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イリアの世界  作者: 一集
第二章
32/75

EX.ダリルと火の精霊

闇の精霊(ティナ)の悲劇を忘れるな』


耳にタコが出来る程、聞かされた言葉だ。

だがその意味を自分は欠片とも理解してなかったのだと、取り返しのつかない過去にダリルは何度も拳を握る。


故郷への道は遠く、足取りは重く、そして孤独だ。


胸に空いた穴は、もう塞がることはないのだと、ダリルは知っている。

自業自得だと、自分を笑う気力すらない。


ただ縋るものがあるから、ダリルは空虚さしかない体を機械的に動かしているに過ぎない。


なにを求めているのか。

今さら救いが欲しいのか。

あるいは希望を掴みたいのか。


なに一つ、答えは出ない。


それでも歩を進める。

故郷へ。


かつて憐み、見下し、馬鹿にした少女が住む村へ。






「やっぱりあんたも行くんだね」


母が諦めともつかない溜息を吐きながら旅装を整えたダリルに言う。

ダリルは出立の朝にもまだそんなことを言ってくる母に少しの苛立ちを感じた。


快く送り出してくれてもいいではないか。

せっかくの息子の一人立ちだというのに。


「そんな顔をしなさんな。別に今さら止めはしないよ。あたしだって若い頃は都会に憧れて馬鹿な事もしたもんさ」


さすがに母親は息子の心情を理解している。

苦笑を浮かべてそんなことを言った。


こんな田舎町で一生を終えたくはない。

自分には田畑を耕すことよりもっと、出来ることがある。

もしかしたら、自分は特別な人間かもしれない。

それを知らず、埋もれたまま生きていきたくはない。


かつては自分が通った道だ。

息子に何を言っても無駄だと、自分が一番よく知っている。

だが無為とわかっている言葉を紡ぐのは、息子にとっては煩わしいだけとわかっていても、それでも湧き上がる心配と、大人としての義務から来るものだ。


「気を付けて行くんだよ。いつでも帰っておいで。無理はしなさんな。落ち着いたら手紙を書くこと。近況報告を怠ったら承知しないからね」

「わかってるって」


自分の親が自分に向けた言葉を息子に向ける。

親の心子知らず、とはよく言ったものだ。


親になって初めてわかる親心。

届かないとわかっていても、少しでも心の隅に残ればいいと口うるさく言い募ってしまう。


「いいかい、都会には誘惑が多い。くれぐれも『闇の精霊の悲劇』を忘れるんじゃないよ」

「はいはい。そんじゃ行ってくっから」


母の小言は終わりそうないと、ダリルは強制的に切り上げてさっさと実家に背を向ける。


同じ世代の奴らはほとんど旅立っている。

ダリルは小金を貯めるのに手こずってスタートラインから遅れてしまっていることに少々焦りを抱いていた。


後ろを振り返ることもせずに、ダリルは前を見て歩く。

小さな一歩は、大きな道へ続く大切な一歩。

村の出口、それから街道、その先にある王都、それから自分の輝かしい未来。

ダリルは意気揚々と進みだした。


そんな若者の姿を、村を構成する大人たちは何とも言えない目で見送る。

怖いもののない、若さゆえの無鉄砲さに対する憧憬。

生まれた時から見知った子供が、村を離れていくことに対する寂しさや諦め。

若者が思い描くように輝かしいだけではないだろう現実に対する憐憫。


それらの視線に気付かないまま、村の出口に差しかかって、ダリルは一人静かに歩く少女の姿に気付いた。


「ティナ!」


名前を呼べば少女は緩やかな動作でダリルを振り返る。


「ダリル、あなたも行ってしまうのね」


急ぐでもなく近づいてくるティナは、ダリルの旅装に気付いてそう言った。


「ああ、ティナは?近いうちに出るんだろう?なんなら俺が落ち着いたら手紙を書くよ。同郷がいた方が心強いだろう?時期を教えてくれれば住むところも押さえておいてやるし」


ティナは勢いよく話し出すダリルの思い込みに少し苦笑をみせた。

誰もが都会を夢見ると思っている、ティナもいつかは村を出るものだと決めつけている少しだけ年上の幼馴染。


「ダリル、わたしはここにいるわ。村を出るつもりはないの」

「…え、は?なんで?」


きょとんとダリルが聞き返す。

思いもよらない答えを聞いた顔。

よほどティナの言葉は予想外だったのだろう。


「わたし、この村が好きだもの」


全員が全員、村を出るわけではない。

事実ティナ以外にも幾人か、村に残る意志を示している者がいることをダリルは知らないのだろう。


「こんな、畑と花の栽培しか取り柄のない村が?」

「ええ、そんな村が。」


にっこりと笑うティナは同年代の少年少女たちの中でも一番大人っぽい。

また、少年たちにとっては一番可愛い女の子でもあった。


とある事件から、彼女は一時期からかいの種になったけれど、それは気になる女の子に構いたい幼い心がそうさせていただけのこと。

馬鹿にされても、憐れまれても、彼女は何一つ変わらず、そんなことでは彼女の気を引けないと気付いた少年たちは徐々に大人しくなっていった。


昔から少し落ち着いた雰囲気のあった彼女は、柔らかさを残しつつ、子供特有の丸い線を失い徐々に大人になっていく。

やがて美人と呼ばれるに違いない少女を前にして、ダリルはいつだって心が浮足立つ。

先に旅立っていった少年たちが全員例外なく、彼女を自分の旅に誘っていたことをダリルは知っていた。

その全てに否を返したことも知っている。


馬鹿な事だと思いながらも、心のどこかでもしかして自分の誘いを待っているのではないかという考えは今否定された。


「わたしにはやりたいことがあるけど、それはここでだって十分にできることよ。わざわざ村を出て行こうとは思わないわ」


ただ大都会に憧れて村を出ていく少年たちとは違って、彼女には最初からやりたいことが明確にあった。

そしてそれは都会でしか出来ないことではない。

ならば、彼女がこの村を出る理由にはなり得ない。


そんな言葉が、ダリルには理解できなかった。

ティナもまた、ダリル以前に村を出て行った少年たちと幾度となく繰り返した問答だ、理解されないことを知っていた。


「ダリル、気を付けてね」


あっさりと、ほのかに思いを寄せる少女からそんな風に別れを告げられて、ダリルはがっくりと肩を落とす。


「どうか、あなたとあなたの精霊に幸多からんことを」


ティナは少し勢いのなくなったダリルの後姿にそう声をかける。

心からの願いだ。

どうか悲劇を繰り返さないでほしいと。






当然のように、ダリルが現実に押し潰されるのにそう時間はかからなかった。


人の多さ、整備された道、壁に囲まれた堅牢な街。

店が立ち並び、この街にない商品はないのではないかと思わせる物量。

活気の満ちた様子に圧倒され、同じだけ活力を漲らせた高揚は一月足らずでダリルから去った。


人が多い、それすなわち人材が多いということだ。

田舎町の田畑を耕してきただけの少年に何が出来るか?

特別に、彼だけができることなど何一つない。


彼が出来る事は誰でもできた。

仕事は多かったが、それに群がる人も多く、新参者の彼がありつける仕事は少ない。

幸運にも新顔に回ってくる仕事は、同じように田舎から出てきた岩に噛り付くがごとく貪欲な他の者に奪われていく。


同じ能力なら、懸命な者が勝つ。

当たり前のことだ。


だがダリルにはできなかった。

鬼気迫る様子の周りに気圧され、そしてそんな者たちを心の中で余裕のない恥ずかしい奴らだと見下したのだ。

多分、それが躓きの第一歩。


ダリルには覚悟が足りなかった。

ダリルには危機感がなかった。

特別困窮した村ではなかったから、仕事は与えられた一定量をこなせば食うに困らないだけの糧を得られ、隣人とは譲り合いと協力で生きていけた。


だが、仕事を得ることから死ぬ物狂いでやらねば一日の命を繋ぐことすら出来ない者もいる。

生まれた時からそんな環境にいた者たちにとってダリルはまるで世間知らずのお坊ちゃんにも見えた事だろう。

奪うことにも、競争にも慣れない彼はここではのろまな田舎者でしかなかった。

いや、それ以下の、ただ生かされてきた赤ん坊にも等しい。


中にはダリルのようにその様子に圧倒されていた者もいたが、聡いものはすぐさま染まった。

覚悟を一瞬で決めるだけの判断力と度胸。

残念ながらダリルにはそれすらなかった。


そうして二歩目を踏み出すこともできなかった。


はじめの波に乗り遅れた彼に待っていたのは人生の落伍者の烙印だ。

仕事すらしない怠け者。

一度そのレッテルが張られればダリルに出来る事はない。


ダリルは癇癪を起して叫んで回りたかった。

しないんじゃない、仕事がないんだ!と。

俺は好き好んで日がな一日手持無沙汰にしているわけじゃない。

お前たちが仕事を取るから、回してくれないから、だからいけない。

お前たちのせいだ。

そんな悪態を道行く人々を眺めながら心の中で吐き続ける。


彼には自分で立ち上がる才覚も、自力で歩く気概もなく、自分の現状を見詰める気力すらない。


「あ、おい見ろよ。あれ学園の連中だ。実習かな。聞いたところによると今年は逸材が多かったとか」

「おうおう、立派なもんだね。あのマントだけで俺たちの給料の半年分くらいか?」

「いや、一年分はかたいな」


清潔な服、健康的な肌、健全な笑顔。

友人、金、住処。

半年もすれば当たり前にあったそんなものすらダリルはなくしていた。


「ねえ、あれが噂の『銀光のリューン』さま?ね、ね、声をかけてみない?」

「やめときなさいよ」

「なんでよ、別にあたしだって上手くいくとは思ってないわよ。でも、もしかしたら、万が一ってこともあるかもしれないじゃない?」

「無理、隣見なさいよ」

「…あぁ、今日も女連れ」

「なかなかの腕利きらしいわよ、あの女冒険者」

「ふ~ん、そうは見えないけどねぇ?」


噂、世間話、屈託のない会話。

ダリルの口はもう小さな罵声と独り言以外を吐き出さない。


もはや同郷が彼を見たとして、ダリルと気付くかどうかもあやしい。

脂でごわごわの髪、伸ばし放題の髭、風呂どころか水浴びもしていない、変えの服もない。

ダリル自身、同郷になど会いたくもなかった。

見せられる姿ではないことくらい、いくらダリルでもわかっている。

彼らは無事にこの喧しい市民の仲間入りでもしているのだろうか。


時々人々の目が自分にとまって不快そうに背けられる。

それは道端に動物の死骸でも見つけたかのような、少なくとも同じ人間を見るものではない。


――惨めだ。


その視線から逃れるように、やがてダリルは行き着く場所に行き着いた。

都の闇。

道から転げ落ちた者が集まるスラムへと。


そこでは誰もダリルにあの目を向けるものはいない。

同じ穴の貉だ。

唾を吐いたら自分に落ちてくるから吐かないだけだが、それでもダリルはほっとした。


施しを受け、残飯を漁り、犬畜生のように水溜りをすする。

なにがしたかったのか、そんなことダリルの頭にはもはやない。

生きることだけが目的だった。


夏が過ぎ、秋も深まり、やがて冬を迎えるころ、転機は来た。

その日は秋にしては冷え込み、薄着のダリルには少々辛い日だった。


だから暖まりたいと思ったのだ。


「さむい」


このところ独り言以外に用途のない言葉が漏れ、そして思い描いた通り、ダリルの望み通り、暖かな火が目の前にあった。


ほっと息を吐く。

火は昔と変わらず、ダリルの心に答えるように穏やかに揺らいだ。


村にいた時はそれなりに便利に使っていた。

魔道具が一般的な街に来てからは無用の長物と化したが、火を熾すことが一苦労だった田舎ではダリルはとても重宝されたのだ。

そういえば、自分のいなくなった後は、誰が火種を作っているのだろうと、ダリルはふとそんなことを思う。


村には自分の他に火の精霊の加護を持つ者はいなかった。

自分が旅立った後にでも生まれていればいいのだが、と。


懐かしく思い描くかつての退屈で穏やかで恵まれた生活。

今さら惨めな姿を晒しにおめおめと帰れるわけもないが、それ以前にもはや道を往くための金もない。

こうなる前に踏ん切りを付ける勇気すらダリルにはなかったのだ。


「おい、こっちだ」

「早く囲め!」


取りとめのない思考に潜っていたダリルは野太い声と騒がしい足音に顔を上げる。

長時間同じ姿勢でいたから節々がギシギシと痛んだ。


「いたぞ、こいつだ!」

「見ろ、本当だ。火が浮いてやがる!」


ぽかんとした。

ガタイのいい、だが自分と同じように薄汚く粗野な男たちがスラム特有のすえた匂いを放ちダリルを囲んでいた。


今のダリルは路傍の石にも等しい、掃いて捨てるほどいるスラムの一住人でしかない。

だが明らかに彼らはその自分を取り囲んでいる。


「…あ、あの?」


状況が理解できず、ダリルは戸惑い気味に声を上げる。

効果は劇的。


男たちは警戒心も露わにじりっと輪を広げる。

その顔に浮かぶのは見覚えのある表情だ。


自分がよく浮かべる表情でもある。

最初は安堵の息を吐いたスラムの光景は、染まってみれば一色ではない。

スラムにすら秩序がある。

いや、スラムだからこそ力関係は顕著だ。

建前すらなく、ここでは弱肉強食が摂理。

そして、こんな世界の隅ですら、ダリルは弱者であった。

強者の目に留まり邪魔だとその足元で弱者の命が拉げた光景を見て怯えた時にそう決まった。


そう、ダリルを囲む男たちは、ダリルからすれば全員が強者。

なのになぜだろう。

彼らの表情は自分が浮かべる怯えによく似ている。


「きさま、何ものだ!」


何もの?

質問の意味がわからない。


「貴族がこんな場所にいる訳がない、それとも邪魔になって捨てられたご落胤か?」


展開について行けないながらも、その言葉には思わず笑う。

この俺が、薄汚いゴミのような自分が貴族かその落胤だって?

馬鹿にするにもほどがある。


「何を笑ってやがる!」


腹に響く怒号に驚いて思わず身を引けば、応えるように目の前の火は伸びて壁の様な形を取った。

驚いたのは男たちだ。


「こいつ!やっぱり魔法使いですぜ!」


その言葉で合点した。


目の前の火の壁。

そこに火を燃やし続ける木も油もない。

けれど火は確かにそこに留まり、そして自在に形を変える。


それはすなわち魔法に等しい。

この国では貴族しか持たないはずの不可思議な能力。


日に日に雪解け水のように勢いを増し大地に浸透していくかの精霊信仰でも、地方ならいざ知らず、多くの人口を擁する場所ではいまだ人の口には上らない。

爆発的に精霊術の名が浸透するのにはまだ数年を要するこの時点では、知られていないのも当然だった。


「あは」


思わず表情だけでなく、口からも笑いが漏れた。

気色ばむ男たちに脅しを込めて火を向けてみれば、慌てて尻餅をつく始末。


「はは、なんだその恰好。おっと、燃やされたいのか?」


そうして、たったの一瞬でダリルはこの掃き溜めで強者に成り上がった。


それは胸のすくような快感。

久々に四肢に力を張り巡らせてダリルは立ち上がる。

蔑みではない、憐みではない、無関心に通り過ぎることもない目、目、目。


人の価値は他人が決めるものなのだと、ダリルは思った。

価値を認めさせた時、湧き漲る、不思議な力が確かにある。

そんなものに背中を押されて、虐げられるものは、虐げるものに変貌を遂げた。






と、いってもダリルは王者ではなかった。

ただ、強者の一員と認められたに過ぎない。


だがすり潰されてきた自尊心を取り戻したダリルにとってそれを失うことはただひたすらに恐ろしいことだった。


飯が食える。

澄んだ水が飲める。

凍える寒さに震えず、虫に煩わされず眠れる。


あの路地のミイラども。

ほんの少し前までその一員だったというのに、再びあの場所に戻るくらいなら、奪われるくらいなら、奪う側になって何が悪いとまで思う。


故に誇示する。

無駄に虚勢を張り、人を脅し、我を通す。

その有り様は縄張りを必死に守る小動物を髣髴とさせた。


強者と言えど、一人では生きていけないのがスラムの厳しさ。

彼らは徒党を組み、力で奪うことでその生活を維持している。


その構成員としてダリルは盗むことを覚えた。

奪うことを知った。


なにが悪い?

そうしなければ生きてはいけない。

生きたいと思って何が悪い?


ダリルは誰にともなくいつも言い訳をする。


扱い辛くなっていく自分の火には気が付かない振りを。

害意を以って火を向けるたびに疲れを覚えるようになった体には叱咤を。


「おい、火男(サラエン)よ。準備はできてるだろうな」


ここでは誰もダリルの名など呼ばない。

聞かれた試しもなく、ダリルも自分から名乗ったこともない。

そういう世界だった。


「久々の大物だ、失敗は出来ねえぞ」

「何度も言わなくてもわかってるさ」


ダリルの力が狡賢く小賢しい男たちの小さな肝を肥大させたのか、彼らは王都を出て、街道近くの夜の森に潜んでいた。


ここで王都から出てきた馬車を狙おうというのだ。

獲物の詳細は知らない。

知らされていない、知りたいとも思わない。

自分は成すべきことを成すだけ。

奪う者なったのだ、ダリルはそれがただ施しを待つより堅実だからそうする。


「来たぞ」


夜に出る馬車など怪しさ満点。

だが、夜に門を開けて出てきたという事実もまた何かを示している。


張っていた罠は見事に馬の足を止め、ダリルが何かをするでもなく男たちが馬車を素早く囲む。


「開けろ!」


命令が飛んで、一番の下っ端が馬車の扉に手をかける。

しかし、あるいは案の定、男の薄汚い胸からは剣が生えた。

自分の何かが侵されようとするときに、抵抗しない人間はいない。


剣を生やしたまま男は地面にどうと倒れた。

ダリルは無感情にそれをただ眺める。


ああ、一番下っ端じゃなくてよかった。

ああ、死にたくない。

ああはなりたくない。


そのまま馬車の中から躍り出た男はもう一本剣を持っていたのだろう、それを振り回して近くに居た男たちを二三人切りつける。


悲鳴と共に冗談のように指が舞い、腕が飛んだ。


スラムの中には手足を失った者も多かった、大方こうして失ったのだろう。

万が一生き延びたとしても、彼らはめでたく弱者の仲間入りだ。


「囲め囲め!くそ、冒険者か?そんなもん雇ったなんて聞いてねーぞ!」


まあ、わざわざスラムの害虫に聞かせるような話ではないだろうとダリルも思った。


「数で押せば勝てる。人数が減った分だけ取り分も多くなったんだ、奮えよ!お前ら!」


そうはいっても、目の前の男は明らかに強い。

のこのこと跳び出せば魔物の餌と変わらない。


「おい、火男(サラエン)!準備はまだか、はやくしろ!何のためにお前を連れてきたと思ってる!」


突然の怒声と変わらない命令と共に、包囲の輪から少し下がっていたダリルの服が掴まれ無理矢理男の前に放り出された。


驚愕の一瞬に殺されなかったのは相手も驚いていたからだろう。

ダリルの間抜けな声と男の声が重なった。


「…え?」

サラエン(火男)?」


無様に地面に這いつくばったまま、剣を血で濡らした男の小さな疑問にダリルは瞬時に応える。

危機感がそうさせた。


死にたくない。


火が浮かぶ。

男の目が驚きに見開かれた。


「失敗しやがったらその腕へし折るぞ!」


ダリルの背を押す声がする。


もういやだ、あんな生活には戻りたくない。

だから力が必要だ。

お前が、必要なんだ。


願いに応えて火は炎になった。


ダリルは邪悪に笑う。


「もえろよ」


吐いた言葉は呪いの言葉だった。

魔法のなんたるかを知っているのだろう男の顔が何かの衝撃に備えるように歪み、視界の端で汚い言葉でダリルを脅す男が勝利を確信する笑みを浮かべ、ダリルは炎に撒かれる男の姿を幻視した。


そして、

なにもおきなかった。


「…へ?」


ダリルは炎が火に戻っていくのを不思議そうに眺める。


これはなんだ?

なにが起きた?


俺を支える力。

俺を生かす力。

俺のための力。

俺の、力が。


――いま、俺を裏切った。


「なにをやってやがる、ふざけてんのか貴様!!!!」


泡を飛ばして怒鳴る男の声が遠くなり、目の前の男が剣を構え直すのが見えたが、そんなものはどうでもよかった。


いま起きた現象だけがダリルの感情を支配する。

あり得ない事態。

あってはならない事態。


どす黒い感情が体を支配し、荒くなった呼吸を噛み殺す。


そしてダリルの頭の中を一瞬にして沸騰させた怒りが言葉になる。


「お前!何をした!何をしてる!?勝手な事をするな!!お前はなぁ!俺の言うことさえ聞いていればいいんだよぉぉおおおお!!!」


ダリルは気付かない。

その言葉はダリルを仲間とも思っていない男が罵る言葉と同じ内容、同じ熱を孕んでいた。


周りの者は一斉に言葉を失う。

誰に向けて言ったのかもわからない突然の怒声が、件の火男から発せられたのだから。


「さあ、炎を作れ!あの男を燃やせ!全てを燃やし尽くすんだよ!!!!……あ?」


そして最後に間抜けな声が漏れて火が消えた。


「……あれ?…なんで?」


ダリルは体中から力が抜けていくのを感じていた。

頭で理解しなくとも、その体が何が起きたのかを知っていた。


喪失。

消失。


「おい?どこいった?」


慌てて辺りを見回す。

けれど見えるものはない。

生涯に一度しか見えないはずのその『一度』はもう使ってしまっている。

ダリルの目が探し出すことは出来ない。


「何をあそんでる?はやく帰ってこい」


夜の空間に空しく響く声。

きょろきょろと中空に何かを探す火男に、剣の男も、スラムの男も、同じように不気味そうな目を向けた。


「…狂ったか?」


剣の男がそう言い、スラムの男たちも心の中で同意する。

そうしてその言葉通り、決壊したかのような悲鳴が火男から発せられた。


「うあ、あああああああぁぁぁぁぁあああああああ!!うそだあああああああああ――――――――!!!!」


絶望を孕んだ声が闇を裂く。

聞きなれたはずの種類の悲鳴にも、思わず顔を顰めてしまうほどには強烈な声。


誰にも理解できない。


彼が何に絶望しているのか。

なにを失ったのか。


彼らの目の前にはただ狂ったように見える男が一人いるだけだ。


スラムの男たちはここまで生き延びてきただけあって機に聡い。

完全なる失敗を悟った。

無言で撤退の意志を共有し、狂った男から万が一にでも情報が洩れぬようにとその背を錆だらけの剣で突き刺す。


隙だらけの火男は簡単に倒れた。


それを見ずにスラムの男たちは森の中に逃げ出す。

剣の男もまた、火男の姿をもはや見ない。


彼らは逃走者と追跡者になったのだ。


「では先の宿場で落ち合いましょう!」


その言葉を仲間に残して剣の男は森の中へ消え、馬車は先を進む。


残ったのは先に死んでいた仲間と、背から血を流す男が一人。


誰もいなくなった場所でダリルは思った。

こんなものだ。

自分は、所詮なにものでもなく、誰にも見向きもされず、つまり最初から最後までスラムの飾りのように死を待つ浮浪者たちと同じなのだと。


なにもない。

本当に、ダリルにはなにもない。


スラムにまで身を落としたダリルに、それでも加護を与え続けた精霊も、もういない。


あれは自分のせいだ。

自分で言ったのだ。

要らない、と。


知っている。

火の精霊は気性が荒いから人を傷つけやすいのだと昔から幾度も注意されたけど。

ダリルだけは知っていた。


ダリルの精霊(・・・・・・)はその中にあってひどく穏やかな性質を持っていた。

破壊を司る火の精霊でありながら、そんなものは似合わない、とても優しい精霊なのだ。


誰かを傷つけることなど出来ない。

傷付けたくないと、何度も言っていた。

いやだと。

やりたくないと、ダリルに訴えていたけど、ダリルはその全てを無視した。

それでもダリルを守ってくれていた精霊にダリルは言ったのだ。

言うことさえ聞いていればいい、と。


見限るのは当たり前だ。

けれど。


―こんなに寂しいものだとは思っていなかった。

――こんなに、空しいものだとは思っていなかった。


精霊の加護を失うということが、どんなことなのかを、これっぽっちも理解していなかった。


優しく微笑む幼馴染を思い出す。

精霊を失って尚、微笑める彼女を。


無理だろう。

自分には出来ない。


だが。

どうせ、もう終わる命だった。


惨めに地面に這い、誰にも看取られずに、誰からも悼む声はない。

精霊すら見限るろくでもない人間の最後には相応しい気がした。


地面を掻く。


息をする度にこぽりと血が吐き出される。


精霊の加護を持つ者は、きっと本当の孤独を生涯知らない。

精霊の加護を持たない者も、失うことがない故にその孤独を知らない。


精霊の加護を失った者だけが、この永遠に沈みゆく深淵の孤独を知るのだろう。


さむい。


もう火は宿ることがなかった。


さみしい。


息をしようと足掻く浅ましさ。


くるしい。


口を開く。

空気を掻き抱くように肺を満たそうとしても、溢れてくる血に阻まれてそれは叶わなかった。


生きる為ではない。

呼吸はもう生にはつながらない。


けれど、ダリルはどうしても声を出したかった。


声に出して、伝えたいことがある。

言葉は届かないだろうけど、音に出して空気を震わせることに、意味があるような気がするのだ。


その願いは、何の気まぐれか、聞き届けられた。

呼吸が幾分か楽になり、それと共に意識が混濁していく。


「…サラ、」


愛しき俺の精霊。


「ごめん」


ひどいことを言ってごめん。

傷付けて、ごめん。


謝罪が声になったのかを、ダリルは確認することができなかった。


サラ。

一度だけ見た、精霊の姿。

幼い少女の姿をした彼女に、まだ同じように幼かったダリルは名を付けた。


嬉しくて。

嬉しくて、自分だけの彼女が嬉しくて。


起きては彼女に挨拶を、楽しいことがあれば報告を、悲しいことがあれば共有を。

その全てでダリルは彼女の名を呼んで過ごした。

姿の見えない彼女を、それでもそばに居るのだと信じて疑わず。


けれど仲間たちにからかわれる度に名を呼ぶことは減り、やがてダリルはその名を口にしなくなった。


何年振りだろう、名を呼んだのは。


『ダリル』


応える声が聞こえた気がした。

願望故の幻聴か。

それでもいい。


サラの声は優しくて、寂しそうだった。


『…かえろう』


一緒に過ごした、あの村。

何もない、退屈な日々。


でも、そこにはサラがいた。


『かえろう?』


ダリルは頷いた。

もう体に力はないから、頷いた「つもり」だっただけかもしれない。


湧き上がる郷愁は胸を焦がし、閉じた目からダリルは地面に涙を落とす。


帰りたいと思った。

もう帰れないと知っていた。


『いっしょに、かえろう』


彼女のその言葉を、ダリルの耳が拾うことはなかった。


もうさみしくはない。

もうさむくはない。

胸が暖かいんだ。

きっと、サラがそばにいるからだろう。






そうして、ダリルは目覚めた。


朝の光に照らされて、眩しさに意識を浮上させて自分が生きていることを知る。


背から胸に抜けたはずの剣の傷はまだあった。

しかしそれはもう傷痕とも言えるもので、生々しく血を吐き出したりはしない。

乾いた血がぱりぱりとひび割れて地面に落ちる。

地面はダリルの血を吸ってすでに黒く変色していた。


なにがあったのかを、如実に語る現実。

一晩で治るわけがない傷は奇跡的に塞がっている。


そう、奇跡だ。

奇跡は簡単には起きない。


予感に突き動かされてダリルは呼ぶ。


「…サラ?」


返事はない。

昔から、答えなど返ってきた試しがない。

繰り返したかつての日常。


だけどダリルは血と土に汚れた手で顔を覆った。


「―――――………………っ……」


喉を通り抜ける荒い息は殺しきれずに漏れ出す。

その小さな音がダムを決壊させ、慟哭が朝の空気を突き抜けた。


「――っ………――……ぁ―…」


それは声なき悲鳴。

音にならず、それでもそれは確かに喉を枯らすほどの絶叫だった。


どこに価値があると?

こんなどうしようもない男の命に、なんの価値があると?


きみが命を賭ける理由など、どこにもない。


「―――サラ!どこにもないじゃないか!!!!!!」


男は嘆き続けた。

長いこと、その凄惨な戦場で。


やがて涙は止まり、その跡を拭う。


ふらふらと立ち上がった足に力はない。

血を失い過ぎたせいか、歩くことすらままならないようだった。

それでも踏み出す。


そこには意志があった。

ただ前に進もうとする意志が。


落ちていた枝を拾い、それを支えに、一歩、また一歩と重い足を引きずるように歩く。


『かえろう』


ダリルの耳に残る声が囁く。


「ああ、かえろう、サラ」


一緒に、かえろう。

懐かしき我が家へ。


それは奇しくも彼の精霊の最後の願いと同じ。

けれどその事実を彼は知らず、また知ったとしてもなんら彼を慰めなかっただろう。


さむくても、さみしくても、かなしくても。

火はもう宿らない。


涙は枯れないのだろうかと、ダリルは溢れだす痛みを甘受する。


故郷への道は遠く、足取りは重く、そして孤独だ。


胸に空いた穴は、もう塞がることはないのだと、ダリルは知っている。

自業自得だと、自分を笑う気力すらない。


初めて知った本当の孤独が唯一の道連れ。

そして一生、離れることのない相棒になった。


ただ縋るものがあるから、ダリルは空虚さしかない体を機械的に動かしているに過ぎない。


なにを求めているのか。

今さら救いが欲しいのか。

あるいは希望を掴みたいのか。


なに一つ、答えは出ない。


それでも歩を進める。


かつて憐み、見下し、馬鹿にした少女が住む村へ。

今は、同じものになった彼女がいる場所へ。


――愛しき精霊と過ごした、思い出の溢れる故郷へ。



「サラ。いま、かえるよ」






精霊の加護を失った者が就く職業として、やがては一般的となった「宣教師」と呼ばれる職であるが、その始まりの一人の名は伝わっていない。


が、遡ってみるとその歴史は長く、一説ではかのティナ・グルン・アリアルートと同時代の人物だったとも言われている。

火の精霊の加護を失った男という記述を見つけることが出来るが、その人となりもまた名と同様に知られてはいない。


しかし精霊と人との関わり方を広め共存の道を説いたこと、精霊の加護を失った者の生き方の指針となったこと、どちらも称賛されるべき偉業である。






最初の題名は「火の精霊と宣教師」。

恐ろしい文字数になりそうだったので村に着いてからの話をざっくり割愛したら全然相応しくない題名になった_| ̄|○

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