EX.ウィルヘルム・ウル・ライントレス
ウィルヘルム・ウル・ライントレスはこの世界が嫌いだった。
物心ついた時から、世界は色あせて、ひどくつまらないものだったからだ。
「兄上、今日も参加なさらないつもりですか?」
ウィルヘルムはまだ幼さを残す声に振り向いてから、もうそんな時間かと窓の外を見る。
なるほど、太陽の高さは勉学の開始時間を示している。
「おう、弟よ。残念ながらいまだ謹慎の身でな」
ひらひらと手を振ると弟は呆れたように溜息を吐いた。
「もうとっくに解かれているでしょう。いい加減顔をお見せになってください、みなが心配しています」
よく回る口だとウィルヘルムは弟の口元に目をやる。
弟の口元には幼いながらも色気を感じさせるほくろがあって、それが口角の角度を見るのにちょうどいい、などと兄が思っていることなど彼は知らないだろう。
わかってはいたが、弟の口は微妙な角度で持ち上がっていた。
兄弟の中で最もツラの皮が厚い弟の嘘はウィルヘルムには簡単に見抜ける。
「意味のないことはしない主義なんだ。お前は早く行け、遅刻なんぞしたらせっかくの評価が落ちるぞ」
既存のルールに従ってこそ、『落ちこぼれの兄を慰問する心優しい弟』というプラスが加えられるのだ。
兄の卑屈とも取れる考えに弟が気付いたかはわからない、どちらにしても弟は顔色一つ変えなかった。
しばらく反応をうかがっていたが、じっと動く気配のない兄に仕方がないと。
「授業が終わったらまた顔を出します」と彼は一言を置いて出て行った。
「かわいくないヤツ」
今度こそ聞こえたであろう扉が閉まり切る前にウィルヘルムが呟いた言葉は、もう来なくてもいいという意思表示だ。
だが、言い返しもせず、反応すら見せない弟がかわいくないのは事実。
扉が静かに締まるのを見てからウィルヘルムは再び窓を見た。
「くだらない、つまらない、意味のない、古びた家だ」
ライントレス家は長い歴史を持つ名家。
リィンダネールのように王家に連なる血を持っているわけではないが、血筋の古さで言えばこの国でも随一。
王族がここに建国する以前より住まわっていた豪族がそのルーツだ。
その家でのウィルヘルムの評価は『癇癪持ちの次男坊』と言ったところか。
最近では癇癪の部分は鳴りを潜めてきたとはいえ、何かと問題を起こす彼を名家の血として相応しくないと見るものがほとんどだ。
「はん、ありがたいことだね」
ウィルヘルムとしては大変けっこうな話である。
昔から感情を抑えることをしない、厄介な性格で、身の回りを世話する者たちを困らせてきた。
時には物を投げつけて怪我をさせることもあった。
その激しさは、ウィルヘルム付きに指名された途端にメイドたちが一身上の都合で辞めるほど。
彼女たちが、侯爵家でありその中でも屈指の名家とされるライントレス家で働いたという箔付けすら放り投げる程の身の危険を感じていたということだろう。
今も、ウィルヘルムは敢えて感情の起伏を抑えない。
激昂することもなくなった昨今では、少々不快を感じた時は絶好の機会とばかりに感情の10倍くらいを大げさに癇癪に変えてみせる。
怒鳴り、暴れ、人に当てないように物も投げる。
そうすることで不用意に人を寄せ付けずに済むからだ。
兄の癇癪が昔とは違っていることに気付いている節があるのはあの目敏い弟くらいのものだろう。
いま、ウィルヘルムは世界が嫌いではない。
昔の自分が見れば、おかしくなったのかと疑うほどの心境の変化は、ウィルヘルムにとって僥倖だった。
世界の全てが受け入れられなかったあの頃の自分なら、今頃窓を突き破って飛び降りているか、次期当主の座を争い、その手を肉親の血で染めていたはずだ。
「家も、血も、どうでもいいんだがな」
今となっては心の底からそう思う。
できればその争いから最も遠いところに居たいというのが正直なところ。
だから出来損ないの次男坊でいい。
兄は無難な男だ。
次期当主としては物足りないが、決定的に欠けるところもない。
それを自覚している兄はことあるごとに自分の優秀さを見せつけようと躍起になって絡んでくる。
彼に必要なものは心の余裕だろう。
姉は昔のウィルヘルムと同じく、感情の激しい女だ。
女の身で、自分の価値を示そうと、自らに厳しく、他者にも厳しい。
自らの血に誇りを抱き、身を弁えない者を徹底的に排除する姿勢はまさしく貴族の鏡。
不甲斐ない兄と弟より自分がこの家を治めるに相応しいと言って憚らない。
同母から生まれたウィルヘルムを含めた三人の兄姉にあるのは思いやりや慈しみではなく、確執と憎悪だ。
愛とは厄介なものだと、ウィルヘルムは思う。
高位貴族には政略以外の結び付きは必要ない、愛など言語道断。
そんなものを持つからこんなことになる。
両親の話である。
父と母は政略結婚ではあったが、ひどく仲が良かった。
結婚から始まった二人は奇跡的な確率で互いに恋をし、本物の愛を育んだ。
そうして長く待ち望んだ長男が誕生し、誰もが血を繋いでいく義務の最大の案件を片付けたと安堵した。
だが、それで終わりではない。
長男誕生で肩の荷を下ろすのには早すぎる事、貴族たる者誰もが知っている。
血を残すには不測の事態に備える必要がある。
特に連綿と続いてきたライントレス家のような、流れる血に意味がある名家は。
第二子の誕生は必須事項だ。
性別はもちろん男子。
それを以って、やっと最低限の義務を果たしたと言えるのだ。
だが、子供は中々授からなかった。
母が体を壊しがちになったことが大きな原因であろうが、そもそもの要因はプレッシャーだったのではないかとウィルヘルムは思う。
数年後、やっとの思いで生んだのは女児であった。
もちろん、女児は女児で家同士の繋がりを強化するためには必要な人材であるのだが、両親は落胆した。
中々生まれない次男に痺れを切らした周囲が側室を娶ることを要求してきていたからだ。
両親はこの第二子に自分たちの愛を賭けていたのだろう。
そして賭けに敗れた。
結局側室は堂々と家にやってきて、母は身の置き所を無くし、父は苦悩した。
母は愛を失わないため、守るために男児を生むことに囚われ、側室が家に入った頃には、その妄執は病的ですらあったという。
心を犠牲にして、母の妄執は実った。
第三子を身籠ったのだ。
そしてその命と引き換えにウィルヘルムを生んだ。
出産に耐えられる体ではないと誰もが知っていたが、子供を取り上げれば結局彼女の心は死ぬ。
苦渋の選択の末に、ウィルヘルムは生まれた。
兄は母を奪った弟妹を憎み、姉は女として生まれてしまった自分の価値を今も問い続け、やり様のない怒りをウィルヘルムに転嫁し続けている。
ウィルヘルムが生まれた時から、今もずっと。
そしてそんな負の感情を浴びながら育った自分が健常であるわけがない。
向けられる悪意に敵意で返し、やがて小さな暴君はその素行でますます人を遠ざけて、それがまた癇に障って感情を暴走させた。
自業自得と言い切るには幼い自分が憐れでならない。
憎しみ合って育った兄弟だが、その中で最後の弟だけは別母の生まれだ。
母を精神的に追い詰めた側室から生まれた男児。
母が死に、自動的に本妻に収まった彼女もまた中々の野心家で、自分の息子に家を継がせようと日々暗躍している。
その息子である弟は人当たりがよく、どんな者にも敬いを欠かさず、穏やかで優しい人柄だと大層家の者に評判がいい。
義母の思惑通りと言えばいいのか、四人の兄弟の中では最も人望を集めている。
しかし、あれも食えない少年で、彼の母に劣らない野心の炎が瞳の中に揺れていた。
彼の、兄と姉を見る目ときたら、穏やかな笑顔の奥に嘲りと蔑みの色が浮かんでいる。
が、不思議なことに、弟は何かとこの出来損ないの兄には懐いていた。
打算がありつつも、その行為がプラスとマイナスでゼロに近いのならばやる意味はないと言うのに。
それでも、誰も近寄らない部屋に無駄に訪ねてくるのがその証拠。
「…いや、懐いてるというか」
そういうには柔らかさが足りない視線だ。
あれは共感や親近感に似ている。
それから少しの警戒を混ぜて、期待をまぶして、失望と諦念で塗り固めるとあんな目になるのかもしれない。
「謎だな」
心当たりはない。
一体自分の何が弟の琴線に触れているのか。
「まあ、なんでもいいか…」
嘆息と共に何もかもを吐き出して、結論のない思考を断ち切る。
自分が彼の野心を満たすための壁にはなり得ないことを知ってくれればそれでいい。
家のことには興味がない。
興味があるのは魔法のこと。
友人のこと。
イリアのこと。
ゲームのこと。
先日イリアに課題に出された飛行魔法は何とかクリアできたが、まだまだ改善の余地がある。
というより、全然形になっていない。
それを頭の中でこねくり回して少しずつ作り上げていく。
実際に試せないところが痛いが、ある程度は想像で補完できる。
実の所、魔術の発動方法は大分して二種類ある。
誰がどちらを使うという話ではなく、たいがい両方を使い分けているのだが。
瞬間的に感覚と想像で発動する場合と、緻密な魔術式を展開する場合と。
得意な魔術は前者、苦手なものは後者を使う場合が多い。
苦手な魔術を感覚的に発動しようとすると不安定になる、あるいは時間がかかる。
それをあらかじめ組み立てておいた魔術式で補うのだ。
数学で言いかえれば長ったらしい計算を公式で一行に集約してしまうことに等しい。
ウィルヘルムはその公式の組み立てに苦心しているところだ。
それから頭の端でもうひとつ。
ランド・アトラスの領土のこと。
少々戦ばかりしていたら国力換算での数値が大分下がってしまっていた。
何とかしなければ滅亡の憂き目にあいそうである。
頭の中をその二つで満たしながらウィルヘルムはヒントを求めて部屋を出る。
向かう先は書庫。
書庫は昼でも薄暗い。
窓から入る光が蔵書を劣化させないための当たり前の措置だ。
ウィルヘルムは魔法光なら構わないだろうと柔らかな光を灯す。
古紙の匂いが思考を加速させ、歴史書と数学書を無作為に取り出してぱらぱらとめくる。
速読はいつの間にか身に着けた。
遠く、屋敷の外で音が聞こえる。
魔術式とランド・アトラスの二つに集約されていた思考の一部が無意識にそれを感覚で追って、魔法だと断定した。
放たれた魔力の性質と規模を嬉々として勝手に解析していく。
兄と姉は学園に戻っているはずだから、あれは弟が魔法を習っているのだろう。
貴族と魔法は切っても切れない存在だ。
何故かはわからない、けれど多かれ少なかれ貴族は魔法を使えるというのがこの国の常識。
魔法を使えるから貴族なのか、貴族だから魔法を使えるのか。
それは今もって謎の領域なのだが、どちらにしろ兄弟たちはみなが無難に魔法を修めそうだと、兄たちが使っていた魔法を思い浮かべながら、弟の魔力の流れを片手間に読み解く。
年齢は厳密に決まっていないが、大体魔法の基礎を7から8つの時から学び始め、10前後で実技に入る。
それが通常の流れ。
大分別の道を歩んでしまった、とは先日魔法の授業を学園から帰省していた兄姉と共に受けながらひしひしと感じたことだった。
稚拙とは言うべきではないのだ。
ウィルヘルムは先日の失敗を思い出す。
今となってはウィルヘルムの遊びにすら劣る魔法が兄姉の手によって庭園で披露されていた。
「さあ、失敗してもいいのです。最初は誰でもうまくいかないものですから、ウィルヘルムさまも恥ずかしがらずまずは試してみることが大切ですよ」
諭すように促してくる教師は、元は宮廷魔術師だという。
ウィルヘルムが苦虫を噛み潰したような顔をしていたのを見ていたのだろう。
もちろんウィルヘルムのしかめっ面の理由はそんなものではなかった。
すでに成功させて、こちらをにやにやと見ている兄と、出来るわけがないと冷たい目線を向ける姉と、心配げに見学している弟を見やる。
年齢的にいっても当たり前だが、兄たちは一足早く実践授業を始めている。
自分たちの初めての実践はどうだったのか、など記憶の彼方に飛ばして、心にもない慰めと、あるいは馬鹿にする気満々な態度が透けて見えていた。
が、魔法を発現させようにも、残念なことにウィルヘルムは呪文など一切覚えていない。
こんな初歩魔法に詠唱など必要なかったのだから当然の話。
ウィルヘルムにとってやって見せろと言われた魔法は呼吸すれば現れるような現象だ。
呪文など唱えようものならどんな規模で魔術が発現するか分かったものではないウィルヘルムは内心戦々恐々としていた。
イリアから魔術の手解きを受け始めて二年、例の公演を始めて早一年と半年。
ウィルヘルムが苦心しているのは世間のレベルに自分を合わせることだった。
緊張していると見た魔術師が自分の後について言葉を発するようにと呪文をゆっくりと唱え始め、ウィルヘルムは観念してそれをなぞった。
そうして、魔術師が詠唱の途中で言葉を途切らせて顔面を蒼白にし、ウィルヘルムも空を仰ぎ見て、この巨大な球体をどうするべきか頭を悩ませ始めるのに必要な時間はほんの呪文数節分。
詠唱を不用意にやめたことで球体が不安定に揺らぎ、それを見た魔術師が脱兎のごとく逃げ出すのを見て兄姉たちも事態に気付いたらしい。
周りにいた者に注意を呼び掛けて一目散に逃げ出した。
普通、詠唱に失敗すると魔法は暴発する。
「ああ、そうすればいいのか…」
ウィルヘルムは慎重に、人に被害が出ないよう、方向を調整して魔力渦巻く球体を派手に解放する。
これでも半分は自分の身に回収したのだ、地味な努力であるがやらねば屋敷にまで着弾しそうだった。
ちなみに、解放する前とはいえ、一度言葉に乗せて現象として表れた魔力を戻す、などということは普通出来ない。
出来るなどと口にすれば、無知を笑われるどころか頭の心配をさせるレベルで出来ない。
結果、美しい庭は抉れて黒い土を晒し、不運な木が燃え上がり、湖では魚が腹を浮かべ、そして魔術師は「順序正しく魔法を導いた」と正当な主張をした。
だが、「暴発の兆しを見せた際は必死にそれを抑えようと身を賭した」という発言はいただけない。
魔術師の自分勝手な主張を否定しても、高度な魔術を使ったのであなたにはわからない、と返されるのがオチなのでウィルヘルムは黙して語らなかった。
どうでもよかった、とも言う。
兄姉たちは、暴発と言えども自分たちでは起こし様もない現象に、ウィルヘルムを見る目には恐怖と、自分たちの地位を脅かすかもしれない存在に対する厭悪が宿っていた。
そして結局みなの意見は一定方向へと集約して、結論、ウィルヘルムが悪いという話になり、父である当主の名のもとに下された謹慎処分に、今は長い事甘んじている。
そういえば、とウィルヘルムは回想に割いていた思考をはたとやめる。
あの時もう一つ魔術式を組み立てておこうと心に決めていた。
魔力を、強制的に低出力に抑える魔術である。
誰も必要としなかっただけに、既存の魔法には似たものすらない。
今後、頻繁に活躍する機会が来るだろうそれに、もう一つ思考を割り振ってウィルヘルムは本を再びぱらぱらとめくる。
一度に複数の思考、処理を並行して行うマルチタスクという思考方法もまたイリアから教えられたものだが、実の所ウィルヘルムはこれがあまり上手くない。
タスク自体は多分友人たちの中でも多く展開できる方なのだが、如何せん、肝心の現実が疎かになる。
「兄上」
つまりこういうことだ。
思いの外近くで、声がする。
今日二度目になる呼びかけにウィルヘルムははっと意識を浮上させた。
いつの間にか思考の海に潜りすぎていたらしい。
おかげで飛行魔術式は骨組みができたが、少々削る作業が残っていた。
それから低出力魔術式の方はほとんど完成間近、できれば一気にやってしまいたい。
「兄上、また意識が飛びかけてます、戻ってきてください」
「ああ」
開いていた意識が再びゆっくりと閉じていく。
「上の空、ですか…」
「そうだな」
頭の中で展開していた式を360度あらゆる角度から見渡し、不備がないかを確かめる。
「まあいいですよ、勝手に喋りますから」
ごく間近で嘆息する声。
だが、その存在は無害だ。
問題はない。
「魔法光…相変わらず兄上の魔法はきれいですね」
「ああ」
小刻みに動く瞳が、ぼんやりとした態度に反してウィルヘルムの思考が高速で働いていることを示している。
「本当に簡単なことなんでしょうね、兄上にとっては」
「まあな」
魔力の消費の無駄は極力減らすべきで、式の中に組み込まれたたった一文字が大きなロスの原因になることもある。
特にウィルヘルムは魔術と魔術を繋ぐ接続詞が苦手だった。
それを順番にチェックしていく。
「今日、座学で課題が出たのですが、兄上はどう思いますか?」
「ああ」
弟にとっても、こうして思考に浸かっている兄に一方的に話をすることは日常といっても差し支えないもの。
ウィルヘルムが意識をしていないだけで、つまりはいつもの事なのだ。
「僕は税を引き上げて、それを元手に国境に壁を築いて配備を厚くする方向で書き上げているのですが、もしかして先に道の整備を行った方がいいでしょうか…」
言葉にしながら自分の考えを纏めていく。
このような様子の兄はよほどのことがない限りこちらに意識を向けないと知っている。
だからそれは本当に、自分の思考を言葉にしてなぞるだけの、ただの独り言のようなものだった。
だが、そのいつもの作業が、今日は少し違った。
「元の税率は?」
「え?」
「課されてないってことはないだろう?どれくらいだ?」
独り言のつもりの言葉に会話が返ってきたから、不意を突かれたような気分で驚いた。
何を聞かれたのかを必死に思い出し、兄の質問の意図に答えようとするが、残念ながら満足してもらえそうな言葉はない。
「…し、知りません、調べておきます」
慌てて兄に目をやってみても、ウィルヘルムの目線はいまだに宙をさ迷ったままだ。
意識のほんの一欠けらで話していることは想像に難くない。
しかし、安心は出来なかった。
「それすら知らずに増税を?考えなしにもほどがあるな。」
思いの外厳しい言葉に弟が目を瞠っていたが、それすら視界に入れずにウィルヘルムは思ったままを口にする。
もう少し思考をそちらに割り振っていたら、彼は無難にやり過ごすために答えすら返さなかったはずだ。
明らかに口が滑っていた。
そもそも、貴族には民に生かされているという意識がない。
金は民から巻き上げるもので、金が足りないときは何も考えずに民から徴収するものだった。
故に、弟に出された課題と言うのは金策の話ではなく、その金をどう使うのか、という話なのだ。
焦点が違えば、答えにはならない。
弟の課題にはまったくと言っていいほど無意味なウィルヘルムの言葉だが、弟は真面目に兄の言葉を咀嚼する。
「民不在の領主ほど性質の悪いものはない」
ランド・アトラスに領地を持つウィルヘルムは知っている。
コインが足りないからと言っていたずらに民から徴税すれば、民は地を捨て新天地を目指すか、冬を越せずに野たれ死ぬかの二択しか残されない。
民が減れば数値で示す国力は瞬く間に減っていく。
ウィルヘルムも含め、友人たち全員が一度はやった失敗である。
「はき違えるなよ、弟よ?王や貴族のための国はない。国の為に民は動かない。民の為にある国だけが民を得る」
ランド・アトラスでは軍備や財力、その他諸々が国力に換算されるのだが、最も換算値が高いものが民の人数とその生活の質だ。
ウィルヘルムにとって民を土地に縛り付けるのに必死になっていた記憶は遠くない。
そして民は少しの鞭と多めの飴で自ら領地の為に働いてくれる。
最近得た極意である。
さじ加減を覚えるのに何度領地を滅ぼしかけたことか。
偉そうな言葉は全て現実での話ではなく、ランド・アトラスの話だ。
しかし弟にそれがわかるはずもなく。
「素晴らしい見解です。深い感銘を覚えました」
感嘆の言葉に返ってきたのはまたいつもの気のない返事。
「ああ」
あっという間に戻ってしまったウィルヘルムに、弟は諦めと少しの期待を乗せたまなざしを向ける。
「ライントレス家の眠れる獅子はいつか目を覚ます日がくるのでしょうかね、兄上」
たまに見える兄の本質、なのに彼には野心がない。
片手間でなければこの兄はのらりくらりと会話を躱し、こういった見地をみせてくれることもない。
「ああ、そうだな」
「聞いてませんね、まあいいですよ。あなたがならないのなら、ライントレス家の当主には僕がなりますから」
唯一、仰いでもいいと思う人間はこのありさまだ。
「兄上を除けば、僕が最適でしょう」
最大の難敵であろう次兄は野心の妨げにはならない。
長兄と姉を排除しても、彼はきっと動かない。
けれどその力になってくれることもまた、ないのだろう。
それを少々残念に思う。
ウィルヘルムはちらりと弟をその目に映してからゆっくりと目を閉じた。
何も聞いてない、何も聞こえない。
その態度を答えに代えて。
弟が当主になりたいというのならなればいい。
なぜなら、この家が、ウィルヘルムは嫌いなのだ。
妄執で固められたような重い血を、自ら背負おうという気概はない。
蜘蛛の巣のように張り巡らされた細く頑丈な糸に、兄と姉はすでに囚われて久しい。
この自分ですらいまだ逃れられず、その地位を戴こうものならば、嬉々として自分もろとも滅びの道を選ぶだろう。
父母の世代だけではない。
自分たちだけの話でもない。
連綿と受け継がれてきた血と歴史の話。
もしもそれを断ち切れるとしたら、血を拠り所とするでもなく、感情に縋りつくためでもなく、ただ自分の能力を以って当主に相応しいと言うこの弟だけだ。
だから、彼がなればいい。
いつか刃を向けられる時が来て、この日を後悔することがあるかもしれない。
けれど、少なくとも「今」は真実そう思った。
ウィルヘルムの心は体から乖離して、暗い書庫と弟を置いてゆらり世界をさ迷う。
求めるものは心に灯る一つだけの柔らかな光。
家も血も、関係のない。
妄執も憎悪も遠く。
ただの「ウィル」でいられる場所。
―会いたいなあ。
浮かんだのは単純な一言。
その意味。
いま、ウィルヘルム・ウル・ライントレスは世界が嫌いではない。
この窮屈な家以外は嫌いではない。
馬鹿みたいに、はしゃいで。
遠慮のない言葉で言い合って。
怯えられることもなく、距離を測る必要もなく。
怒鳴っても、言い過ぎても、喧嘩しても。
それは憎しみにならず、それは拒絶にならず。
やがて優しい声で窘められて、心の安寧を得る場所。
そんなものが彼にはある。
たった一つだけ、ある。
それだけが、彼の、世界を肯定する寄る辺だった。
それだけで、世界を肯定するほどに、この心にはなにもなかったのだと、ウィルは最近気が付いた。
仲間内では騒がしいウィルも家ではわりとシリアス。
イリアたちと一緒に居るウィルを兄弟が見たら多分「誰?」ってなる。




