2.姉と弟たち
それからニールはイリアの自慢の弟であるための努力を一層惜しまなくなった。
ニールの柔軟な頭はイリアの無茶な注文も聞き入れてしまう。
根を詰めすぎる弟のために何度休憩を勧めたかわからない。
「待ってください、もうちょっと。ここが終わったら」
そんな彼の気を引くために簡単なゲームを教えて息抜きに使ったが、これが意外と好評で、ニールはゲームに誘えば喜んで勉強の手を止めてくれるようになった。
こんな日々がどうもやりすぎだったと気付いたのは後々教育機関に入学した後であり、後悔とは先には立たないものなのである。
兎にも角にもこの期間、イリアとニールは二人で空間と時間を共有して過ごしていたことは事実。
それが心の距離も近づけていったことは道理。
イリアの目から見ても優秀なニールには家庭教師だけではなく、剣術の授業が増やされ、その結果が良好だと見た父は次第にマナーや社交に関する授業を詰め込むようになっていった。
跡取りとしての教育がすでに始まっていたのだ。
「なんと優秀な」
「まれにみる才能です」
そんな言葉を聞くことが増え、当たり前のように耳をすり抜けるほど聞き飽きた言葉たち。
ニールにとってあまり意味はない。
大事なのは姉なのだ。
有象無象ではない、彼女の言葉が聞きたい。
人形のように表情が消え失せた顔がニールに向けられて、綻ぶように笑顔が咲き、蕩けるように甘美な言葉を乗せる。
あの瞬間が、この世の何よりも好きだった。
『わたしのニール』
その言葉がニールをどろどろに溶かしていく。
褒められたい、甘やかされたい、愛されたい。
飢えて飢えて飢えて、最後の一滴まで枯れ果てて。
餓死寸前の自分に与えられたそれを今更手放せるわけがない。
この欲は飢餓を知った故だろう。
ニールは姉に優秀だと言われた頭脳で冷静に考える。
けれど飢餓を埋めようとする行為をやめる謂れはない。
しかも不思議とこの飢餓感は上限を知らない厄介な相棒だった。
だからニールは際限なく自分を磨き、貪欲に愛を求めた。
そのたびに賛辞の言葉は雨のように降り注ぐ。
「天才というに相応しいご子息ですな」
「来る年齢に達すれば私が騎士団に推薦しましょう」
外からしかわからないものがあった。
そして外部から知識を取り込んで初めて知る事実がある。
ニールは口々に褒め称える彼らに当初いつも内心で首を傾げていた。
だって、姉は、イリアは…?
この『自分程度』がなぜ称賛されるのか?
戸惑いの後に、おかしいのは彼らではなく、自分たちだと気付いた。
イリアとニールだけの世界は、異常に溢れていたのだ。
異才の少女。
姉は、イリアは圧倒的な才を持っていた。
あまりにも近すぎて、気付かなかったけれど。
今もなお、自分以外は知らない真実。
ニールは学問の基礎をイリアから教えられた。
改めて受けてみた他人の授業はあまりにも稚拙であまりにも非科学的だ。
この世界は神が造りたもうた至高の世界。
あらゆる場所に神の威光が届き、あらゆる現象は神の御心に回帰される。
それはもはや学問とは言わない、信仰という。
信仰の先に進歩はない。
ニールは魔法の基礎をイリアから教えられた。
教師たちは言うのだ、ニールには希代の才能があると。
起こす現象は他人の何倍もの規模で発動し、魔力の消費はあまりにも少なく、そして知られていない魔法を意図したように自在に使いこなした。
「君は、一体…苦手な属性はないのか?」
教師に恐々とされながら問われた。
ニールは曖昧に笑って誤魔化す。
人にも魔法にも属性があり、則する魔法以外は扱いづらい。
そんな法則は姉の知識にはなかった。
森羅万象、あらゆる現象はすべて姉の手でいとも簡単に書き換わる。
だからニールにもない。
魔法を超越したその現象を魔術と呼び、それを司る者を「真理を知る者」、すなわち魔術師と呼ぶ。
剣を持たせれば持ち前の勘の良さでそのほとんどを躱し、息をするように自分に、武器に、他人に、地に、魔術を行使して負けを知らない。
褒められ、そやかされ、ニールは二年と経たず社交界では知らぬ者のない存在となったけれど、浮かれるにはニールにとってあまりにもイリアの存在は大きすぎた。
ニールには常識を知っても、姉を忌避するという選択肢はなかった。
自分を育てたのはイリアだという感謝と自負。
劣等感よりも敬愛と、彼女を真実知る者が自分しかいないという優越感と、独占欲がニールのイリアに対する感情。
人々が神を信仰するならば、自分にとっての信仰はイリアだ。
傾倒が強くなっていくだけの話で、それもまた今更のこと。
家族はニールを虐げることをいつの間にかやめた。
母はニールを恐れ、長女はニールの威を借るようになり、次女は年々強く美しくなる弟に媚びるように。
父は自慢の息子だと社交界に引っ張り出すようになって、ニールがイリアと接する時間は格段に減った。
外では同世代と顔をつなぐ為に子供同士のコミュニティに入れられることもあったが、父が庶子と侮られるだろうと心配していたのを余所にニールは早々に彼らに仲間として迎え入れられた。
外で走り回ることも、木に登ることも、池ではしゃぐことも出来ない彼らの渇望を満たすだけでいい、簡単だ。
つまらなさそうに喋っていた彼らを遊びに誘うだけ。
姉が教えてくれた盤面遊戯。
確か、リバーシと言ったか。
姉からは色々な複雑な遊戯も教えてもらっていたが、まずは簡単で単純なこれがいいだろう。
イリアが手作りした盤面と駒を広げて教えれば案の定彼らはあっという間に夢中になった。
皆が興味津々で勝った負けたと大騒ぎしながらどうやって勝つかを試行錯誤している光景はかつての自分を見ているようで懐かしい。
遊び道具を持って現れるニールはほどなくして人気者になり、彼らは開催される茶会にニールが来るかをいつでも父母に問う。
ニールが顔を出せば歓声を上げ、子供たちに宛がわれた部屋に引っこんでなにやら楽しそうに遊んでいる。
やがて子どもから親へニールの名前は知れ渡り、子供だけの遊びは彼らの仲間意識を結束させて強固なコミュニティを作り上げた。
しかしリバーシでは遊べる人数は限られている。
順番待ちに困ったニールは、痺れを切らしつつある子供たちに言った。
「しょうがない、姉さんにもう少し作ってもらえないか聞いてみるよ」
「姉?って、あの…」
言い淀んだ彼が想像したのが長女か次女かは知らないが、どうやら二人ともあまり外での評判は良くないようだ。
外面を良く見せようとする才能に関しては自分が圧倒的に勝っているらしい。
「そう、この遊戯はイリア姉さんが作ったんだ。」
聞き覚えのない名に、ニールは三人目の姉だと紹介した。
「ニール、もしこれを作れるのなら俺にも作ってくれないか。もちろん礼はする」
ニールは快諾した。
自分で自由になる金というものはいざという時に頼りになることを平民であったニールは知っていたからだ。
イリアが魔術で使ってみたいと言っていた素材もこれで買えるだろう。
「え、こんなものを売るの?別に簡単なつくりだし、ニールの友達ならあげても構わないわよ?」
優しく、常識に疎い姉に頼めばそんな答えが返ってきたけれど、ニールは自分に任せてくれと説得した。
イリアは少し首を傾げて、この件はニールに一任することにする。
確かにリバーシの作りは単純明快。
盤面と駒さえあれば遊べる手軽さが魅力で、その道具でさえ誰にでも作れる。
遊ぶだけならば子供でも作れるのだ。
付加価値が付くとするならば、イリアの作った盤は一切の歪みなく、美しいことだろう。
完全な平面に一度乗せた駒が動くことはなく、駒は見分けがつかないほどに均一。
そうやってニールはイリアが聞けば怒るほどの価値をそれにつけて、小金を稼ぎ、イリアに貢ぎ始めた。
道具を手に入れた少年たちは家族と共有し、時を置かずリバーシは貴族たちの間での流行となった。
知らぬはイリアばかりである。
自分たちだけの秘密の遊戯ではなくなったリバーシに少年たちが飽きる前にニールは新たな遊びを彼らに披露した。
カードはリバーシから一転して多くのルールと多くの遊び方が魅力の遊戯。
幼い子には単純ルール、同年代には少し頭を使うものを。
年上の少年たちには複雑なルールを教えれば彼らはあっという間にそれを飲み込んで遊びに情熱を注いだ。
これこそイリアの本領発揮と言えるものだろう。
品質の均一性。
カードゲームは札に特徴があれば意味がない。
裏を見て表を知られては勝負にならない。
リバーシはいつしか庶民の間でも流行し、手軽な娯楽として人気を博しているが、それは道具を簡単に真似できた故に。
イリアにとっては皆が楽しんでくれていることを喜びこそすれ厭うことはないが、姉至上主義のニールにとっては不満が残る結果となった。
だが、こればかりは真似もできまい。
わいわいと遊ぶ子供たちをどこか羨望の目で眺める親たちがそこに金を積み上げてくるのは時間の問題だろう。
姉の凄さを彼らは少しでも知ればいいのだ。
「ただいま、姉さん」
ニールの帰る場所は変わらず彼女のもとだった。
「おかえり、ニール」
表情の薄い姉が微かに笑む顔が好きだ。
イリアは少し大人になった。
白い肌と黒い髪と細い体はそのままに、女性らしい曲線が目立つようになって、ニールは時々意味も分からず目を逸らしたくなる。
立派になったニールを見る目が変わったのはイリアも同じだった。
少し瞳を揺らして、訪れることがまれになった弟に小さな苦笑をこぼすのだ。
「ちょっと、さみしいわね」
そんなことを言われて応えないわけにはいかないではないか。
それが第二の転換だったのだろう。
ニールは社交界で得た友人たちを家に招くことにした、これならば姉と同じ時間を過ごしても自然に見える。
「い、いいのか?」
「もちろん。持ってこられなかった遊び道具もたくさんある、ぜひ遊びにきてくれないか?」
「それは楽しみだ!」
なるべく性質がよく、その中から立場の近い友人を選んで誘った。
身分が上の人間はおいそれと呼べない、ゆくゆくはと考えてはいたがまずは身近に味方を作っておくべきだろう。
招待状を送り、子供と言えどゲストをもてなす主人役になる夫人は家の恥を晒してはならぬとそれはそれは立派に務めてくれた。
ニールは友人とゲストルームでお茶を嗜んでから家の中を案内した。
向かう先は自分の部屋ではなく、姉の部屋でもなく、二人が勉強に遊びにと使ってきた多目的室。
ノックをすればすでに待機していたイリアが穏やかに答えた。
「姉さん、友達を連れてきたんだ。会ってくれる?」
「ええ、もちろんよ。一緒に遊びましょう?」
イリアは弟の友人一人一人に挨拶を返した。
人嫌いの気があった弟がようやく友達を家に招くほどになったのだ、姉として印象良くありたいものだ。
「さあ、何をして遊びましょう?」
彼らにとってそこは楽園だった。
「イリアさま、これはどうやって遊ぶのですか?」
「あー!もう一息だったのに!」
「イリアさま、もう一度勝負しましょう!」
「よし!あがり!」
夢中になって遊んでいるとあっという間に時間が過ぎてしまう。
「またお邪魔してもよろしいですか?」
「もちろんよ、またいらしてね?今度はボードゲームをやりましょう、次に来る時までに作っておくわ」
「それは本当に楽しみです!!」
イリアは貴族の常識を知らず、記憶にあるままに庇護を得るべき子供たちとして、弟のように可愛がったものだから彼らはすぐにイリアに懐いた。
また、時に催される社交の場で、ニールの家に招待されたことのある彼らの態度はあからさまだった。
「あ、来たニール!こっちだ!」
「待ってたんだ、お前がいないと話が進まなくてさ」
「この前のあれさ、実はずっと考えてたんだけど、こうやったら勝てるんじゃないか?」
「必勝の手ってわけか」
「いやいや、この場合はどうなのさ」
「その場合はさ、こうやって柔軟に…」
耳をそばだてている衆人を余所に、熱く語るそれは新しい遊戯の話だろうか。
「この前あのゲームでニールがヘマしたあれは傑作だったよな」
「あ~あれな、家に帰ってからも思い出して笑いが止まらなかったよ」
「人のことばかり言ってていいのか?お前のあの手はかなり的外れで面白かったと思うが…」
「まて!それは言ってくれるな!あれは本当にどうにかしてたんだ!」
笑いがさざめけば羨望が降った。
指を咥えて悔しげな人々から思い切って声をかけた者がいる。
「ニール・ウル・エンドレシア、その話を私にも聞かせてくれないか?」
かかった、とニールは思った。
その時の悪人面は長く友人たちの間で語り継がれている。
「もちろんです」
自分より身分が高い人間においそれと声をかけるわけにはいかない。
許されるとすれば、彼らから声をかけてきた時だけだ。
「ほう、そんな遊戯が…」
ニールは彼を輪に入れて彼の気を引きそうな色々な話を披露する。
どうにかして引き出したい言葉があった。
「とても興味深い話だ。ニール・ウル・エンドレシア、無理を承知で頼みがある、次は私も招待してもらえないだろうか」
ニールは心の中で喝采を叫んだ。
「ちょっと待ってくれ、その話、よければ俺も乗せてもらいたい」
身分が上の者を招くことはできないが、招いてほしいと頼まれたなら断れば不敬にあたる。
幾人かを釣り上げてニールは心の中で呟く。
ここらで打ち切りだな。
彼らより身分の高いものはそういない。
彼らがいれば、それ以外の者の脅迫まがいの誘いを断るのも難しくはないはずだ。
弟に友人ができたと無邪気に喜んでいたイリアを余所に、ニールは酷く強かに彼らを「選んだ」のだ。
上から下まで、ニールがその目で見て有望な人物ばかり。
そして誰もまだ邪悪なものに染められていない。
特に階級が高ければ高いほど早くに欲に塗れていくものだから、身分の低い者に自ら声をかけ頼むという行為ができる心根の良い彼らが釣れたのは本当に行幸だった。
「姉さん、新しい友達を連れてきたんだ」
「まあ!弟をどうぞよろしくね」
イリアは彼らを誰かとは問わなかった。
弟の友人、それ以外の情報を必要としなかったとも言える。
警戒を抱いていた者も絆されるのはあっという間。
当たり前だとニールは思う。
イリアは計算高い自分とは違う。
本当に裏表なく、ただの、手のかかる弟たち、そういう認識。
この貴族社会に生きる者にとってそれがどんなに貴重で嬉しいことか、きっとイリアは知らない。
「ウィル!何度言ったらわかるの、インチキは禁止よ!」
「寝るのなら毛布を持ってきてあげるから、そこで寝ないでランス」
「あ~またリインに負けちゃったわねシリル、仇を取ってね!」
その部屋は宝石箱のようで。
広いカーペットの外に揃えられた靴は心を明け渡した証拠。
「イリア、今度はみんなでボードゲームをやろうよ」
「ハメ禁止よ!?」
「わかったわかった」
裸足でカーペットに座り、円を描いて座る彼らは胡坐をかき、膝を立て、寝転がり、思い思いの格好で寛ぎながら楽しんでいた。
誰も怒らない、ここには目いっぱい甘やかしてくれるイリアがいた。
「さあ、弟たち、おやつの時間よ!」
だらけていた雰囲気もわっと華やぐイリアの魔法。
揃えられた材料にイリアが手を振ればキラキラと輝いてそれは甘いお菓子へと姿を変える。
イリアが披露する魔法は誰も聞いたことがないもので、初めて見たときは弟のニールに助けを求めて視線を飛ばしてしまった。
それは暗がりを灯すきれいな光であったり、それは散らかった部屋を片付けるための魔法だったり。
そのどれもが魔法という現象からは乖離していた。
ニールが静かに人差し指を唇にあてるから、彼らはイリアにそれがどんなにか異常な事かを口にしない。
イリアの魔法は、魔術は特別なのだ。
姉を愛してやまないニールが、独占欲を覗かせる彼が、それを抑えてまで自分たちを引き入れた理由がなんとなくわかってきた。
暗黙の了解で、友人たちはイリアの名前を外では決して出さなかった。
どうか、イリアを守ってくれないか。
ニールが全身でそう頼んでくるから。
それ以上に、イリアが作る自分たちとの空間は愛してやまないものとなっていたから。