22.彼の事情と忘離石
姉の部屋に、見覚えのないものが増えている。
ニールはそれが不快だった。
イリアを失うかもしれないと恐怖した時より、追い出しきれなかった闇の気配が心の底でにわかにざわめき出す。
「姉さん、これはどうしたの?」
足元に転がっていた鉱石を拾い上げながら、ニールは胸の奥から顔を出そうとする気配を宥めつつ疑問を口にする。
いつも通り、穏やかで優しく聞こえるように。
特段気に留めてはいないけれど、目についたから聞いてみた、そう聞こえるように。
学園には寮がある。
簡単には家に帰れない。
他の者からすれば、ニールは足げく実家に通っているように見えても、ニールにとってはあまりにも長く感じる時間だ。
その間に起きる変化。
それに無関心でいられるわけがなかった。
ニールにとって、彼女は世界の全てと言って過言ではない。
知らないことがあることが許せない。
不快感の根底に眠るのはそんな身勝手な独占欲だ。
それを異常だと判断する思考はある。
あるけれども、消えない。
いつだったか、メルが感情は無尽蔵に湧いてくるものだと言っていた。
ならば生まれた感情を消す事は、湧水を零れぬようにすべて汲み上げようとする努力に等しい。
つまりは無駄な作業だ。
いつかは零れ落ちる。
零れた水は、飢えて乾いた大地に急速に浸み込むだけ。
「あら、ニールおかえり。その石?ちょっと試したいことがあったから採取をね」
つまり、冒険者ギルドに依頼を出したということだろう。
「言ってくれれば僕が取ってきたのに」
いまやニールも冒険者の身分を持つ。
遺跡に潜ることもできるのだ。
「ニールは学生。学生の本分は勉強!」
姉の言う通りだ。
しかし、自分が誰に育てられたと思っているのか。
学園での勉学はほとんど意味がない。
それより深い知識がニールの頭には詰まっていた。
あるいは完全に間違っていると知れる教えを真剣に聞いてどうするのか。
「また、あの冒険者に頼んだの?」
「え、ええ」
「ふーん」
興味のない振りをする。
関心が薄れた振りをする。
事実は正反対だからだ。
別にニールとて、姉を囲むすべてに牙を向けている訳ではない。
だが、あの冒険者には警戒の必要と、価値がある。
その冒険者に会ったことはない。
姉も、ないだろう。
けれどイリアの、彼の冒険者に対する入れ込みと信頼は傍から見ているニールには危ういものに思えた。
はじめて依頼を出して、その時に引き受けた冒険者。
姉はそれからずっと、彼を気に入って指名依頼を出し続けている。
冒険者故にこの地にいないこともあったようだが、彼女はまるでルーチンのようにまずは彼の冒険者に伺いを立てていた。
イリアは世界に関心が薄い。
なのに、ヤツのために彼女は動く。
その意味はニールが一番よく知っている。
『特別』だということだ。
その男にグリーンカードを贈ったと聞いた時からわかってはいたけれども。
考える度に焦燥が体を舐めるように焼く。
譲れない。
許せない。
許さない。
にこやかに笑う表情の裏、頭の中でスパークする白い感情が鬱陶しかった。
表情を取り繕うのにとても邪魔なのだ。
「それで、こんなに材料をあつめて、今度は何をしようと言うのですか?」
よくぞ聞いてくれたとイリアが破顔する。
現金な事に、ニールの心はそれだけで浮足立った。
「お礼を、と思って」
イリアは机の上に置かれていた小さな石を手に取った。
それが今回の作成物の核となるものなのだろう。
イリアのためにと散々学んだニールの知識にもない鉱石。
光に翳して、イリアはニールを振り返った。
「きれいでしょう?」
黒曜石のようだと思っていたが、太陽に透かせば、黒いと思っていた石の本当の色が深い青のだと知れる。
黒の中に隠された青。
さらにその中に金色のきらめきが散らばっているのが見えた。
敢えて言うのなら、ラピスラズリに混ざる黄鉄鉱に似ている。
それがまるで呼吸をしているかのように強弱しているのを見つけてニールは目を瞠った。
紛う事なき希少な鉱物だ。
「…お礼って、誰に?」
「いつもお世話になってるから」
イリアの答えはいつも少し的を外している。
けれど長くそばに居るニールにはわかった。
「…つまり、『彼』に?」
ああ、腹の奥が熱い。
姉さん、姉さん、姉さん。
あの男は貴方のなに?
イリア、彼は俺よりも特別?
剣呑な気配を逃さないように気を使う。
幾分か、声は低くなってしまったけど、きっとイリアは気付かない。
ニールの予想通り、イリアは鉱石を覗き込んだまま上の空だ。
「そう、彼にプレゼント」
美しい鉱石はきっと彼に似合うだろう。
イリアはリューンの顔を思い浮かべる。
いつも難しい顔をしている人。
気にかかることが多すぎて、二進も三進もいかなくなるような、優しい人だ。
いつも迷惑をかけている自覚がある。
冒険者として、よちよち歩きを始めたばかりのイリアを、いくら迷惑をかけようと文句も言わずにいつも支えてくれる。
意志を尊重してくれるけど、そのくせ心配そうな目線がいつも背中を追ってくるから、イリアは安心して無茶を出来た。
その感覚は少し、ニールと共に居る時と似ている。
イリアはふとそう思う。
「これ、面白い性質があるの」
あの心配性な彼の心労が少しでも減らせたら。
そう思って日頃の感謝を形にしようと思いついた。
「一つを二つに分けると、引き合うのよ。」
偶然気付いたんだけど、とイリアはニールを見ないまま微笑む。
「磁石みたいだけど、それよりもっと微弱で強力よ。」
無邪気に説明を始めたイリアに、ニールは笑みを張りつけたまま煮え滾る感情を向ける。
体の中を、マグマが駆け巡っているような気がした。
イリア。
ねえ、イリア。
俺のイリア。
それはどういう意味?
それを、惹かれ合う石を彼に渡すという意味は。
体中を巡る熱を押しのけて、冷たい害意が泥水のように湧き出てくる。
それが向かう先をニール自身、理解してはいなかった。
「彼、故郷に大切な人がいるんだって」
贈り物をする理由。
多分、人に簡単に話すような内容ではないけど。
ニールには話してもいいと思った。
他人の事情を簡単に他言するような弟ではない。
「…え?」
イリアが信頼を寄せて言葉にした台詞はニールの予想の範囲外。
間の抜けた声が漏れて、ニールはそれが自分の声なのだと少しの間理解が出来なかった。
「帰れない事情があるみたい。深くは知らないけど。」
リューンと行動を共にし始めてからすぐにイリアは気付いた。
リューンは誰かと時々自分を重ねている。
過保護に感じる原因はきっとそれだ。
ふと気を抜いた時に目をやる方角は決まっていて、眇められた目は見えない何かを必死に見ようとしているかのようだった。
他人事なのに、自分の方が胸が痛くなる、目。
イリアはリューンの強い目線が好きだった。
光を当てると金色にも見える美しいあのオーカーが曇るのは見たくない。
故郷の方角なのだろうかと聞けば、苦々しく、困惑と苦笑を混ぜた複雑な表情がイリアを見た。
故郷は捨ててきたのだと、彼は言った。
郷愁はない、未練もなく、憎しみすら持っていると。
『だが、捨てられないものもある』
心を一つ、置いてきた。
彼女は無事だろうかと、ふと考えるのだと言う。
イリアはリューンの心の霧を晴らしたかった。
「だから、せめていつでもわかればいいと思って」
彼と、彼の大切な彼女の為にこの距離を忘れた石を。
そうしたら、互いの持つ石の先に大切な人の存在を見つけることが出来るだろう。
意味通り、忘離石と名付けたこれが、引き離された彼らを繋げるものとなることをイリアは願う。
「…そう、なんだ?」
ニールが彼らしからぬ気の抜けたような声で重ねて聞いてきた。
違和感にニールの顔を見てみれば、彼は鳩が豆鉄砲を食らったような、きょとんとした顔をしている。
「どうしたの、ニール」
思わず笑ってしまった。
弟の滅多に見られない表情だ。
「え?ああ、いや、とんだ勘違いをしてたみたいだと思って…」
「勘違い?どんな?」
「何でもないよ」
バツの悪そうな顔も珍しい。
「…なーんだ、敵じゃないのか」
姉の追求から逃れるためにそっぽを向いたニールが小さく息を吐いた。
もう一度、確かめるように呟く。
「なんだ、違ったのか…はは」
ニールは疲れたように乾いた笑いを漏らして、懸念の晴れた清々しい気分を取り戻した。
今日が終われば、また少しの間お別れだ。
あんなどうでもいい男のことなど忘れて、存分に姉と時間を共にするべきだった。
「姉さん、今日は一緒に…」
「あ、ニール、その手に持ってる石をちょうだい。あと手と魔力貸して」
「……はいはい、なんなりと。」
「ニール、「はい」は一回!」
「はいはい、わかってますよ!」
「ニール!」
「はいはいはい。で?どんな魔力が必要なんですか?」
「あ、そうだった。その石を無属性の魔石に変えて欲しいんだけど。」
「はあ!?メルじゃあるまいし、僕は錬金術師じゃありませんよ!?」
イリアの要望はいつも通り無茶を突き抜けている。
「え、出来ないの?」
なのに、彼女は当たり前にニールがそれを出来ると思っているのだから性質が悪い。
出来ない、などと言えないではないか。
小さく「くそっ」と口悪く毒づいてニールはやけくそ気味に答える。
「やりますよ、やってやりますよ。やればいいんでしょう!」
「あと、失敗禁止ね。それ、最後の一個だから」
「姉さん…」
思わず膝をつきそうになる脱力感。
「大丈夫、僕はやれる。大丈夫、僕に出来ないことはない、大丈夫、大丈夫大丈夫」
必死に自己暗示をかけながら鉱石に魔力を込めはじめたニールの額にはすぐに汗が浮かんできた。
付与は得意ではない。
全身全力でやらなければ失敗必至だった。
「がんばれ~、ニール」
無責任な姉の応援にぎろりと睨み付けると、イリアは幸せそうに笑った。
ニールを包む多幸感。
もう、黒い気配が這い寄る隙はそこにはなかった。
心だけが呼んでいる。
姉さん、姉さん、姉さん。
イリア、他の誰でもない、きみ。
心だけで叫んでいる。
そばに居て。
どこにも行かないで。
ずっとこんな風に過ごしていこう。
全身全霊で願っている。
どうか、永遠に、俺を救い続けて。
必死に魔力を込める弟が、万が一にも魔力を暴走させないように見張りながら、イリアはリューンの言葉を思い出す。
きっと自分たちのように、仲がよかったに違いない。
とてもよくわかる。
この家を自ら離れたとして、それでも自分だってニールの安否がわからないなど、不安で仕方ないだろうから。
『リーゼロッテ、という。俺の最愛の妹なんだ』
リズ、と愛称を呼べば全幅の信頼を寄せて胸に飛び込んでくるような、そんな愛しい妹なのだと。
全てを捨てて、身一つで生計を立てているリューンがたったひとつ、故郷を思う理由は唯一の肉親だと言った。
妹を語る、優しい表情が心に残っている。
きっと、ニールの事を話す自分も、同じような顔をしているんだろうな、とイリアは思った。
ヤンデル。
そのうちリューンが刺されそうな気配がして怖い。




