21.姉の矜持とはじまりの言葉
「空の巣症候群…今ならわかるかも」
いつかの講義で習ったときは、理解も示せず、知識として書き止めただけだったけれど。
「思ったよりさみしいものね」
溜息は苦笑を含んでいた。
子育てを一段落させた親はこんな気分だったのかもしれない。
弟たちが学園に旅立って行ってしまった。
まあ、物理的に遠くはない。
ワールド・アトラスに行けばその物理も飛び越えることができる。
けれど今までのように身近にその気配を感じることはない。
今さら実感する。
自分の世界は彼らを通して成り立っていたのだと。
イリアが知る世界は本で得た知識。
引きこもりのイリアの体感した経験は赤子とそう変わらない。
人との関わりは薄く、自分でも世界に馴染んでいる気はしなかった。
世界とイリアを結ぶのは、ニールと弟たちだけだ。
その架け橋がなくなってしまった。
残るものの少なさに今さら驚いたりはしない。
「わかっていたことだもの」
いつか来る未来を想定してはいた。
イリアは自分の手をかざす。
薄暗い部屋の中、騒がしかった空間はその時間を減らし、もう長い事静寂に包まれている。
自分の手の平と甲を試し返し。
大切なものは一つ二つ。
ニールと弟たち。
彼らは自分の道を歩み始めた。
手助けは出来る限りしたと思う。
このままここで朽ちていってもイリア自身に後悔はないだろう。
無為に時間を潰すことは得意だった。
けれど大切なものがその手から巣立っていったとしても、それが大切なことに変わりはない。
「…できることはあるわ」
それはきっと、やらなければいけないことだろう。
姉としての矜持がそう言う。
優しいニールならこんな陰鬱な姉であろうとも大事にしてくれるという確信はあるけれど。
それも悪くないと怠惰な心が囁くけれど。
傍にいたいと心は我がままを主張するけれど。
「弟離れをしなければならないのはわたしの方ね」
姉が弟の負担になってはいけないのだ。
大切なたった一つのものの為ならば、放っておけば勝手に世界を閉じたがる自分も頑張ることができるだろう。
「さあ、自分の足で歩くのよ、イリア」
イリアは居心地のいいソファから身を起こして立ち上がった。
歩き方は知らない。
その覚束なさを自覚している。
当分の間、補助は必要だ。
一人で歩くための練習に付き合ってくれる者は絶対に。
イリアには頼るものが少ない。
当たり前だ、こうも世界と関わりを持たずに生きてきた。
選択肢は限りなく少なかった。
つまり、頼れるものなど一人しか思い浮かばない。
「まずは冒険者ギルドで依頼かな」
指名依頼を出してみよう。
できたら受けて欲しいけれど、強制はできない。
駄目なら一般の依頼に切り替えればいいのだ。
いい人が見つかるといいなと、願いながら引き出しからレターセットを引っ張り出した。
「………」
職員は久々に気まずい思いをしていた。
それなりに付き合いの長くなった目の前の男の、段々と据わっていく目が居た堪れない。
いつも通り、頼まれていた手紙を渡したところまでは良かった。
ここ何年も続けていたお決まりの流れだからだ。
が、無言で封を開けて中身を読んだ男の眉間にそれはそれは見事な谷と山があっという間に出来上がった。
稀に見る不機嫌さ。
この男、自分が周りに与える影響がわかっているのか。
強者にはある種のプレッシャーが備わっている。
彼のそれは最早物理で押さえつけられているような重さを纏っていた。
―多分、わかっているのだろう。
隠す気がないのか、気付かないうちに漏れだしているのか、どちらにしろ精神衛生上よろしくない。
何とかしろと周りの職員と偶然事態に遭遇してしまった憐れな冒険者たちからの訴えに、対峙していた職員が何とか口を開こうとした時。
やっと男からアクションがあった。
「返信を書く。紙とペンを」
何物もタダではない。
普段は先に金銭のやり取りをするのだが、この時ばかりは右隣からさっと紙が差し出され、後ろからインク壺が押し付けられ、左隣からは羽ペンが舞ってきた。
さっさと用事を済ませて去ってもらいたい一心の同僚たちからの援護だ。
精悍な顔立ちの青年はそれを受け取ると迷いなくペンを走らせる。
普段は彼の手紙は出来上がった形で渡されるので、目の前でその姿を見るのは初めてだ。
内容は見ない。
見えない位置に体を少しずらした。
それがマナーであり、自分の身を守ることにもなる。
さらさらと書き綴られる様子を見ていた職員はふと思う。
―随分と書き馴れている。
思っただけだ。
別にそれがどうしたという話ではない。
この国の識字率は二割程度。
他国を含めた国としての単位では二割は平均に辺り、各国を渡った職員の経験からは例外はあれど南に行くほど低くなる傾向があった。
この国の、ここ王都なら半分とは言わないが三割四割は読む程度のことはできる。
これが冒険者となると話は違って、どの国でもどの場所でも割合は変わらない。
経験則で三割。
一割が初めから読み書きできる者。
一割がギルドが定期的に開く講義で会得する者。
一割が自力で学ぶ者だ。
最初の一割、つまりそれが冒険者の中に占める元富裕層あるいは元貴族などの知識階級である。
多いと見るか少ないと見るかは人それぞれだが、目の前の男は間違いなくその一割に当たるのだろう。
その予想は前々から持ってはいた。
粗野な言動が多く見られる冒険者の中で、彼は少しばかり品が良い。
別に彼が上品だと言うわけではない、あくまで冒険者の中ではの話だ。
「これを」
出来上がった手紙に、これまたすっと差し出された封蝋を押して渡される。
端的な依頼だ。
言いたいことはわかっている。
手紙の主への返信。
「あと個室の使用許可を」
日時と使用時間はこれまた口にはせずにさらさらと余っていた紙に書かれた。
時間の書き方には地域によって大きな違いがある。
この国一般の書き方を模していたが、多分彼はここよりは北の国の人間だったのだろう。
個室の予約状況にさっと目を通し、その指定時間に空きがあることを確かめて短く返す。
「了解」
じっと紙を見詰めていたのが悪かったのか、メモは取り返されてしまった。
目の前で手品のように燃え尽きて灰になる。
辺りがざわりとしたが、軽く発動した魔法を目にして驚いたのだろう。
魔法使いは貴重だ。
「推測は悪いことではないが、あまり相手に悟られるなよ。思考に割りをさいて表情が疎かになる、お前の悪い癖だ。」
「ご忠告感謝します。相変わらず鮮やかな手並みの魔法ですね」
基本的にこの男はお人よしだ。
忠告とは得難いものだと知る職員は困ったように笑いかけた。
「返信料と手紙の材料費、いくらだ」
「今回は私の手持ちで。お詫びですよ」
要らぬ諍いは起こしたくないと言外にいえば、受け取らないのも憚るだろう。
「いいだろう、それでチャラだ。」
ギルド職員が一介の冒険者を融通するのも外聞が悪い。
まあ、彼ほどにもなると一介と言っていいのかは置いておくとして、この言い方をすれば周りの者は職員側になにか手落ちがあったのだろうと思うはずだ。
会話を聞いていた冒険者が少々職員を舐めてかかるかもしれないが、そこは手腕次第である。
「ところで今回はどれほど留まる予定で?」
これを聞くのは別にルール違反ではない。
実力者の動向はギルドに大きな影響を与えるからだ。
しなやかな獣のような男、リューンと名乗る彼は顎に手を当てて唸るように答えた。
「しばらく滞在するかもしれん」
その日、ギルドを訪れた人間は相変わらず多くいた。
リューンもその一人だ。
彼はかねてより使用申請していた個室に迷いなく入り、作り付けの椅子とテーブルを一瞥して、一応下座に陣取った。
ギルドの構造はどこに行っても大体同じ。
一階に必ずあるのが受付、買い取り場所。
待ち合わせ場所として打って付けの休憩所が併設され、酒場や食事処を兼ねているところもある。
規模によるがこの飲食部分は別館になっていることもあった。
裏手には大きな習練場。
二階は図書室、主に依頼遂行に当たって必要になる開示情報が並べられている。
例えば魔物の生態や薬草の見分け方、山の歩き方などがそれだ。
この二階に講義室が併設されているのは主だった都市のギルドだけで、そこでは定期的な講習が様々開かれている。
最低でも二階まではあるのが冒険者ギルドの建物だ。
最も大きなギルドになるとこうして依頼に関して詰めたいときや内密な話、静かに話をしたいときなど、人にあまり聞かれたくない時のために個室が利用できる。
飛び込み利用も可能だが、予約が優先。
このギルドの個室は出入り口が二か所あり誰がどの部屋に入り、誰と接していたのかがわからないから使い勝手がいい。
そういうわけでリューンは幾年越しかになる文通相手との初の密会場所をここに選んだ。
言ってやりたいことが山ほどあるのだ。
そう、あれとか、これとか、それとか。
頭の中で反芻している内にそれは愚痴になり、説教染みたものになり、しまいには芋づる式に思い出される理不尽極まりない恩恵とその苦労に行き着く。
つらつらと浸っていた思考は扉の向こうにぼんやりとした気配を見つけてはっとクリアになった。
ここまで近づかれるまで気付かないことなど、リューンの経験では久方ぶりの事だ。
「…ま、彼女だしな」
少しだけその異常性を考えて、諦め半分にそんな言葉が漏れる。
意識してみれば、扉の向こうの人物の動向は手に取るようにわかった。
「どうぞ」
だから彼女が扉をノックする前に声をかける。
一瞬だけ扉を叩こうとしていた手が驚きからだろうか、止まって、それから躊躇いがちにノブに手を伸ばす。
動揺を誘えたらしいことに、なぜか思った以上の喜びが湧いた。
果たして扉を開けて入ってきたのは、少女だった。
真面目な顔を取り繕ったリューンは少しだけ目を細める。
霞みそうな記憶の中の少女とは随分と違う。
けれど、別人ではない。
あの深い色をした瞳と、珍しい髪色は寸分の変わりもなかった。
これが成長、というものなのだろう。
少女は大人への階段を上り始めているようだった。
リューンは反射的に口を開こうとして、困った事態に口を閉じ直した。
それは少女も同じらしく、困ったように眉尻を下げていた。
同じ疑問を頭に浮かべていることは互いの顔を見れば一目瞭然。
『初めの挨拶、それは如何にするべきか。』
初めましてだろうか。
それとも久しぶり、だろうか。
けれども手紙上では幾度もやり取りをした相手としては両方とも距離がありすぎる。
先に沈黙を破ったのは、意外にも彼女の方だった。
「こんにちは」
静かな声は変わらず、けれど記憶していたより柔らかだ。
「まずは自己紹介をしても?」
小さくおかしなことに気付いたとでもいうように笑った彼女につられて、リューンも一瞬彼女の言葉を吟味して噴きだすように笑う。
そうだ、人と人とが出会ったら、初まりはそこからだ。
互いの名前すら知らないままだと、今の今まで気付かなかった。
それが面白くて。
「そうだな、せっかくだ。初めましての挨拶からやり直そうか」
笑いを噛み殺すようにリューンは答える。
長い付き合いのようで、繋がりは細く、深いやり取りのようで、縁は薄く。
始まってすらいなかった、けれど途切れずに繋がってきたものをいま、しっかりと始めるために。
自分たちはきっと、ありきたりの挨拶をするべきなのだ。
こんな、当たり前の会話からはじめるべきなのだ。
いつもより少し短いですが 時間制限によりやむなくここまで。
すみません(・_・、)




