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イリアの世界  作者: 一集
第一章
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EX.リィンダネール・イル・アランドリエ

「リィンダネールさま、どうかしましたか?」

「あ、いや、なんでもない」

「集中なさってください、あなた様はいずれこの国を支えてゆくお方なのですから」


学習の時間、退屈な授業は話半分で問題ないと思い始めたのはいったいいつごろからだろう。

だが油断したとリィンダネールは内心を隠す。


思考の半分をイリアの課題に割り振っていたつもりだったのだが、いつの間にかほとんどそちらに意識が行ってしまっていたようだ。


「相変わらずだなリィンダネール、我が弟よ」

「兄上…帰ってきていらっしゃったのですか」


二人の兄は12の年より教育学舎に身を置いて久しい。

寮も併設されているそこからこの屋敷に帰ってくることはそう多くなかった。


「勉学ははかどっているか?」

「…はい」


リィンダネールの言を聞かないかのように教師に目を向ける兄に、教師は苦笑で返した。


「嘘はよくないな、リィンダネール。おや、まだこんなところを学んでいるのか。私がお前と同じ年のころにはもっと…、ああ、いや何でもない。人と比べることではないな。お前はお前なりに努力を重ねればいいのだ」


近寄ってきた兄がリィンダネールの頭を撫でる。

イリアとは違う手だ。


いい子だと褒める言葉が小さく聞こえた。


「はい、兄上。」


甘い言葉がリィンダネールを満たしていく。

この家でリィンダネールを認めてくれるのは長兄だけだった。


リィンダネールの三男という立場は、両親にとって顧みるにはあまり意味がないものなのだろう。

次兄や姉は厳しい貴族教育に鬱屈する度に可哀想な弟を可愛がりに来た。

家に必要とされず、それだけならまだしも、勉学ですら満足に修められない愚かな弟。

罵れば謙り、怒鳴れば怯え、小突けば卑屈になる。

憐れで矮小な存在は彼らの清涼剤だった。


けれど、長兄だけはそうではなかった。

何事も不器用な弟を励まし、褒めて、慈しんだ。


幼心にリィンダネールは彼が好きだった。

刷り込みのように慕うのは当たり前のこと。


ただ一つの拠り所だったのだ。


ニールと自分は似ている。

一心に姉に愛を求める姿をウィルなどは滑稽だと笑うが、リィンダネールが抱くのは共感だった。


飢餓感が満たさていく感覚は、何ものにも代えがたい。


どうしたら褒めてもらえるのか、どうしたら嫌われないで済むのか。

ずっと、長いことそれだけを考えていたような気がする。


浸食にも似ていると、リィンダネールは思った。


リィンダネールの頭に乗せられた腕が離れないのを不思議に思っていると兄がそういえばと呟いた。


「最近、エンドレシア家に遊びに出掛けることが多いと聞いたが、友人でも出来たのか?」


どきりと跳ねる心臓とじわりと滲む汗。


あまり感情のこもっていない言葉は、身分の違うものとなれ合うなと言っているのか、それともただの事実確認なのか、リィンダネールには判断が付きかねる。


慌ててリィンダネールは答えた。


「ええ、兄上もご存じでしょう?ニール殿が新しい遊戯を広めていることを」

「ああ、社交界でも噂になっていたな」

「その道具を融通してもらおうと思っておりまして。手に入れた暁には一番に兄上に差し上げます」

「ほう、それは楽しみだ」


遊びだけではなく、勉学にも励むようにと言い置いて兄が去っていく。


思わず握っていた拳を開いてみれば、長い溜息が共に漏れた。

緊張をしていたらしい。


とりあえずエンドレシア家への訪問は兄に認められたと言っていい。


よかった。

リィンダネールはそう思った。


なぜ言い訳染みた言葉がとっさに口をついて出たのか、あの優しい兄に隠し事をしたことに小さく痛みを覚えても、リィンダネールには真実を明かすつもりはない。


『リィン』


イリアの柔らかな声を思い出せば、何かが晴れていくような気がした。


イリアは決して優しいだけの姉ではない。

エンドレシア家に通うようになって、ニールと共に多くのことを教えられた。


常識外れの算術や、規格外の魔術や、友人たちとの付き合い方。

その授業はスパルタ式で、容赦なく脳天に落ちる拳の痛みに呻いたことは数知れず。


けれどそれ以上に褒められた、励まされた、優しさをもらった。

だからいつの日かふと言ったのだ。


「イリアはわたしの兄に似ている」

「そうなの?」


否定したのはニールだった。


「似てないよ、姉さんは他の誰にも」


不機嫌さを隠そうともせずに言い切ったニールに、イリアがどうしたの?と穏やかな声をかけて宥めるように抱きしめる。


イリアがニールに注ぐ愛はニールの糧だ。

ニールの目に浮かぶとろりとした熱は、冷めることを知らない。


リィンダネールはニールに言い返す言葉を持てなかった。

ニールのことを羨ましいと思うくらいには、兄とイリアの愛の量は違っている。


この場所で、リィンダネールは自分があまり根気強くないことを知った。

すぐに物事を投げ出すのは癖かと聞かれて驚いたものだ。


それから先も、リィンダネールは仲間たちの中で諦めることが早かった。

イリアはそれを怒り、宥め、褒めて何度でも根気強くリィンダネールの癇癪に付き合ってくれた。


それはリィンダネールなりの甘え。

許容してくてることを知っているが故の、甘え。


兄はこんな甘えを許してくれるだろうか。

答えは是。

けれどリィンダネールは兄にこんな風に甘えはしない。


答え合わせの術をリィンダネールは持ち合わせていなかった。

だから、ニールに言い返せない。


「リィン」


多分、家族の誰よりも多く、名を呼ばれた。

多分、もう兄よりも多く。


立場を異にした友人たちの遠慮のない言葉と、喧嘩と、罵り言葉の裏に隠れた信頼と。

それを受け止めるだけの付き合いの深さと共有した時間の濃さと。


静かに、静かに、きっと積もっていたのだろう。

気付かないうちに、昔閉じてしまった扉の前に、リィンダネールは立っていたのだ。


振り返れば幻の兄の姿が佇んでいる。


幾分かの寂寥は感傷に過ぎない。


目を閉じて闇に沈めば、舞台を終えた耳鳴りのような歓声と、じわりと滲み出す熱がリィンダネールを包んで背中を押す。


胸を抑えるのは、苦しいからだ。

吐き出す息は熱い。


熱に浮かされているような、けれど走り出したくなるような、ふわふわとした気分は悪くなかった。


私はここに居る。


リィンダネール・イル・アランドリエは消え入るような気持ちになっていた頃を懐かしく思えるくらいにはっきりと、『自分』という存在を自覚できた。


さあ、扉を開けよう。

もう、大丈夫なはずだ。


『リィンダネール』


行ってはいけないと、兄の声が優しく呼ぶ。

その先にあるのは孤独だと。


けれどリィンダネールは振り返らずに想いを返す。


もう、わたしが縋れるものはあなただけではないのだ。


灯った炎はもう消えはしない。

イリアが熾した火は馬鹿な仲間たちが燃やし続けて、今日、この日にたくさんの感動を飲み込んで煌々と輝く光となった。


誰に必要とされずとも、誰に蔑まれようと、誰に嘲笑されようと、卑屈に折れる心は、もうどこにもない。


昔から、下にいることを求められてきた。

公爵家の跡取りたる長男と、そのスペアの次男。


そして三男のリィンダネールに課されたのは、兄たちの優越感を満たすための弱きものであること。

超えてはならぬ、脅かしてはならぬ。

無言の周りからの圧力はリィンダネールの可能性をただひたすらに奪ってきた。


外に一歩出れば名家の血筋として人は傅き、人の上に立つことを当たり前に求められ、家の中では底辺たることを求められる。


この矛盾した歪な世界がリィンダネールの知る世界のすべてだったのだ。


兄が居て、孤独ではなかったか。

いいや、今も昔も、孤独は孤独であり、他の何ものでもない。

自分だけか?

否、誰にも平等にそれは積もる。


当たり前のことを、当たり前に受け入れて、リィンダネールは世界の扉をあっさりと開いた。



さよならだ、私は私になる。



最後に、足掻くように兄がリィンダネールを呼ぶ。


『いい子だから、戻っておいで』


リィンダネールは静かに頭を振った。

甘い言葉は、リィンダネールを殺す。


これを優しさと、慈悲と、勘違いして、彼を慕い、縋った日もあった。

イリアに出会う前、彼以外に誰もくれない蜜だったから、奪われることを恐れてリィンダネールは必死に彼の期待に応えようと努力した。


けれど、聞こえる。

いや、昔から聞こえていたのだ、意図的に見ないようにしていた兄の傲慢さを。


愚かであれ。

と、無言のプレッシャーが降ってくる。


彼が望んでいるのは弟の成長ではない、弟が優秀であることでもない、自分に近づこうと努力することでもない。

ただ愚鈍であることを。


二人目の兄は乱暴で、ただその性質に恐怖したけれど、一番上の兄から感じていたのは見捨てられる恐怖。


兄が笑顔で褒めるたびに、リィンダネールは無意識化で愚鈍たることを自分に課した。

表面では努力を惜しまず、けれど努力は実を結ばずにいつも砕ける。


そうすると兄が慰めに来てくれた、そうして褒めるのだ、いい子だと。


長く刷り込まれた人格は、ゆっくりと解けて、もはやリィンダネールを縛ることはない。

リィンダネールは何事かを成すことを許されていなかったけれど、イリアが、仲間たちが、その呪縛を断ち切ってしまった。


そうして眺めた世界は、自分の目で見た世界は、色彩に溢れた美しい世界だった。




祭りは終わらない。

イリアが終わらせてくれない。


どうかまたこの奇跡を見せてほしいと懇願する村人にイリアが諾を返す。


熱気と興奮冷めやらぬ帰りの馬車の中、イリアはふふと笑って簡単に聞く。


「さあ、次に生まれる精霊は何かしら?きっと風ね、シリル作れるわよね?」

「演目変えるの!?」


こんなに苦労した舞台を新たに作り直すという。


「まだよ、でもいずれはね。観客が飽きる前に練習しておくに越したことはないじゃない?」


それとも、出来ない?

イリアの挑発に乗るのは癪だけど、出来ないとは思わないからそう答える。


「では決まりね。シリル風の精霊をよろしく。メルはウィルと役割交代、ウィルは舞台効果担当よ。今回わたしがやっていた部分ね。メルの分はニール、一人で出来るわよね」

「シリルがやっていた部分は?」

「あら、わかってるでしょ、セオ?あなたがやるのよ」

「…やっぱり」


慌ただしく変わる役割を頭に必死に叩き込む。


「ランス、方向性は問題ないけど、まずは最後まで魔力が持つように。配分を考えて。」


やはりイリアにはばれていたらしい。

成功した舞台だが、最後の方は火の精霊の姿が一定せずに焦ったものだ。


「グレン、精霊三体では今のままだと舞台が狭すぎるわ、拡張に努めて」

「あー、…了解」

「リィン、グレンの補助は期待できなくなるわよ?制御を学んで」


リィンは空を仰いだ。

生憎と空はなく馬車の天井がそこにあっただけだが。


イリアの厳しい魔術教室はまだ終わらないらしい。

それをどこか喜びを感じながらみんなが思い思いの構想を練り始める。


またあの感動を味わえるのなら、努力もしよう。




「リィンダネール、帰ったのか?」

「…兄上こそ、お帰りでしたか」


熱は冷めない。


「一体どこに」

「ええ、少し街に視察に」


にっこりと笑い返せば兄が訝しげにリィンダネールを注視した。


「リィンダネール?」

「はい、兄上」

「何かあったか?」

「いいえ、特になにも」


少し考える素振りの兄は結局頭を振って思考を断ち切ったようだった。


「近況はどうだ?」

「特に変わりはありません。教師の授業は退屈で、どうにも身が入りませんし」


嘘ではない。


「そうか、いや、報告は受けていたのだが。どうにかお前のやる気をと教師にも泣きつかれてな」

「そうでしたか、それはお手間をおかけしました」

「まあいい、かわいい弟だ。お前はお前のまま、そのまま変わりなく在れ。教師にはあまり厳しくするなと申し伝えておこう」


愚かであれ、愚かであれ。

目を閉ざし、この声だけを聴け。

誰にも顧みられない憐れなお前を私が救ってあげよう。

盲目に慕い、我が手の中で踊り続けろ。

滑稽に愛を乞うその姿で、私は満たされる。


呪いに似た声が聞こえる。


「いい子だ」


伸ばされた腕を、素直に受け止める。

頭をかき混ぜるそれに暖かさは感じなかった。


ちらりと見上げた彼の唇に愉悦が浮かんでいるのを見て、リィンダネールはそっと目を伏せた。


励ませば慕い、優しくすれば歓喜して、褒めればそれに縋る。

当たり前のことを、彼は嗤っていたのだろうか。

弟が何を感じ、どう思っているかなど、頓着するほどのことではなかったのだ。


「お前のことは私が一番よくわかっている、大丈夫、お前はいい子だ」


彼は優しさの仮面を被ってリィンダネールを貶めにやってきていたのだと。

もうリィンダネールはそのことに気付いていた。


本当は、長いこと、気付いていたのだ。

リィンダネールさまの独り立ちのきっかけは舞台の成功だと言う話。

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