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イリアの世界  作者: 一集
第一章
18/75

13.イリアの孤独とニールの幸福

イリアは決意したことがある。

やはり、この世界はかつてのお優しい世界とは違うと気付いて。


王都の深部に住んで、時にする外出もそれなりに治安の良い場所ばかりだから実感したことはなかったけど。

死の危険はすぐそばにある。

かつての世界で言う、交通事故より当たり前に隣に潜んでいる危険。

それも事故という偶然ではなく、殺意を持って、自ら近づいてくる危険だ。


が、救いはあった。

そう、対処が可能なのだ。

鉄の塊に問答無用で跳ね飛ばされるしかなかったあの世界とは違って、危険を危険と知れば対処する術がある。

ここは『剣と魔法のファンタジー世界』。

なんと素晴らしい事だろう。


イリアはその事実に心から感謝した。


問題は対処の仕方を学ぶ方法だ。

対処を学ぶには危険と向き合うのが一番いい。

要は慣れればいいわけだ。

しかし、危険を回避する方法を学ぶために危険に身を晒すのと言うのは少しおかしい。

それで万が一命を落としたりしたら、それこそまさに本末転倒というのだ。


「なら、絶対死なない方法を考えればいいのよ」


パンがないならお菓子を食べればいいじゃない。

的な思考でイリアは前々からずっと頭の隅にあった構想を実現してみようという気になった。


考え付いたら即実行のイリアには珍しく、今まで考えるだけに留めていたのは、それが果てしなく面倒な作業になるとわかっていたからだ。

取り掛かるのに必要な気力も、それを作る必要性もなかったから放置していたのだが、今回の案件にそれはぴったりと一致する。

何事も考えておくものである。


「さて、そうと決まれば頑張らなくちゃ」


長丁場になることは初めからわかっている。

ランド・アトラスのように行き当たりばったりでは、規模が違うこの構想では現実的ではない。

あとから簡単に設定を変えられるようなものではなくなりそうだから、初めから完成図を描いておかなければ。

最後の最後になって柱が一本足りずに崩壊となっては目も当てられない。


必要な素材と情報と。

時間と魔力と、想像力と創造力。


「姉さん、今度は何を作り始めたの?」


またもや姉が構ってくれなくなって、苦笑が漏れるニールにもイリアはにっこりと笑って「ナイショ」だと答えた。

何せいつ完成するとも知れない。

待たせるのも忍びないので、待たせない方法、つまり何も言わない選択をしたわけだ。

せっかくだから驚かせてみたいという悪戯心もある。


イリアの中ではニールはいつも冷静な弟だった。

それが驚かされ慣れた故だとは考えてもいない。


頭の中だけでは処理しきれずに紙に書き止めていくが、日本語ならば誰にもわからない。

何の問題にもならない。

この過程で、日本語が非常に魔術式、ひいては魔術陣をつくるのに便利だと気付いたのは思わぬ副産物だった。

それのおかげで幾分か複雑な設計図が簡略化出来たことは嬉しい誤算となった。


ホログラムでとりあえず形を作り、ミニチュアの立体図を作っておく。

日々改良が加えられ、一日たりとも同じ形であることはないそれも、本の間に仕込んで閉じれば消える。

自動ロックを掛けることも忘れない。


イリアは持ち前の集中力であっという間にそれに夢中になった。

完成させるまで一気に突っ走ってやろうという気概もある。


だが、多分、夢中になりすぎた。

それから数週間の出来事を、イリアはあまり正確には覚えていない。


それをつぶさに見ていたのはニールだけ。


ニールは姉の要望にはよく応えた。

あれこれと材料を所望される度に、イリアが作っているものに想像力を働かせてみるのだが、さっぱりわからない。


それよりも目を瞠る変化がある。

当のイリアのこと。


イリアはニールから見れば底なしの魔力量を誇っている。

そしてその魔術変換効率はいまだ誰も足元にも及ばない。

しかも、魔力の回復量は段違いという、他人から見たら隙のない化け物級の天才だ。


そのイリアが、ほとんど毎日魔力を枯渇寸前まで使い切るという事態がすでに異常。

慌ててニールが屋敷にもイリアの部屋にも結界を強化し、いくつもの新たな結界を張り直したのは記憶に新しい。


そんなイリアの底なしの魔力が変化していくことに、ニールは驚嘆の思いだった。

「まだ」育つのか、と。

眉を顰めたのはイリアの成長を厭う故ではなく、これ以上離されたくはないという、自分勝手な我がままだと理解している。


本人はきっと、ただ望んだだけだろう。


もっと自由に魔力が使えればいいと。

足りないから。

もっと、と。


願えば叶う。

その異常性に、イリアもニールも、慣らされすぎていて気が付かなかった。


魔力量が増えているのか?

増えているのだろう、だが問題はそれではない。

回復量だ。

日々目に見えて増えていくのは。

魔力が、減って見えないほどに、回復が早い。


減ったそばから足されていく、それはニールをして、何か別の生き物を見ているような気分にさせる現象だった。


無限、という言葉が頭を過る。


まるで水が上から下へ流れるように、自然に。

一定量を保つこと、それが当たり前であるかのように、世界が動く。

イリアの魔力を保とうと、どこからともなく彼女に流れ込んでくる。


ニールはその不可思議な現象が徐々に完成されていくのを毎日見ていた。


「姉さん、大丈夫?」

「何が?…変なニールね」


きょとんと聞き返すイリアに、ニールは何でもないと答えた。

けれど聞かずにはいられない問いは毎日ニールの口をついて出る。


この焦燥と不安は本当に自分の子どもの部分が騒いでいるだけか?

自己中心的な子供の癇癪か?


強くなる、疑念。


「それ以上、魔力を増やしてどうするの?なんだか心配だよ、姉さん」

「多いに越したことないでしょう?」


その何気ないやり取りで、ニールは驚愕と共に悟った。


多分、彼女は自分たちとは違う。

この世界の全ての魂と存在を異にする、命。

その根底の在り方は、言うなれば『世界』に連なるもの。

何故イリアだけがそうなのかを知らない。

ただ理解した。


世界の創造物ではない、世界にその一部と認められたもの。

それがイリアだ。


イリアが望む、世界が動く。

それは摂理。

世界が理と定めた、ルール。


イリアの体はゆっくりと変化していく。

その望みに応えて、彼女の体はもはや一つの魔力永久機関といえた。


けれど、その完成をニールが見ることはなかった。

当のニールが衝動的に止めたからだ。


「姉さん、今日も僕以外に夢中?」


ただの問いが弱音に聞こえて、ニールは無視できない程に大きくなった自分の中の揺らぎを自覚する。


イリアの望みをかなえ続ける世界に募っていったのはなぜか不安と焦燥、それを抑える理性がついに育ちきった疑念に取って代わられた。


「姉さん…聞こえてる?」


世界は今まで一度も彼女を傷つけることはなかったけれど。

ニールはどうしても甘受できなくなった。


「………」


ふわふわと、夢を見るような目で、それでも答えを返していた声が消えた日。

淡い光が、イリアの髪の先を溶かしていることをニールの狭窄した目は映してはいなかった。

けれど、戦慄が背筋を駆け抜けた。


その本能で姉が奪われようとしていることだけを知る。


「姉さん!!」


焦点の定まらない彼女の瞳はニールを見ない。

優しく細められていた、愛を湛えた目は。


「な、なにが?なにが、なにが!なにが!」


なにが起きているか。


わからない。

何一つわからない。


「お願いだから、僕の声を聞いて!」


危険を知らせる本能。

警告を発する脳内。


名を呼ぶ、あの声を聞かせてくれと悲鳴交じりに叫ぶ。


「姉さん!」


掴んだ肩は細かった。

折れそうだと思いながら、衝動に駆られて揺さぶる。


けれどイリアはされるがまま。

抵抗もなく、人形のよう。

昔、出会ったばかりの頃のイリアを思い出させた。


「違う、あの頃だって」


表情を変えない彼女は人形を思わせたけれど、決して人形ではなかった。


「姉さん、…イリア!」


反応のないイリアの肩口に顔を埋める。


震えているのは、誰でもないニールの体だった。


怖じ気、慄き、身が竦む。

あまりにも一瞬で崩れ去る、ニールという人間は、イリアがいなければ呼吸すらままならない。


「イ、リア…」


喘ぐような荒い呼吸の合間に聞こえる不快な硬質音は、歯の根がかみ合わない音。


「待って、いかないで、戻ってきて」


恐怖がニールの身に蔓延しきると、その匂いに惹かれて這い寄ってきた黒い気配。


湧き出してくる感情は何か。

ただ、暗く重く、渦巻く。

炎より冷たく、氷より熱く、ふつふつと込み上げてニールを飲み込もうとやってきた。


似たものを知っている。

独りで生きていた頃、すぐ隣にあったもの。

手を伸ばせば触れられる、慣れ親しんだあの気配。


「…俺を見て」


声は小さく、懇願するようだった。


忘れていたのだ。

遠い昔、イリアが追い払ってしまったから。


力のない声が情けなくイリアを呼ぶ。


「頼むよ、イリア」


忍び寄る気配はあっという間にニールを覆いつくしていく。

彼女が、ニールを守る者が、いなくなった気配に喜んでやってきたのかもしれない。

かつて逃した獲物だと。

ニールの知る「あれ」よりよほど質量を増したのは、時が育んだのだろうか。


手足が浸食に痺れて熱を持つ。

縋るように暖かな体を抱きしめた。


闇に塗りつぶされていくような冷たさに飲まれたのか、それとも抗ったのか。


地を這うような音がした。


「…イリア、許さないよ」


それは自分の声だった。

怒りを湛えた、凍える声。


そう、許せないことがニールにはある。


「俺をおいていくなんて、絶対に」


それだけは、認められない。

この孤独、この喪失。


ニールは簡単に選ぶことができる。

何もかもを天秤に乗せることができる。

事象、現象、夢も希望も力も、命ですら。

その片方にイリアが居るなら、すべては軽い物事。


世界がイリアを奪おうと言うのなら世界を敵に回す、そんなことは至極当然の話だ。


イリアがいなければあっという間に飲まれてしまう。

それの名は、狂気。


身を委ねてしまえとソイツが言う。


狂乱の思考が往くべき道を定めようと、ニールの瞳に暗い炎が宿る。

寸前。


頬に触れるものがある。


「ニール、わたしを呼んだ?」


柔らかな声がする。


「どうして泣いているの?怖い夢を見た?」


怖いものがあるなら守ってあげる。

いつでも、いまでも、これからも。


イリアが耳にしたのは絶望に染まったニールの声。

怯えた子供のようにイリアを呼んでいる声。


イリアは一度だってその声に応えなかったことはない。

だから今日も目を覚ます。


「…イリア?」

「なあに?わたしのニール」


目の前にはニールを映すイリアの黒い瞳。


「どうしたの?やっぱり夢を見ていたの?」

「夢?夢だったの、かな」

「いやだわ、ぼんやりさんね。きっとまだ寝ぼけてるのよ」

「…そう、かな?」


色濃い気配は逃げるように引いていく。

狂熱の闇は、あっと言う間に静まった。


本当の魔法はイリアの柔らかな声だとニールは思った。


「疲れてるのね、ひと眠りなさいな」

「いやだ!!」


宥めるように彼の細い髪の毛を梳きながら言えば、返ってきたのは強い反射の否定。

驚いて手を止める。


「ニール?」

「手を放したらイリアが、どこかに行ってしまう。眠るのは、いやだ」


どんな夢をみていたのだろう、弟がひどく怯えている。


「どこにも行かないから安心して。心配なら起きるまでそばにいるわ」


大きくなったと思っていた弟だが、まだ姉の役割は必要みたいだと、イリアは少し嬉しく思いながらニールの頭を抱えた。


「本当に?」

「ええ、ほんとうに」

「そこに居てよ?」

「約束するわ」

「ずっとだよ?」

「ニールがもういいって言うまでは、ここにいるわ」

「…そう、なら安心」

「ニール?」


ああ、幸福だ。

愛しいイリアの声を聞きながら急速にやってくる睡魔に身を任せる。

イリアのことだから、鎮静の魔術でも無意識に使っているのかもしれない。


「約束」

「ふふ、わかってるわ。いい子だから、おやすみなさい」


イリアはニールがその膝の上で寝付くのを見守る。

髪を梳くと気持ちが良さそうに目を細めるのが愛しい。


ふと、顔を上げる。

窓の外で揺れる枝葉をなんとなく見た。


「…もう、わたしはわたしね」


残念なのか安心したのか、自分でもわからない。


イリアはどこか不思議な気持ちで『個』である自分を認識する。

世界の端末のようなものだったと、いまはそう思う。

この魂はあまりにも無防備で、自己と他者を識別できていなかったのだろう。

そして『世界』もまた、例外を知らない故に、拒絶どころかイリアを『世界を構成する一部』だと。


力を望んだら、接続が強まって同化しそうになった、というのがイリアの感覚だ。


「少し、怖い」


何かの一部だった自分が、切り離されていま一人。

たとえば、突然親離れをしたような、そんな心もとない気持ちが確かにある。


イリアは接続が途切れ、何ものでも無くなった自分の手を見る。

自分の意志で弟の髪を梳く手。


これでよかったのだろう。


魂を世界と切り離され、目の前には同化のしようもない弟が。

あんな、地に根を張る木のような欠けるところのない十全たる心はもう二度と手に入れられないだろうけど。


「あなたを一人にするわけにはいかないもの」


イリアは人間で。

つまり寿命があって、傷つけることもできて、大切な人と人生を過ごせる。

時間に置いて行かれることもなく、孤独に震えることもなく、狂える神になることもない。


人間であるという事は、きっとこういうこと。

どこかが欠けていて、どこかが寂しくて、それを埋めるために他者を求める。


孤独があるから、愛もあるのだろう。

一人では生きられない、人間はそういう生き物だ。


「寂しいのなら、そばにいるわ。ニール」


世界は拒絶され、拒絶された世界はイリアを異物と認識した。

もう二度と、世界はイリアのものにはならない。

この世界の住人に、イリアはやっと成ったのだ。


それを定めたのは腕の中にいるニール。

ニールはイリアを求めて、イリアはそれに応えた。


呼ぶ声に応えないこともできたけど、イリアはニールに救われた日からずっと決めていた。

救われたから、救いたい。

その声が助けを求める時には絶対に手を伸ばす、と。


だから、応えたのはイリアの意志。

選んだのはこの自分。


「あなたが望むならいつまでも」


何ものにもなれる自由も捨てて、共に死ねる権利を得た。

きっと後悔はしないだろう。


「愛してるわ、ニール」


その額に口づけを落とす。

彼が愛する伴侶を見つけて、孤独を癒す権利を譲り渡すその時まで、誰よりも愛を注ぐ。


思い描いた遠い未来は愛する弟のもので、イリアは思いを馳せる自分の未来がないことに気付いてはいない。


ただ、ニールの確定的な幸せだけがイリアの輝く瞳の中にある。


「その時が来たらきっとさみしいわね、でもそれ以上に嬉しくもあると思うわ」


夢うつつに聞こえる声にニールは答えた。


イリア、君は少し間違えてる。

もういいなんて、きっと俺は言わない。


望む限りそばに居てくれるのなら、ずっと一緒だ。

ああ、なんて甘美な約束だろう。


声になっただろうか。

聞こえただろうか。

どちらでもいいかと、ニールは今度こそ幸福の中、深い眠りについた。




おまけ①

―とある日の疑念―


「この前、光の精霊王出しただろ?」

「ああ、あの闇の精霊事件の時のことか」

「そうそう、それ。気になってたんだけど、誰が喋らせてたの?アレ」

「あ、俺も気になってた。うまいフォローだったから助かったし」

「え、いつも通りシリルかセオなんじゃないの?」

「ぼくじゃないよ」

「ん?おれでもないぞ」

「「「……」」」

「いや、俺を見るなよ、違うからな」

「じゃあ…イリア、かな?」

「なーんだ、そういうことか」

「どうした、ニール?変な顔して」

「ん、いや。姉さんが、あんな風に喋らせるかな、と思って」

「でも、消去法からしてイリアしかいないし!」

「そ、そうだよ!」

「「「………」」」

「………まさかね?」

「…まさか、だよな」

「いやいや、ないよ。ないって」

「そうそう、そんな馬鹿な」

「「「ははははは」」」

「……ないよ、ね?」

「「「……」」」



『どうした、光の』

『いや、なに。我らの創造主がいつ気付くのかと楽しみでな』

『ふふ、さて、いつだろうな?』

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