10.イリアと灰色の獣
ルカリドは避暑地である。
そしてイリアは別荘が立ち並ぶ高原を越えて山へ入った。
近くには水辺。
夜ともなれば空気は冷え込み、朝には露に濡れた下草が体温を奪う。
イリアは自分たちを害する生き物から身を守るための結界を作ったが、自然の脅威を和らげる願いは込められていなかった。
つまりは寒さが身に沁みる。
だからイリアは無意識に暖かなモノへと身を寄せた。
頬を擽る柔らかな感触。
手を伸ばせば、深い絨毯のように腕ごと毛の波に埋まる。
暖かい。
が、触れていない場所には相変わらず寒さが這い寄ってくる。
毛布のように手繰り寄せて体中を覆いたいのに、ソレは残念ながら薄くも軽くもなく、四角くもないから使い勝手が悪い。
不満が眠気を浸食し、イリアはやっと目を開けた。
触感は正しく、目の前は毛の壁に覆われていた。
はて?
しかしイリアにはこの状況に覚えがない。
困惑しながら体を起こせば、硬い地面で眠ったせいか、体が痛む。
ばきばきと音がしそうな固まった体を無理矢理働かせ、身を起こしてやっと全体像を把握する。
のろのろと思い起こす昨日の出来事の中。
見覚えはあった。
一瞬だけど。
灰色の獣。
轢き殺される寸前だったイリアを助けてくれた獣だ。
形は狼によく似ていた。
しかし大きい。
何でも巨大化したがる魔物の一種だろうか。
それにしては、昨日見た魔物たちの共通項である『完結した魔力』がない。
これはどういった生き物なのだろうか。
珍しげに覗き込むイリアの目の前で狼がぴすぴすと鼻を動かした。
「かわいい」
弟たちの前以外ではあまり動かさない表情筋が思わず綻んで笑みを作る。
灰色の獣がうっすらと目を開ける。
覚醒の時来たようだ。
視線だけでぼんやりと景色を眺めた狼は、その視界にイリアが映った途端に、条件反射のようにびくりと身を起こして低く構える。
その金色の目には警戒と、それから理知的な色が見えたからイリアは伝わるかわからない言葉を口にした。
「狼さん、昨日は助けてくれてありがとう」
何にしても命の恩人(獣?)だ。
礼は忘れたくない。
言葉を理解したのか、狼は辺りを見回して状況の把握に努めたようだ。
イリアもつられて視線を動かす。
バイソンモドキの倒れた体はまだそこにあって、流れ出していたはずの血は黒いタールのように地面にへばり付いている。
致命傷となった傷からは煙が湧き出して、バイソンモドキは何周りも小さくなっていた。
溶け出し、気化し、消えていくのだろうか。
どう見ても食料にはなりそうにない。
魔物とはやはりイリアの知る生き物とはまったく別のものなのだろう。
バイソンモドキの死体の周りに集っている小型の魔物たちについては見ないことにした。
それらが何をしているのかも合わせて目を瞑って、イリアは視界をそっと戻す。
寝起きの頭では衝撃が強すぎる。
とかくこの世は弱肉強食なのだな、と自然の摂理を心の刻むのみ。
狼はイリアではなく、その小型の魔物たちへと警戒を露わにしていた。
「大丈夫よ、狼さん。この結界には入ってこられないわ」
事実、イリアが深い眠りにある間、死臭に惹かれてやってきた小さな魔物たちは無防備で柔らかそうな餌に再三襲い掛かったのだが、そのことごとくが見えない壁に阻まれて成功しなかった。
何時間もかけてそれを理解した彼らは当初の目的通り、力を撒き散らす黒い餌をむさぼることにしたのだ。
こちらを見向きもしない魔物たちを訝しみながら、狼の目がイリアを再び捉えて、座り込んだ彼女を上から下まで眺めた。
少々バツが悪そうに、警戒態勢だった低い姿勢を起こす。
イリアはどこか変だろうかと手を広げて自身を見た。
なるほど、血みどろである。
ほとんどは乾いていて、顔を擦ればぱらぱらと固まった血が剥がれ落ちていった。
はっと気づく。
そうだ、命の恩人はもう一人いた。
彼は、あの男はどこだろうか。
「どうやら助けられたらしいな」
思った途端に、疑問に応えるように昨日聞いた男の声がした。
狐につままれたような顔でイリアは声の主を、その発信源を見る。
狼だ。
目の前の。
「まあ、もうわかっているとは思うが」
そう言って獣はぐにゃりと歪んだ。
「…わお」
間の抜けた驚きが彼に伝わったかどうかは定かではない。
異世界を実感する瞬間だ。
魔法が使えると知った時、それを実現した時。
それから昨日、初めて大物の魔物を目にしたとき。
そして目の前の光景で四度目の驚愕。
狼は落ちていた外套をその五本の指で掴み、体を覆ったと思った時には二足歩行に移行していた。
「礼を言う、お嬢」
目の前には狼人間が立っていた。
顔は狼、牙は鋭く、二本の足はしなやかに曲線を描いて、その俊足と俊敏性を雄弁に伝えてきた。
手は五本の指があったけれど、伸ばした指からは鋭利な刃先が覗いている。
ああ、あの爪がバイソンモドキの首を掻っ切ったのか。
イリアは妙に納得した。
狼は一度狼人間になって、それから人間になった。
覚えのある、男だった。
この国は人間国家だ。
強固な排斥を唱えるほどではないが、そういった種族が敬遠するくらいには排他的な国。
だから見たことはなかったけど、そう、ここは異世界で。
神が居て、魔法があって、魔物がいて。
ならば人間以外の種族がいたって当たり前のこと。
耳の長い森の民。
唯一空を飛ぶことのできる有翼の民。
水に生きる水棲の民。
人間賛美の書物の中に紛れていた真実。
亜人や獣人と呼ばれる彼らだって、居てもおかしくはない。
「しかし、絶対に死ぬと思ったんだがな?」
男はもう人間にしか見えない顔を捻った。
「治るような傷だったか?」
その問い掛けは自分の記憶と対話しているようだった。
「それに、この見えない壁」
男が、あるようには見えない目の前の透明な結界をこんこんと叩く。
寸分違わず、そこに何かがあると確信して叩かれた壁。
イリアも自分の魔力でなければ視認できないそれを、目算を誤らず触れた男はなかなかの勘の持ち主ではないのだろうか。
「魔法を使っただけ」
隠すことでもないからイリアは答える。
男は少しだけ目を見開いてイリアを見た。
「魔法?…これが?」
疑うような目を向けられたって、事実なのだから仕方がない。
後ろめたさの欠片もなく、イリアは男を見返す。
人間国家に彼らの情報は少ない。
けれど、イリアの持っている乏しい情報では、獣人は得てして魔法が使えないというから、それを初めて見たのかもしれないと結論付ける。
見聞を広くした冒険者でも、魔法は貴族のものであるのだからそれも然り。
まっすぐなイリアの視線に臆したのか、男は眉を下げた。
「深くは問わない。助けられたのは事実だしな」
助けられたのは事実であったが、窮地に陥ったのも彼女のせいである、とは言わない。
その黒髪で目立たないけれど、頭から指の先まで彼女の体は染まっていて、二つの事実を男に知らせる。
自分が、助からないであろう出血量だったこと。
彼女がどれだけ懸命にこの命を繋いだか、ということ。
なによりも、自分が獣人と知ったその目の中には驚きはあっても嫌悪と恐怖はなかった。
「お嬢、貴族だろう?」
この国、グランドリエでは魔法が使えるのは貴族だけだと言う。
何より、常識を知る民がこんなところに居るわけがない。
緩いワンピースは村娘が着るには上等すぎたし、優雅過ぎた。
イリアがこっくりと頷くのを見て、男は心配になった。
「いや、尋ねたのは俺なんだが、そう簡単に自分の価値を教えるな」
今度はイリアが首を傾げる番だった。
「世の中善人ばかりじゃない。俺が誘拐目的だったらどうするんだ」
「…あなた、いい人だってわたし、知ってるわ」
きょとんと、事実を伝えるかのように気負いなく言い切る少女に危うさを感じる。
世間知らずにも程があると思った。
「大体、なんでこんなところに貴族のお嬢さまが居る?」
「散歩に来ただけ」
今度は男が深々と溜息を吐いた。
「今は総出で狩りの真っ最中だ」
男が言うことには、これから避暑シーズンに向けて、蔓延った魔物たちの掃討作戦中だという。
毎年恒例の行事で、地元の猟師だけでなく臨時に冒険者たちを集めて、一斉に敢行する。
男も偶然この土地に入ったところで、手と財布が空いていたから募集を受けた。
「お貴族様が来るのはもう少し後だと聞いていたんだが」
「正解」
心なしか嬉しそうな声に男は肩を落とす。
男は自分に自信があった。
剣技はそれなりに、身体能力には絶対の、そして獣人としての切り札。
これで凌げなかった危機はない。
この辺りの国はほとんどが人間至上主義か第一主義国家だ。
切り札は人前では見せられないものとなっていたから、単独行動を願い出た。
珍しいことではなく、冒険者には個人主義が多い、疑われることもなかった。
そうして森に入り、各々の狩場を見つけて魔物狩りに勤しんだ。
魔物は害虫の様なものだ、どこからともなく湧いて出る、競争をする必要はなかった。
他の冒険者たちの狩場と重複しないようにだけ気を付けて、山に入って三日目で男は大物に出会ったのだ。
ルカリドは穏やかな土地で、魔物も弱い。
それでも時々そぐわない大物が迷い出る。
北の国境を示す、霊峰フォルメルド山脈の峰を連綿と下ってくると、時にこのルカリドの穏やかな山へと行き着く。
彼らは冷厳なる地で育まれた強者だ。
が、男には勝てる自信があった。
フォルメルドの魔物と遣り合うにはいささか覚悟が必要だが、この場所で出会う魔物はその地を追い出されたもの。
最初の力比べは男の負け。
だが、獣人の力を以ってすれば、力比べでも負けそうにはなかった。
この辺りには他の冒険者もいない、安心して解放しようとしたところで男は少女に出会ったのだ。
人前では獣人の姿は見せられない。
焦りと逡巡が招いた事態だった。
結果としては、少女の命を男が救い、男の命を少女が救った。
「貸し借りはなしでいいか、お嬢?」
「もちろん」
イリアは力強く頷く。
「家まで送って行こう、歩けるか?」
イリアは案内は要らないと言おうかと思ったが、一人の散歩は結果的に大失敗で、説き伏せられるのは目に見えていたから素直に男に従った。
帰り道は楽しかった。
イリアが昼食にと持ってきた食事を二人で分けて、その礼にと獣人の姿を見られた彼が何かを吹っ切って、狼人間の姿で背中に負ぶってくれたからだ。
「うわあ!」
凄まじい速さで流れる景色と、時折障害物を避けるために跳躍する浮遊感が癖になる。
男は酔いを心配していたらしいが、ジェットコースターで喜んでいた記憶を思い出してみれば、この程度はなんてことはない。
あまり口には出さないまでも、気配に敏感な獣人は少女がはしゃいでいるのがよくわかった。
思わずサービスをしてしまうくらいには男も楽しかった。
何せ獣人としての自分を隠すばかりの日々だったのだから。
「道をあけて」
良く聞こえる狼の耳が少女の声をとらえる。
何のことだろうと思う疑問はすぐに解けた。
草も枝も、葉も、ことごとくが男の体に触れる前にその頭を垂れる。
「どう?これでもっと速く走れる?」
くすくすと笑う少女の声に全身の毛が逆立つ。
少女は驚いて身を起こし、背中の毛を撫で付けた。
大きな息を吐き出しながら動揺を抑える。
毛の流れが元に戻って、黒髪の少女は再び背中に張り付いた。
「もう何も言うまい」
「え?」
「なんでもないよ、お嬢」
彼は自分よりも異端かもしれない少女の望み通り、速度を上げて、別れた後は全てを忘れようと心に決めた。
別荘が立ち並ぶ高原地帯に近づけば、彼女は自分から歩くと言い出した。
獣人の姿を見られたくない心情は察してくれていたらしい。
「お嬢さま!?」
冒険者としての姿で少女を別荘に連れて戻って、出迎えた住人達は顔を真っ青にして今にも倒れそうなありさまだった。
然もありなん。
散歩に出ると言った貴族のお嬢さまが夜になっても戻らず、独断で報告を入れていいものかと右往左往していたところに血みどろになって当の本人が帰ってきたのだから。
「怪我はないから大丈夫」
背中ではしゃいでいた時とは一変して、感情を乗せない言葉を少女が返す。
男は山で保護したことを伝え、血は倒した魔物の血を浴びたことにして彼らを納得させた。
感謝の言葉を雨あられと降らされて、男は退散を試みたが、当の彼女が外套を掴んで引き留める。
「お礼」
どうやら貴族としての彼女は無口で無表情らしい。
言いたいことは片言から察するしかない。
「気にするな、お互い様だ」
黒髪の少女は相変わらずじっとひとの目を覗き込んでその真意を量ろうとする。
逸らさずにその吸い込まれそうな黒い瞳を見返せば、彼女は納得したようだった。
別荘の住人と彼女に見送られて男は高原を後にした。
絶対にこの別荘の持ち主のことなど知りたくはない。
少女の素性に繋がるものはこの頭に入れるべきではない。
幾多の危険を乗り越えてきた勘が訴える。
悪夢のような、あるいは奇跡の様な出来事だったと、リューンは記憶に蓋をした。
せっかく異世界が舞台なのだから人間以外を出したい、という願望。




