9.イリアとルカリドの森
ルカリド。
かつて王族の姫君の療養所として開発されたという地。
「んー、いい空気」
イリアは馬車に乗りっ放しで凝り固まった体を存分に伸ばす。
そこは、風光明媚、まさに言葉通りの場所だ。
緑の森は人の手が入り、生い茂る大木は涼やかな日陰を提供して、萌える葉は耳に優しい風の音と、目に美しい光を降り注いでいる。
森に点在する湖は各所を小川でつなぎ、穏やかな水音を奏でていた。
別荘に、この湖を抱えることができるか、は貴族たちのステータスであるらしい。
幸い、エンドレシア家は森の中でも中ほどの大きさの湖を別荘と共に確保している。
つまりこの森のほとんどが線で区切られる貴族の土地だ。
少し離れた場所にある村は、元はこの別荘を管理する人々がぽつんと住んでいただけだったという。
それが集まり、いつの間にか集落を作り、村になった。
人の手が入らなければあっという間に植物たちの旺盛な生命力に覆われて、鬱蒼と茂る暗い森へと変化してしまうルカリドの森を、美しい避暑地に保っているのは多くの人々の努力のなせる業だった。
今でもその半数はこの森に別荘を構える貴族たちに雇われて、家や土地を維持する人々だ。
そんな彼らは主がやってくれば目の回るような忙しさになる。
貴族が一時をこの別荘で恙なく過ごせるように食材を用意し、料理人、掃除婦、メイド、その他諸々必要な人数を雇い入れる。
村の若い娘は臨時のメイドに、母たちも掃除婦として駆り出され、この時のために育てられた野菜や果物、あるいは家畜が瞬く間に消費されていく。
村にとっては書入れ時と言えるだろう。
そんな人々の手によって保たれている美しきルカリドの地の空気はイリアによく合った。
モントエールもファタロスもいいところだが、イリアの一番のお気に入りはここだ。
最低限でいいと言っておいた別荘をまわす人数は管理人と料理人とメイド二人の、伯爵家にしては貧相に過ぎる揃えとなっていて、それもまたイリアを満足させた。
遠くファタロスの背後から続く山脈が連綿とここまで続き、ルカリドを熱気から遠ざけているのはその終点とされているなだらかで穏やかな山だ。
霊峰とも呼ばれる国境を区切るファタロスの峻厳な岩の壁も、この場所まで来てしまえばその威厳を急速に失い、一般の山と変わりない。
時に霊峰から続く道をここまでさ迷い出てくる獣もいると言うが、冒険者による一斉駆除が定期的に行われるようになってからはめっきり話に聞かなくなった。
イリアは随分と早くからこのルカリドの地を踏んだ。
もしかしたら一番乗りかもしれない。
そして一番最後に帰るつもりでもあった。
この一週間でちらほらと貴族たちは顔を見せ始めるだろう。
二週間後にはラッシュ。
そうすると、穏やかなこの土地も、茶会や夜会、時には舞踏会までが開催され、王都とそう変わらない営みが始まる。
そんな喧騒に巻き込まれたくはない。
人口密度が高い間はいつも通り、別荘に引きこもっているつもりだった。
二三日後にはランスを同乗させたシリルが到着すると連絡をもらっている。
ニールやグレン、セオはラッシュと共に。
メルやリィンは少々短い滞在になりそうだ。
つまり、ランスとシリルが来るまでの二三日の間は一人と言うわけだ。
思えば、孤独と思っていたイリアは、愛する弟を得てからずっと、一日中を一人で過ごしたことはない。
昔はニールとべったりの日々であったし、貴族としての務めを果たすようになってからも、ニールは朝晩の挨拶を欠かさなかった。
その合間にはニール不在でも時間が空けば遊びに訪れる弟たちがいる。
振り返ってみればいつも騒がしい日常だった。
孤独などに心を蝕まれる暇などないくらいに。
到着してから一日目は荷解きと周囲の探索で終わった。
二日目は少し遠出をしてみようと、調理場で簡単な昼食をバスケットに詰めて出かけた。
あの過保護な面のある弟たちがいては出来ない冒険もたまにはいいだろう。
別荘から少し外れるとそこは他貴族の所有している土地になってしまうのだが、そんなことを言っていたらこの森は移動できない。
舗装された道を外れて馬を駆けさせることもある貴族の間では、通り抜けや迷い込んだ程度は咎めないのが暗黙のルールだ。
元より、まだ貴族たちは避暑に訪れてすらいないのだから、主不在の土地を堂々と横切ることにイリアは問題すら抱いていない。
ちなみに乗馬が嗜みである貴族としてはあり得ないことにイリアは馬に触れたことがない。
貴族としての教育はまるっきり受けていないのだから、まあ当たり前と言えば当たり前の話である。
イリアはどこかを目的としているわけではない。
森の奥に消えていく令嬢を誰かが見かけたなら誰もが止めたであろうが、生憎とそんな者はいなかった。
時に小川を辿り、時に遠くに見える巨木を目指し、急ぐことなく優雅に歩く様はまさしく貴族の散歩。
お付が居ないこと、道なき道を歩いていることを除けば、の話であるが。
さすがは避暑地と言ったところで、夏であっても涼しげな風と、少しきつい日差しは木々が遮ってくれている。
それでもいくつかの別荘を目撃して更に奥を、つまり山へと入っていくと人間の手が入っていないだろう場所へと辿りついた。
柔らかな鳥の声は聞こえなくなったし、風の音は重く厚い葉を動かしてどこか低く聞こえる。
剪定されていない木々は日差しを通さない。
倒木と苔生した岩はなぜか原生の森を思わせた。
「よけて」
足元を下草が覆っている。
歩きにくいからイリアはそう口にした。
足を踏み出すたびに、草は自らイリアの踏み場を提供し、目の前の小枝たちはアーチを作ってイリアを通す。
炎や雪、蜃気楼や錬金、そういったイリアにも理解できる現象は科学的に思考を纏めれば魔力を代償に簡単に成る。
それでもイリアに出来ないことは色々とあった。
ニール達はイリアに出来ないことはないと思っている節があったが、イリア自身は出来ることより出来ないことの方が多いことを身を持って知っていた。
もし何でも出来るように見えていたというのなら、手持ちの札で、それをどう実現するかを良く知っていただけのこと。
星、と呟けないのなら、夜空の無数の小さな光、と表現すればいい、そういう話だ。
だが、それも少し前までの話。
ある時気付いた。
こうであればいいのに、と。
自分では生み出せない事象を願った。
事象は、いつもより多くの魔力を勝手に吸い取って行って、それでも成った。
唖然とした。
今まではどう足掻いてもできなかった事が、突然叶えられたのだから驚くなと言う方が無理な話だ。
何がどうなって、願いが叶えられたのか、イリアはいまだにわからない。
幾度も実験を繰り返して、効率のいいやり方だけは手に入れた。
漫然と願うより、思い描いて願った方がいい。
魔力も、現象も、ずっと少なく多くの成果を得られる。
何に、と言われたら少し言葉にするには憚られることに、自分たちでその存在を捏造した精霊たちに、だ。
イリアはこう考えている。
想像力の足りない自分が、願いに指向性を持たせるために、精霊と言う想像上の存在は都合がよかったに違いない、と。
皆で形作った精霊は各属性、各役割を持っている。
ぼんやりとここに穴があればと願うよりも、土の精霊に、足元に穴を掘るようにと願う方がずっと集約されているではないか。
そういう意味で、イリアはほんのおとぎ話程度に作った精霊を、今では意味があったものと思うようになった。
今まで形作った精霊たちを具体的に思い浮かべれば浮かべるほど、簡単に事象は成る。
土の精霊王に森に道を作ってくれるように願えば、草も木も、イリアの行く先を邪魔しない。
理解できることは枷なく成り、理解できないことすら願えば成る。
世界の理が書き換えられていることに、イリアは気付かない。
誰がそれを成したのかを、知ることもない。
イリアが理解しているのは、何が出来て、何が出来ないのか、それだけ。
故にイリアは苦も無く森を歩く。
歩くのに疲れたからふと恋しくなった空を見上げて、当たり前のように思考した。
重力を解き放ち、磁力の反発を得て、風の力を操り、空を上る。
言葉などいらない。
魔力と思考と願い、それだけが必要なものだからだ。
スピード狂ではないから、飛んだりはしなかった。
高度もいらない。
「すてき、空の散歩も洒落てるわ」
前世では夢のような事象を実現して、イリアは少しだけはしゃいだ。
地面を歩くように空を歩く。
「でも、さすがにお腹が減ったわね」
森を眼下に、そろそろ昼食にしようと休憩に適した場所を空から探した。
山の中腹に大きくはない湖が見える。
その周りは木々が少なかった。
「うん、あそこにしましょう」
ふわりふわりと階段を下りるように近づいて、イリアは湖畔の岩に腰を落ち着けた。
少し足を踏み入れれば自分の居場所さえ見失いそうな森。
この深そうな湖はきっと別荘地帯の無数の湖に繋がっているに違いない。
別荘前の青く澄んだ水とは違って、どこかねっとりと深い水源は不気味さを醸し出していた。
それでもこの森に住む動物たちにとっては命を繋ぐ水であるのだろう、イリアが休んでいる間にも憩いを求めて様々な生物が姿を見せた。
ウサギのように耳の長い小動物、しかしその爪は随分と鋭いようだ。
ネズミのような 齧歯目、だが随分と大きい。
可憐な声の鳥類、にしては獲物の狩り方が嘴で一突き、というのはどうなのだろう。
なるほど、時折訪ねる村で小さな、魔物と呼ばれる生き物の被害を見たことがあったが、つまりその正体はこういったモノなのだろう。
これが弱肉強食の上で進化した結果なのか、本当に湧いて出た魔物なのかはわからないが、イリアは生まれて初めて遭遇した生き物に感激すらしていた。
そんなのんびりとした空気を終わらせたのは唐突な異変。
ぴくりとウサギモドキの耳が背後に向いた。
ネズミモドキが森の奥に警戒を露わに毛を逆立てた。
つまりはイリアの座っている岩の正面を。
コエダケトリモドキが飛び立った時に、大きな音が山の上から聞こえた。
何の音かと驚いているとめきめきと木が倒れるのが見える。
「…なに?」
眉を顰めて、続けて響く音に目をやる。
木が倒れていく。
まるで巨大な何者かが木々を押し倒して進んでいるかのような。
思考している間に、遠い場所で起こっていると思っていた異変は進路を変えた。
危機感が麻痺していたのだと言い訳をしたい。
今までも、前世ですら命の危険を感じたことなどなかったのだから、それを察知する器官は退化して久しい。
とても現実感が薄くて、焦りも、防衛本能も働かず、本来なら誰にも傷つけられない鉄壁の防御も、最強の力も揮われなかった。
宝の持ち腐れと言うのだろう。
気付いた時には、目の前の木々を押し倒して現れた、黒い、大きな生き物の影がイリアを覆っていた。
だがイリアが見ていたのは黒い生き物ではなかった。
その生き物に跳ね飛ばされるようにイリアの目の前に落ちてきたもの。
「……え」
空中で一回転して器用に姿勢を変え、着地した地面を削りながら勢いを殺して、イリアの目の前で止まったのは人間の男だった。
呆気にとられて漏らしたイリアの声に驚いたのはその男も同様。
「は?」
緊張感を孕んだ空気を破るように発せられた、間抜けな男の声が彼の戸惑いを如実に示していた。
目線が合って、男の目が現状を認識する。
とてもわかりやすい目だと、イリアはのんびりと思った。
「何だと!?」
と叫んだ男の行動は称賛に値するものだったはずだ。
イリアが何をどうしたかわからないまま、気付いた時には場所を移動していた。
男が抱えて飛び退ったのだろう、とはイリアの理解できる範疇での推測だった。
男はイリアを見てはいない。
視線を追えば巨大な影。
イリアが座っていた岩は見事に形を無くしていた。
「なぜこんな所に子供が!」
答えを期待していない愚痴か不満だと理解して、イリアは大人しく無言を貫く。
「クソったれ!こっちだ化け物、付いて来い!」
多分、イリアから遠ざけるため、安全を確保するために、黒い生き物を挑発しながら男は湖の向こう側に回り込む。
男は無精髭を生やしているが、声の張りとしなやかな体つきから察するに精々青年といったところか。
精悍な顔立ちの、短髪が似合う男前だ。
周りが年下ばかりだったイリアの目にはとても大人に見えた。
黒い巨大な影は、ここまで離れてやっとその全容を認識できる。
大きさは二階建ての建物ほどもあるだろうか。
黒いのは艶やかな毛並みのせいだ。
形は、バイソンに似ている。
鋭い角が攻撃手段なのだろう、頭を低くして突進姿勢を見せていた。
「おい!化け物、そっちじゃない、俺だ、こっちを見ろ!」
残念なことに化け物に男の声は届いてはいないようだった。
「ち!」
長い剣を二本、両手に持って駆ける。
勢いのまま地面を蹴り、飛び上がったその跳躍力にイリアは異世界の真骨頂を見た気がする。
二階ほどもあるバイソンモドキの頭上まで飛び上がるのだから、この世界の人間は作りが違うのだろう。
自分も体はこの世界の人間だから、鍛えれば出来るのかとも頭の端で思ったが、出来る気は欠片もしなかった。
落下速度と、打ち下ろす剣の重さを持ってしても、バイソンモドキの硬い毛は刃を通さないらしい。
打撃音がして、弾かれたように地面に下りる姿は悔しそうだ。
「…埒が明かん!」
何となく想像できた。
突進攻撃を避ける男と、男の攻撃を通さないバイソンモドキ。
互いに決め手を欠いて、一進一退でここまで戦いながらやってきたのだろう。
そしてここにきて新たに現れた獲物に、バイソンモドキは夢中になった。
男の攻撃に見向きもせずに、バイソンモドキがイリアを赤い目で捉えて離さない。
どこを気に入ったのか。
弱そうだからか。
まあ、実際にそうだろう。
あの体に跳ね飛ばされて生きていられるとは思えない。
「化け物、どうした!お前の相手は俺だ!」
必死にバイソンモドキの意識を自分に向けようと奮闘している男をいい人だなと思いながら、バイソンモドキが勢いをつけて自分に向け飛び出してきたのをイリアは見ていた。
声が出ないのだ。
恐怖を感じているのだろうか。
死ぬときは走馬灯を見ると言うが、何も浮かばない。
「…、…!」
男の声が遠くから聞こえたが、何を言っているのかは認識は出来なかった。
全てがスローモーションになって、時間が引き伸ばされ、バイソンモドキの毛の一本一本まで、イリアには見えていた。
突然割り込んできた影がバイソンモドキの進路を逸らすまで。
イリアは目を見開く。
銀色の、美しい獣が血を振りまいて、イリアの頬を濡らし、引き伸ばされていた時間は騒音と共に戻ってきた。
「グオオオオオオオオオ!」
バイソンモドキの苦痛と怒りの声。
その首元にはパックリと開いた傷口があった。
体当たるようにバイソンモドキの進路を逸らし、ついでとばかりにその横首を引き裂いて行った、銀色というよりは灰色だった獣はイリアの前に落ちてきた。
鋭い爪がきっとバイソンモドキを傷つけ、鋭い角が灰色の獣を引き裂いたのだろう。
バイソンモドキが痛みで呻いていた顔をこちらに向ける。
「落ち着け」
イリアは自分に言い聞かせながら二度、深呼吸した。
腕の中の獣の鼓動に合わせるように、縮こまっていた魔力を解放する。
思考するだけで現れるはずの現象は、瞬く間に切り替わる頭の中を象徴するように混沌として形にはならない。
だから声を出す。
か細く、掠れる喉から、絞り出すように音にする。
「氷の刃」
音に従って、空中に浮かぶ鋭い氷が現れた。
一つ、二つ、三つ。
無数の、美しく光を弾く、凶器。
イリアは敵を睨み、その手を振るう。
「…貫け!」
力ある言葉が、命令を伝える。
それは敵と定められた者にとっては、慈悲なく逆らい様のない運命を告げられたことと同じ。
「グオオオオオ、オオオオオオ!」
運命に逆らうように、攻撃姿勢を見せたが、そこまで。
灰色の獣が裂いた傷口を目指し、氷の刃は重い音を響かせて突き刺さった。
容赦なく、敵の首を貫通した凶器は役目を終えて、敵が地面に倒れるのを待ってから中空に消えていく。
血の匂いがした。
イリアは胸を叩かれているかのように激しく暴れる心臓を宥めるように手を当てる。
「…びっくりした」
アドレナリンが大放出されているに違いない。
耳にまで血管を流れる血流の音が聞こえて、うるさいことこの上ない。
「死ぬかと思った」
正直な感想が漏れた。
「おい、お嬢」
呼ばれてはっと我に返る。
声の主は先ほどの男だろう。
「俺は、あいつを、倒せたか?」
腕の中を見下ろす。
灰色の獣はいなかった。
「お前さんは、無事か?」
引き裂かれた脇腹と、深く抉れた右腕を持つ、満身創痍の男がいた。
「…無事です、ありがとう」
「そりゃ、よかった」
「傷、手当しないと」
急速に暴れていた心臓が大人しくなって、イリアはあまり言葉が声にならなくなった。
「ああ、そうだな…」
男は自分の傷の程度が理解できているようで、苦笑を漏らす。
「助かっても、冒険者はもう無理か」
この腕では使い物にならないだろう。
「残念だ…」
「ごめんなさい」
「いや、お嬢のせいじゃぁない。実力不足だっただけだ、気にするな」
男は目を閉じた。
血が流れ過ぎて、意識を保てなかったのだろう。
弱くなっていく心臓の音を手の平に感じながら、イリアは強く目を瞑った。
「イリア、しっかりして」
命の恩人を死なせるわけにいかない。
恩は返さなければ。
罪の意識に苛まれるのは自分だという身勝手な思いがイリアの背を押す。
そして、前世ならいざ知らず、今のイリアには出来るはずなのだ。
神の御業すら、この手に。
深呼吸。
手の平に集めるのは魔力。
男の体を覆いつくして自分の一部と認識する。
始めにやること。
「止まれ」
流れ出る血に命じる。
液体は流れるもの。
だから水属性の魔術。
菌が怖い。
浄化、洗浄。
光と、水。
治癒、活性。
土と光。
骨、筋肉、血管、神経。
水分・たんぱく質・脂質・ミネラル。
わからない。
人体の組成など、比率など、覚えているわけがない。
ほろほろと形にならず崩れていく魔力が男の命そのもの。
情けなさに滲む視界を叱咤する。
「泣くな、イリア」
今までだって出来ないことは多くあった。
けれどどうにかしてきたじゃないか。
遠回りでも、偽物でも、手札を繋ぎ合わせて、やりたかったことに近づけてきた。
そう。
そうだ。
わからないなら、模倣すればいい。
目の前に、その人はいるのだから。
複製を。
同じものを、同じようにつくればいい。
内容を知らずとも、出来るはず。
深い傷を手で探る。
「ぐっ!」
意識のない男が痛みに呻いた。
「……う」
傷口に手を入れる感覚に沸き起こる生理的嫌悪をねじ伏せて、イリアは手に触れたものを片っ端から複製した。
組織をコピーして、治癒力に乗せる。
思わず呻くように声が漏れた。
「…っ、う、あ」
複製を作る際に読み取る情報の多さに脳が焼き切れるような気がした。
無理だ。
受け止めていたら廃人になる。
「は、…は」
荒い息が負担を物語る。
処理しきれないなら、処理などしなければいい。
この情報をすべて受け止められる器があるのなら、最初から複製などと言う手段に頼っていない。
脳は、ただ情報が通り抜けていくだけの道。
そう思い込む。
情報に手を伸ばしてはいけない。
あるのは治癒を働きかける知識と、素体の複製を命じる意志と、それを実現するための力と、それが形を得るための道。
全てを自分の体一つに収めて少女は長いまつ毛を揺らした。
ぼたぼたと額を流れる汗が邪魔にならないように風を自分に送る。
手元が暗いから光源を一つ。
あらゆる現象はその手の中に。
腕はなるべくくっつける様に置いて、足りない部分を伸ばす。
傷口から傷口まで、骨が形作られ、血管が伸び、神経が通り、筋肉が覆っていく様は吐き気を催すほどに醜悪だった。
だからどうした。
目の前の光景に挑むような目を向ける。
イリアはその神経、血管、一本一本を成長させて繋げ、馴染ませることに必死で、食いしばった口から洩れるものは荒い息以外にはない。
やがて、男の鼓動は少しずつ不規則さを潜めていった。
すでに血は決壊場所を見失い、あるべき場所を巡る旅に戻っている。
起きる気配はないけれど、男の呼吸は落ち着いていた。
容体が急変しない限り、危険は乗り越えたと思っても構わないだろう。
最後に皮膚を複製して傷を、傷だったところを覆う。
風が止み、途端に落ちてきた汗を拭った。
腕が重い事に気付いて、イリアは深く息を吸う。
「ふぅー……」
長い息を吐いて、やっと力を抜いた。
出来る限りのことはしたはずだ。
ゆっくりと顔を上げたイリアは手元を照らしていた光源の明るさに少し面食らう。
「…あれ?」
周囲はすでに薄暗く、夜の帳を下ろし始めていた。
となれば、体感的には一時間と言ったところが、5、6時間を経過していたという事。
思わず立ち上がろうとして、イリアは眩暈に阻まれて腰を元の場所に落ち着ける。
「さすがに、限界…」
あれだけの魔力と集中力を使い続けたのだ、いかなイリアと言えども体力と精神力が悲鳴を上げていた。
もう、何もかも明日でいいだろう。
「結界」
命の恩人と自分とを覆って、イリアは泥に沈むように急速に意識を手放した。
人々が「イリアたちの精霊」に祈れば祈るほど、出来ることは増えていくわけです。




