33.メルの野心と天の焔
無数の獣たちの足が大地を叩く音は地響き以上の振動を与えてくる。
爆音と言うに相応しい喧囂。
地面が波打っているような感覚に陥るほどの圧倒的絶望が目の前に迫っているというのに。
その小さな音は不思議と誰の耳にも届いた。
パキリと、何かを折ったような、あるいは何かにヒビが入ったような音。
ユリウスはその正体に気付いた。
いつ頃からか兄の腕を飾っていた、糸のように細く、けれど金属であることを示す、硬質な金環。
無視できずに、脅威から目を離して振り仰げばやはり兄がいた。
音の出所はウィルの手元、左の手首を飾る細い幾本もの金環に相違なかった。
そのうちの一つが役目を終えたかのようにゆっくりと地面に落ちていく光景を目にして、不意に気付く。
世界から音が消えた。
またひとつ、高い破折音。
その音以外が聞こえない。
なぜかと疑問を浮かべてから、また気付く。
息が、できない。
意識すれば苦しくなるから不思議だ。
空気を掻き込もうと口を開いても、喉が勝手に気道を塞ぐ。
喉に手を当てて喘ぐユリウスを横目に見て、詠唱の前にウィルは一つだけ言葉を落とした。
「もう少し、離れていろ」
ぱきりとまた一つ。
そうして、呼吸を阻むものの正体に思い至って目を見開く。
魔力だ。
空気を押しのけ、周囲に満ち満ちていくもの。
勝手に生命活動をやめようと、自身の意志の管理下を外れて、身体がその圧倒的な存在に無意識に屈しようとする。
金環が手折られるたびに、濃密に流れ出す。
まさか。
兄は。
じりじりと後退り、ウィルから距離をとった。
でなければ死ぬ。
身体に対する支配能力を幾分か取り戻しながら、生き残った仲間たちと遠巻きにその背を見詰める。
偶然隣に位置した男。
ウィルたちと同じグループだった、なかなかに陽気な人間だったと記憶している。
その彼がじっとりと汗を浮かべながら、ユリウスを見ずに口を開いた。
「…知っていたのか、お前は」
金環は、幾本もまだウィルの手首を飾っている。
地面に落ちるたびに倍増していく重み。
密度が違い過ぎて、陽炎のように周囲の風景を歪めていた。
際限なく広がろうとする領域を留めているのはメル。
この周囲にだけ纏めて、他への影響力を最小限に抑えようというのだ。
それでも潰されそうだと足を踏ん張った。
これ以上がある。
まだ、上がある。
「いつから人間を辞めてたんだ、あいつはよ」
皮肉を混ぜて笑ったはずの彼は、笑えずに口元を痙攣させただけ。
決して薄くなった空気のせいだけではなく、ユリウスは喘ぐように答えた。
「人より魔力が多いことは知っていました。けれど、こんな、こんな…」
兄を天才だと思っていた。
家族は誰も気づいていない、ユリウスだけが知る、少々の優越。
そんなものは消し飛んだ。
いつも思っていたのだ。
鮮やかに展開される魔術と、美しく淀みない魔力の流れ。
どうして誰にも見せないのか。
誰もが知ればいいと、そうすれば彼を見下す愚か者は地に額を擦り付けて許しを請うだろう。
煩わしそうに顔を歪める兄が想像できたから、ユリウスが自分の胸だけに留めていた非凡なる事実。
けれど、自分が思っていた兄は。
あれすら覗く片鱗でしかなかったのだ。
戦慄と共に理解した。
人、一人の身に収められていたとは到底信じられないほどの魔力が漂う。
少なくとも、常識では在りえない。
コップに入れられる水の量は決まっている。
それが、世界を作る法則なのだ。
「化け物か…」
目の前に迫りつつある魔物の脅威と、人の身を逸脱しているとしか思えない隣人。
敵ではないと認識していても、そんな言葉が漏れるほどのものがそこにはある。
天才?
違う、それを凌駕する、ナニカ、だ。
重く垂れこめ、地を這う濃密な魔力。
一個の人間の身に収まるとは到底思えない質量に触れると焼かれるような痛みを感じた。
『魔力に色はない、物理的作用もない』
そんな常識が嘘だと知っているのは、ここにいる仲間たちだけだろう。
中心にいる彼らは、常人の目にはもはや霞がかったように見える。
全身を浸せば火傷の跡もないまま焼け死ぬのではと恐怖心を覚えたころに、魔力が集約を見せる。
魔力の流れを目で追って、それが確かに『見えている』のだと気付く。
淡い光が浮かび上がらせる繊細な紋様。
頭上に展開された、純粋な魔力だけで描かれた美しい陣。
目に見えるまで凝縮された魔力を見るのは初めてだった。
こんな状況にも関わらず、人々は見惚れた。
「…神よ」
魔物の足音も、大地の鳴動も、風の音も、ウィルの魔力に吸い込まれ、周囲は無音になった。
生き残ってきた彼らの、常識を破壊されても尚そう呟いてしまう驚愕だけがウィルの耳に届く。
口の端を上げる。
愉快だ。
こんなに愉快なことはない。
現実世界でここまで魔力を使ったことはなかったが、試してみればワールド・アトラスに居るかのように十全に扱えた。
アリアを手に入れるために相当な無茶をして手に入れた力だ。
存分に驚き、称賛し、恐怖してほしい。
長い詠唱を始める。
そもそも、魔法とは神の力の一端を再現するに等しい。
つまり、神に祈り、奇跡を借りるのである。
けれどウィルの声には神の名の一つも混じらない。
神に祈るのではなく、懇願するでもなく、謙るでもなく。
そこにこの世界の神を讃える言葉はない。
ウィルが詠唱を始めた途端に、横に位置するメルとシリルが微妙な顔をした。
嫌そうな顔ともいう。
理由は簡単、イリアがウィルを称する言葉は中二病だ。
いわゆる生命の樹と言われる中二病患者御用達の絵図を元にして体系を作ったウィルの大規模魔術式、それには仲間たち誰もが少々思うところがあった。
が、この魔術陣は要素が多いだけあって、大いに応用が利く。
そこは他の仲間たちも認めるところ。
しかしもちろん仲間たちがそれを真似て使うことはなかったし、ワールド・アトラスの住人たちに使いこなせるものでもなかった。
ウィルとしては教えを請う者にはいくらでも教え、広め、大いに世界を席巻してほしいと思っていたが、そもそも生命の樹を形骸化しているウィル独自の理論についていけるものはいない。
今後も現れないで欲しいとは仲間たちの一致する意見である。
そのまま忘れ去られてくれればと思う仲間たちの願い空しく、かの絵図は残念というか、幸いというか、ウィルの莫大な魔力とそれを発現するための装置としては大変優秀だった。
一つ、観念を唱えるたびに、一つ、陣が浮かび上がる。
周囲に満ちた魔力が渦を伴って形を成す。
「はは、俺の目がおかしくなったのか?」
「…あなたがおかしいなら、きっとここにいる全員がおかしくなったってことになるわね」
力ない空笑すら、跡を残さず吸い込まれていく。
陣を作れるものはそれだけで魔術師と呼ばれ、宮廷に招かれるほど優秀だとされる中で、無数の魔術陣を作り出すこの男を、人々が畏怖しないわけがなかった。
「ああ、また一つ。まだ作るって言うの?頭が変になりそうよ!」
陣と陣を重ねる二重陣。
伝説で語られている、失われた技術。
無数の陣をパスで繋ぎ、更に巨大な陣とする。
いまだ目にしたことのない新術。
そもそも陣が円型であるのは、それが一番抵抗が少ない形であるから。
けれどウィルの陣は直線も多い。
常識が覆される経験をこの数日で嫌というほど味わった。
けれどこれはまた別格だ。
「神なき奇跡だぞ!この非現実を一体何に祈ればいいんだ!」
悲鳴のような呻き声が聞こえた。
メルたちから見れば大変独りよがりなその術式は、人々から見たなら、神の顕現を思わせる神秘性を持っていたらしい。
曇天の下、中空に描かれた巨大な陣を読み解く事が出来る者は誰一人としていない。
それでも目を凝らす。
そこに神を見ようと。
陣は式の集合体。
式は文字によって成り立つ。
けれどウィルの陣を成すのは見たこともない文字。
古代文字にしてもまったく目に馴染まない。
いまだ人々に知られていないものなのかもしれない。
少なくとも、神に許されて与えられた文字ではなかった。
ユリウスはふと、そう思って、はっと周りを見回す。
同じように何かに思い至った顔をした面々と目が合った。
異端者。
その単語が共通して思い浮かぶ。
神に祈らず超常を成す。
神に頼らず魔法を紡ぐ。
神の敷いた道から逸脱するもの。
それすなわち、異端者である。
神ではない何かから力を借りること。
これは、人間に禁じられた禁術に当たる。
生まれたときから教え込まれた禁忌に対する拒否感が一瞬の間に皆の間を行き過ぎた。
神の僕にして神の奇跡の伝承者であるグランドリエ貴族ならば殊更その忌避感は強い。
だが。
「…神はいない」
誰かがぽつりとそう言った。
諦めとも呼べる、力のない声だった。
貴族を貴族足らしめる柱、それが神と魔法。
神は今まで力を貸してくれた。
けれど。
「本当は居るのかもしれないけど、私たちにとって、それは救いにはならなかったわね」
何かの力を借りて魔法が発動するのだ。
神に似た何かは居るのだろう。
でも、もう『何か』に意味はない気がした。
目の前で神以外の『何か』に力を借りて、見たこともない魔術を扱う者がいる。
それでこの状況が少しでも覆るのならば、『それ』が何者でも構わない。
神以外に縋れるものがあると気付いた者が、自らを救わない神に祈らなくなったとしてもそれは必然であった。
何よりも、神以外の何者かが『居る』と、平民ではない、神の僕たる貴族がそう思ったことが重要なのだ。
その日、何が起きたか?
神の名に、傷がついた。
神の権威の失墜。
今はほんの一欠けらでも、遠からずいつか雪崩のように堰を切って落ちていく。
どこかで誰かが弾けるように笑った。
どこかで誰かが狂ったように笑った。
どこかで誰かが、満足そうに哂った。
ヒトとは、神が思うよりずっと現金なものなのだとそれらは知っていた。
だから絶望を撒き、希望を残し、そこに『彼ら』を居させた。
自らの策の成功を確信して響く哄笑は、わずかにメルの耳に届く。
「…なるほど」
この狂乱の宴の主催者が誰であったかを悟って、メルは宙に描かれた美しいセフィロトの樹を見た。
誰が災厄を呼んだのか、それが知れればその思惑も簡単に知れる。
「なるほど、ね」
繰り返して、メルは目を伏せる。
この事実を知って、自分は如何にするべきか。
零れた水はもとには戻らない。
もとより、メルが優先順位を着けるのなら、その順番は仲間とそれ以外でしか分けられない。
ならば。
「いいだろう、乗ってやる」
これを好機として、自分たちに都合のいい世界を作り上げることができるかもしれない。
それは抗いがたい魅力を放っていた。
手の平で転がされているような不快感はあれども、得るものの大きさに目を瞑らざるを得ない。
その日、何が起きたか?
メルに、初めて野心が芽生えた。
「世界をこの手で覆すのも面白い」
その宣言に、どこかで誰かが思惑通りだと嬉しそう笑った。
メルは少し悔しそうに、誰にともなく苦笑を刻んだ。
天を覆うほどの魔術陣を描いたウィルが、その隅々まで魔力を巡らせながらメルを呼ぶ。
「あとは頼んだ」
魔術陣は言うなれば生き物だ。
魔力を血、呪文で作られた性質を性格、その形を身体と例えたのはイリアだったか。
ならば術者は脳と心臓とすれば言い得て妙だ。
だがウィルが描き出せる魔術陣はあまりにも大きく、それを維持させることに割く労力は馬鹿にならない。
仲間たちの誰をもってしても、これを支えることは出来ないほどの大喰らいの術式。
故に心臓の役割はウィルにしかできない。
しかし脳の役割ならば、出来ないことはない。
自分なら。
「これほどの大規模魔術式を動かすのは久々だ」
言いながらも口の端が笑みを作っている。
自信がある証拠だった。
メルに見えないように、ウィルはシリルと目を合わせて肩を小さく竦める。
メルは指向性を持った魔術陣を見極め、断ち切っても崩壊暴走しないであろう一か所を解く。
式を繋げて作られた線から成る、途切れない魔術陣。
するすると引っ張れば、当然一本の紐のようになる。
生き残った者たちに出来るのは、その常識外の光景をぽかんとただ見守るだけ。
帯のように漂う、元は巨大な陣であったものを操り、森の手前の草原に慎重に置く。
黒い波は疎らにそこを過ぎていたが、鈍重な本隊はいまだ到達していない場所。
森の端から端まで、目には映らないほどの長大な力の塊が設置された。
陣はまだ余っている。
全部で三本、距離を違えて同じように配置する。
「シリル、一本目の発動を頼めるかな?」
「んー、そうだね、一個だけなら発動くらい出来ると思う」
シリルと意志を共有し、メルは、形を変え帯状になっても陣としての機能を保ち、魔力を供給し続けているウィルを振り返る。
「さあて、思いきり派手に行こうか」
ウィルはにやりと笑った。
「存分に」
黒い波が一本目の上を通り過ぎる。
「シリル」
「ほいさ!」
メルの声を合図にシリルが場にそぐわない軽い調子で答えた。
手元で小さく飛び散る火花。
小さな始動の動作。
けれど、効果は馬鹿みたいに劇的だった。
「…う、わ」
「きゃ!」
腹に響く音は、目を刺す光の後に届く。
思わず閉じた瞼の裏に焼き付いた閃光。
天を衝く火柱が轟音を上げて立ち上がった。
空を焦がす熱は森の出口を塞ぎ、遥か視界の彼方まで続く。
無理矢理目を開けた彼らの前には幅何キロと続く、炎の滝のようにも見える劫火。
供給され続ける燃料を糧に灼熱の壁が出現していた。
「…はは」
天から落ちる。
天と地を結ぶ浄化の焔。
がくんと膝を落として、地に着いた手で土を掻く。
もはや誰も、驚きの感嘆符としてすら神の名を口にはしなかった。
言えるわけもない。
この目眩がするほどの恐怖と畏怖と崇敬の前では。
なぜなら、そこには神をも焼き尽くす刃がある。
神の御業に劣らない奇跡が目の前に。
「いよっし、上手く着火した!」
「よくやった、シリル」
「はっは~!燃えろ燃えろ!」
人の形をした、神にすら見える背が。
―そこにはあった。




