声が上がる。


自分とは違って彼には仲間がいるらしい。


「ランス、そろそろ行くぞ」


ほど近い場所からも声がかかる。


「ああ」


目の前の男、ランスロットが少し考えてからもう一度返す。


「すぐに追いつく、先に行け」

「…ランス?その男がどうかした?」

「うん、…まあ、そうだな」


歯切れ悪く答えたランスロットががりがりと頭を掻く。


身内(親父)だよ」

「そ!…そう、か。あ~あれだな、…似てないな?」

「似ててたまるか!」


反射的に振り向いたランスロットが仲間に噛み付く。

縦にもデカいが横にもデカく、手入れのされていない髭に覆われた顔はどこもかしこも引き締まった印象のランスロットからはひどく遠い。


ランスロットの異様な速さで返された反応に爆笑している少年と、面食らったような少年が息子の向こうに見えた。

どうやら親しい友人らしい。


「そういうわけで、先に行っててくれ」


目を眇めてその流れを見ていると、落ち着いた雰囲気の、ランスロットと同じく少年の域を脱しつつある男が幾許かの間を要して答えた。


「いや、待とう。10分だけやる、何とかしろ」


気楽そうな少年も、その雰囲気を裏切らず軽い言葉をランスロットに送った。


「長居は禁物だけど、ランスを一人にするつもりはないかな?」

「…わかったよ、ったく」


ランスロットが少し面映ゆそうな顔を見せた。

ヴェインが見たことのない、年相応の表情だ。


だが、まるで危険の真っただ中にいるとは思えないやり取りは若さゆえの根拠なき万能感か。


「見えざる壁。広がれ、形は四角。伸びろ、貫け、果てるまで屠れ。『結界・槍』」


しかしランスロットの仲間が零した言葉に呼応して立ち上る不可視の盾を匂いで感じ取ってヴェインは考えを改めた。


なるほど、化け物の友は化け物か。


そういえば、息子は貴族の通う学園に行っているらしい。

その級友ならば魔法の一つも使えよう。


だが、嗅いだことのない強烈な魔力の匂いがその逸脱具合を示す。

こんな、眉を顰めさせるような濃い魔力ははじめてだった。


シールドという魔法を見たことはあったが、その応用なのか、魔法の盾に触れようとする魔物は例外なく突如絶命する。


目を凝らすと、貫かれたような跡が見て取れた。

あの壁面はどうやら棘のようなものを伸縮しているらしい。


「少し離れるぞ、向こうにも結界を張ってくる。セオ、お前も来い」

「ほいほ~い」

「悪いな、グレン、セオ」


気にするなと後ろ手にひらひらと手を振る少年たちに疲れは見えない。


ヴェインの胸に諦めが去来した。

時代が移り変わっているのかもしれない。


最早自分は過去の遺物に等しいのではないか。


「さて、グレンが時間を稼いでくれてる間にさっさと準備だ。何をのんびりしてるんだよ」

「…なんの準備だと?」

「そりゃ、走る準備(マラソン)さ。王都まであと一時間もない距離だ。行けるだろう?ま、鎧くらいは脱がないとキツイと思うけどさ」

「ふん、どうせ群れに追いつかれて終わりだ」

「まあ、あんた一人ならそうかもね。で、なんのために俺がいると思ってるんだよ」


肩を竦めた仕草が妙に様になっていてヴェインを苛つかせた。


「ならばさっさと行けばいい。お前にはあの強いオトモダチが居るだろう」

「そりゃ、我儘な足手まといがいるからな。迷惑な身内のせいであいつらの足を引っ張るわけにはいかない」

「誰が足手まといだと!?お前の世話には絶対にならん!」

「そう思うなら、さあ早く立った立った」


あっけらかんと煽ってくるのは行動を促すため。

付き合いが薄いわりに扱い方を心得ている。


だがそんな煽り文句にもヴェインは動かなかった。

ランスロットは困ったように座り込んだままの父に声を掛ける。


「大体な、なんであんたは昔から俺を(うと)むんだ」


そこには憎しみも悲壮感もない。

ただの、理解できない問題の回答を得ようとする自然さだけがある。


だがヴェインは面食らった。

疎む?


違うと思った。

先に疎まれたのは自分だからだ。


ヴェインは思い出す。

息子と打ち合って負けた日のことを。


彼は叫んだ。

『俺が勝ったらいい加減俺を解放しろ!』


初めて挑んできた日も同じことを言った。

それから日課のように剣を合わせ、年を跨ぐ頃にはヴェインは焦燥に身を焼かれるようになった。


才能を妬んでいるのだと認めるにはヴェインは老成してはいない。

若さを羨んでいるのだと認めるには、ヴェインは人生に満足してはいない。


細く、弱く、侮られる幼い子供はそこにはいなかった。

弱さを嘆き、出来の悪さを落胆できるたった一つのヴェインの手駒はヴェインの意志をくみ取ってはくれない。


不完全燃焼のまま澱んだヴェインにランスロットは眩しすぎた。


その才で自由をもぎ取ろうと足掻き、それを掴む。


もう関わるな、と。

もう自分に口を出してくれるな、と。

老兵に止めを刺し、振り返りもせずに飛んでいった。


「絶縁を先に望んだのはお前だろう」

「…はあ?いや、確かに干渉するなとは言ったけど。そんなのよくある反抗期だろ?」


独り立ちってヤツだと、ランスロットは言った。


「確かに俺は少しばかり早かったと思うけど。…なんだ、あんた寂しかったのか?」


普段なら激昂するそんなからかい言葉もヴェインの耳を通り抜けた。

あの頃のランスロットの気迫は反抗期などという生易しいものではなかったと思うのだが、若気の至りだとあっけらかんと笑われると言葉を失う以外にできることがない。


「大体さ、普通は誇るだろ?息子が強くなったら」


だが父はランスロットを誇ってはくれなかった。

どころか、昔からどうしようもない男だったが、輪をかけて堕落し始めた。


ランスロットは首を捻るばかり。


なにが悪いのか。

もっと強くなればいいのだろうか。

自分の生活態度のわりに、求めるものが随分と高い。

だがまあ、唯一の身内の望みならば少しくらいは叶えてやろうと思う。

あまり考え事は向いていないから、出来ることに全力で挑んできた。


そろそろ父も息子を誇ってくれてもいいと思う。


「どうだ、少しは自慢の息子になっただろう?」


ランスロットは自分を指して父に聞いた。

ヴェインは憑き物の落ちたような顔で息子をぽかんと眺めた。


「安心しろよ、俺がいる限りオーヴェル家は続く」


気負いもない言葉。

自分の実力を正しく認識して、ヴェインのように力に溺れるでもなく、後に来るだろう当然の未来を語る。


ヴェインはすとんと理解した。


恐れることはない。

妬むことはない。

羨むことも必要はない。


ランスロットは自分の居場所を侵食するものではなく、彼の才能は自分を脅かすものではなく。


それは喜ぶべきものだったのだ。

彼の活躍は自分の活躍で、彼の出世は自分の出世だ。


なぜなら、彼はヴェインの息子なのだから。


居もしない敵と、なぜこうも長く戦い続けていたのだろう。


「だから帰るぞ、親父」


王都へ。

ランスロットの言葉に、ヴェインは答えた。


「…ああ」


息子が笑う。


「はじめての共闘だな」

「ああ」


心が躍った。

強くなった息子と共に駆ける戦場は、きっと長年の澱を流す程に胸がすく。


「辿り着けるだろう、俺とあんたなら」


ヴェインは息子に負けてから持ち続けた焦燥をやっと安堵に変えて、深く息を吸う為に目を閉じた。









「親父?」


ランスロットは返事のない父に深々とため息を吐いた。


「寝たのか?」


仕方のない父だ。

最後まで仕方のない父だった。


身に着けた鎧はもう原型を留めていない。

中々に壮絶な姿だ。

鎧の隙間から流れ出した血が石畳に水たまりを作っている。


よくぞ痛みも訴えずにあれだけ喋れたものだ。

我が父ながら呆れが先に立つ。


良い夢を(おやすみ)


苦笑と共にランスロットは父の兜のフェイスガードを下した。


最後に一度くらいは共に剣を振るってみたかったものだと思ったけれど、存外父の顔が満足そうでそんなことも言えそうにない。


さて、行くかとランスロットが立ち上がって踵を返そうとしたところで遠慮がちな声がした。


「あ、あの」


振り向けばヴェインが座り込んだ瓦礫の後ろの隙間から不安そうな母娘が顔を覗かせていた。

ランスロットは少しだけ考えるそぶりを見せる。


「なるほど」


よく考えたものだ。


点々とした父の残した血の臭いが人間の匂いを消して、微かに発動する血結界が気配を消している。

父が使う魔法は聞いたことがないが、ランスロットから見ても父の魔法キャパシティは少なかった。

きっとこれが唯一の魔法だったのだろう。


守るものがあるなら、命を賭ける価値はある。

ランスロットの思い出の中で大抵酔っぱらっていた父が、騎士として語った珍しくまともな言葉はよく覚えている。


息子に負けて心が折れるような、力ばかりに頼った情けない父だが、少なくとも自分の言葉に嘘はなかったらしい。


最後に父が守ったものだ。

少しくらいは贔屓したくなる。


「おーいセオ!荷馬を空けてもらってもいいか?」


手を振って親友を呼ぶ。


「なに、どうしたの?ランス」

「ちょっと生き残りを助けたくなった」


道中見捨ててきた命は多い。

今さら気まぐれに助ける意味は何か。


ランスロットの声に集まってきた仲間たちを見回して答える。


「一人の騎士に敬意を表して」


仲間たちが眠るような鎧の男にちらと目をやった。


愚かな男の打ち捨てられた死体だ。

だが、見捨てられた町を守ろうとしたただ一人の男でもあった。


愚かだが、惨めだとは思わない。


「いいんじゃない?最後くらい、人助けしても」

「まあ、これが王都まであと一日ってんなら迷いなく見捨てたけどね」


くすくすと漏れる少年少女の笑いに親子が怯えて身を寄せた。


「でも、まあ。人の心を、一つくらいは拾っておかないと」


情を捨て過ぎた。

取り戻すには何をすればいいか、わかっているつもりだ。


「さあ、二人とも早く乗って。王都まで一緒に行きましょうか」


不安そうな母娘を乗せて、彼らは最後の町を後にする。






ランスロット・オーヴェルは一度だけ父の墓場となった町を振り返った。







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