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イリアの世界  作者: 一集
第一章
12/75

EX.ニール・ウル・エンドレシア

ニールの朝は早い。


特にここ最近は小一時間ほど早くなった。

夏が近いせいで陽が早くなった、というのは言い訳で、軽く身支度を整えたら一目散に別館へ走る。


本館に住まう人々は人の声に起こされることから始まって、洗顔から着替えまで全てに人の手をかける。

ニールにももちろん使用人と呼ばれる側付がいたが、ほとんどその手の仕事をさせていない。


昔、今となっては遠くにある記憶の中、ニールは平民だった。

平民と言えば聞こえはいいが、実質は平民と呼ぶのもおこがましい、貧しくひもじく惨めな、泥を舐めるような生活。

その冬を乗り越えられる自信がニールにはすでになかった。


でなければ貴族などという胡散臭い者の手など取らない。

それくらいにはニールの心は荒んでいた。


それがどうしたことか、ニールはいま貴族として当たり前にその生活を享受している。


自由と引き換えに得た、飢えることのない、しかし窮屈な生活。

喉元を過ぎてしまった熱さは現実感がなく、昔の生活の方がマシなのではないかと考えたこともある。


自分を守るのはいつだって自分しかいなかった。

当たり前のことだった。

自分で考え、自分で動き、その失敗も成功も自分で甘受した。


けれど貴族という生き物は奇妙な生態を持っていて、敷かれた道をどれだけ美しく歩めるか、という事を価値観としている。


そこに『自由』というものはない。

歪で、不快で、理解できないもの。


ニールにはそういうものだった。


多分、何事もなければそう長くは持たなかったと思う。

路地裏の薄汚いガキが唯一、その心に持っていたのは強烈に自分を自分と肯定する意志だけだったのだから。


この檻を飛び出し殺されたか、あるいは心を殺して『貴族』という生き物に成り下がっていたか。

どちらの未来にしても、そこには『ニール』はいない。


けれどそうはならなかった。

ニールはイリアに出会った。


イリアはニールの知る貴族ではなかった。

確かにイリアは貴族として生まれ、彼女の姉たちと同じように育てられたはずだったが、家族に向ける彼女の目に浮かぶ色はひどくニールと似通っていた。


貴族としての在り方を求められる場所で、イリアは決して笑わない。

泣きもしない。

ただ静かに、何か自分とは別の生き物を観察するかのような冷たい目を向けるだけ。


不気味な娘だと母は言い、家の面汚しだと姉は言い、父は彼女をないものとして扱ったが、そこにある共通の感情は、多分恐れだった。


そして自分の何が彼女の琴線に触れたのか、イリアはその恐れを以ってニールを救いだしてくれた。


溺れないわけがない。


自分だけに向けられる笑顔と、ありったけの愛情。


平民以下の生活の中でも、貴族として迎えられてからも、ニールの短い人生の中で一度も得られたことのないそれ。

寒風の中を歯を食いしばって歩いていた頃、自分とは無縁の暖かな家の中に降り注いでいたもの。

羨ましいと思ったこともないほどに、遠い世界にあったもの。


「ニール、わたしのニール」


星の数ほどキスが降って、生まれてから過ぎた日数より多く抱きしめられて。


「お姉さま」


呼べば飽きずに髪を撫でられて、夜の寒さに怯えれば手足を温めてくれた。

いつも自分を守るように背を丸めてベッドに入っていたニールは、イリアが大丈夫だといつまでも穏やかにその背を叩くからいつの間にか背を伸ばして眠れるようになった。


やってくる悪夢はきっと、イリアを失う夢だったと思うのだ。

飛び起きるたびに姉の姿を求めた。


「お姉さま、イリアお姉さま」


小さな声で、震える声で、怯えながら呼んだ声に、イリアが応えなかった日はない。


「どうしたの?かわいいわたしのニール。大丈夫、わたしが守ってあげるから」


甘やかされつくしたと、当のニールが思うほどイリアはどろどろにニールを溶かしていった。


あの万能の人のことだから、洗脳魔法が使えたって不思議ではないと思うほど、ニールは作り変えられてしまった。


貴族の生活はもはや苦痛ではない。

それが大切なものを守るための盾になるというなら礼儀も身に着けよう、それが武器になるというのなら絶えない笑顔も浮かべよう。


少し走った程度では息も切れない優秀な体で、別館の扉に向かい合う。

ここに朝早くから起き出して扉を開けてくれるような使用人はいない。


すいと目を閉じて、深く吸い込んだ息を細く吐き出し続ける。

ゆっくりと視界に魔力を纏わせて、開いたニールの目に可視化された魔法陣やら結界やら罠やらが浮かび上がる。


友人たちが仕掛けていった魔術だった。

もちろんニールの魔術もそこにはある。


まずは呼吸をするより簡単に馴染む自分の封印。

自分には鍵にもならない魔術に開錠を命じ、次はシリルの仕掛けに取り掛かる。

その次はリィンのものだが、これは合鍵を配られているから問題ない。

メルのは手順が面倒で、セオのは失敗するとシャレにならないので少々の時間をかける。

ランスのは力技が通じるが他に影響するといけないから最後。

最も厄介なのはやはりウィルの多重魔法陣と連動しているグレンの結界だ。


「毎朝、いい訓練だよ、まったく」


溜息を吐きたくなるほどに厳重なこの館には大切なものが守られている。


この国で魔法使いと呼ばれる者が感知すら出来ない魔術を、魔術師と呼ばれるものが見たなら絶句するほどの封印を、これまた気絶しかねない速さで解いてニールは館に踏み込む。


光の差し込んでいない薄暗い廊下はニールを感知して揺れない光を灯していく。


「さて、時間は有効に」


ニールが目指したのは彼の眠り姫の寝所ではなく、遊戯室。

音をたてないように静かに移動するニールはそこにある障害を越えるために緊張を逃がして唇を舐める。


「今日こそステージ20を出現させてやる」


夜はイリアに禁止されたボードゲーム。

ならば朝なら構わないだろうと、こうして早起きに勤しんでいる。


難なく目的地に辿りついて、素早くゲームの起動ボタンを押し、ステージ19を選択する。

皆がここで足止めされているうちに、いつの間にやら後続が追い付いて、攻略は現在だんご状態。


ニールの感覚では本当にあと一歩なのだ。

先んじたいと逸る心に急かされてここ数日は朝から時間が許す限りゲームに没頭している。


配られたコインは戦場が草原であることを確認していつもより多くを騎兵に割く。

もちろん一番多いのは歩兵だが。

それからコストがバカ高い魔法兵を幾人か。

遠距離攻撃の手段を持つ一般的な魔法兵だ。

後方に配置した魔法兵は防御力が紙より薄い、コストに見合った働きをしてもらう前に死んでもらっては困るので、その前には大盾を持った重装備兵を置く。


このボードゲームを始めてからそこそこの時間が経って、個人の特性というものも見えてきた昨今。

ランスとシリルは特攻型。

セオは奇策を好み、グレンは防衛に強い。

ウィルは魔法兵を多用するので対応はしやすいが、ステージによってはそれがハマって手も足も出ないまま全滅させられることもあった。


そしてメルとニールは状況によって多く手を変える。

歩兵を揃え数の有利を生かすことを基本としているニールは読みやすいがその分粘り強い、というのが最近の仲間たちの評価だ。


そんな朝の一戦の準備を終えようとしていた時。


「なーにやってんのかしら、ニール」


開かれた扉にもたれかかって、壁を軽くノックしながら注意を自分に向ける人影。


薄手のストールをネグリジェの上から羽織ってイリアが怒った顔でそこに立っていた。


「ね、姉さん」

「おはよう、ニール。随分と早起きね」


慌てても遅い。

これは言い訳の余地がなかった。


悄然と項垂れたニールが観念したことに気付いたのか、イリアの顔に苦笑が浮かぶ。


昔々、生まれる前の記憶の中の子どもが、同じことをしていたのを思い出したのだ。

多分親族の従弟かそこらの記憶。

勉強嫌いの寝坊助が、まだ大人が寝ている時間にも関わらず起き出して、クリスマスにもらったゲームソフトを必死に攻略していた。

それなりに大きくなっていたけれど、まだ子供の域だった自分は見なかったことにしてそっと二度寝に戻ったものだ。


「子どもの行動はいつでも同じね」


記憶にあるあの少年よりはずっと大人びた弟もやはり子どもには違いなかった。


呟けばむっとした顔がイリアに向けられる。

もう子どもではないとでも言いたいのだろうか。

その主張を認めるにはまだ時間がかかりそうだとイリアはニールに手を伸ばす。


頬に手が触れる前にすり寄ってくる暖かさ。

無意識にイリアの手に頬を寄せて、心地よさそうに目を眇めるニールを懐いた猫のようだと思った。


親指を伸ばして目の下に触れる。


「寝不足はいいこと何もないのよ?」


嗜めるよりは心配そうな声にニールがはっと目を開ける。


「すみません」


ニールはイリアに勝てない、どうしたって。


「仕方のない子」


柔らかくイリアが微笑めば、じんわりと広がる幸福感。


「明日からはもう少し遅く来なさいな、そうしたら咎めたりしないわ。みんなには内緒よ?」

「…姉さん」


イリアの世界は狭い。

その愛が注がれるのはニールを含めた弟と定めた彼らだけ。


自分でも歪んでいるとニールが思うのはこんな時。

彼らの中で、特別の中で、特別扱いされる時。


普段だって不満があるわけではない。

元から自分がイリアの「特別」であることをニールは十分に自覚していたし、数少ない他の「特別」が自分と同じくイリアの「特別」であることを容認してもいた。


けれど、その特別の中の一番。

それをイリアに示された時、ニールの頭の中は多幸感に支配される。


愛を注がれて広がる暖かさとは違う。

脳内に駆け巡る強い熱量。

死ぬのならこの瞬間がいいと真剣に願うほど、これ以上はない幸福の絶頂。


何が原因だろうとニールは不思議に思う。

これは多分、普通に生きている人間が一生に一度、味わえるかどうかの希少な感覚だという知識はあった。


親の愛を知らないせいか。

他者の幸福を見せつけられ続けたせいか。

人並みの幸せを知らなかったせいか。

飢餓に苦しんだせいか。

溺れほどの愛を、突然注がれたせいか。


あるいはそのどれもが原因なのかもしれない。

何にしても、その感情が正常値を示していないことをニールは自覚している。


生まれ、育ち、今に至る。

そのどこかで、何かが歪み、変質し、異常を来したのだろう。


こんな感情を幾度となく味わって、普通の人間が耐えられるとは思えない。

繰り返し、それを感じたいと、飢餓を深くしていくばかりのやっかいな感情。


異常を自覚しながら、ニールは冷静さを同居させていた。


目の前のイリアを見つめながら、多分彼女のせいで、そして彼女のおかげなのだろうと思う。

飢餓に狂う前に、与えられるからマトモでいられる。

あるいはその状況がすでにマトモではない気もするけれど。


イリアがいない世界で自分が生きていられるとは到底思えなかった。


「ニール、聞いている?」

「聞いてますよ、姉さん」


もちろん大切な姉にそんなことはおくびにも出さない。


優しい姉のことだから、自分はどこかがおかしいと告白したなら真剣に考えて、解決法を探してくれることだろう。

あるいはそんなことはないと慰めてくれるかもしれない。

そんな自分ごと愛してもくれるだろう。


けれど伝えない。

異常な幸福値を叩き出す歪みと、正常を司る知識から導き出される答えは両方とも、それが秘匿されるべきものであると結論している。


「だから試練を与えるわ。乗り越えられたら存分に遊んでちょうだい」

「ええと、つまりどういった?」

「わたしも封印を一つ作るから、それを解いてね」


封印と言えば別館に幾重にも重ねられているあの魔術。

毎朝それなりに苦労して開けているあれのことだろうか。


「そう、そこに一つ付け加えておくわ。わたしの魔術を」


もちろん毎日違うものを張り直しておくつもりだとイリアは楽しそうに言った。

どうやらみんなでワイワイと騒ぎながら作った封印の共同作業が羨ましかった模様。


「…姉さんに本気出されると攻略の手がかりすら掴める気がしないのですが」

「それじゃ、簡単なものにしておく」


それはそれで悔しい気もする。


「最近、ニールったらゲームにばかりかまけて」


魔術の方が疎かだと言いたいのだろう。

イリアもゲームを作っているときは、他に見向きもしなかったではないか、とは言わないでおく。

少々自分勝手な所も、愛すべきニールの姉の姿だ。


「たまにはわたしにも構ってね」


悪戯そうに笑う姉に面食らう。

ニールの驚いた顔に、してやったりとイリアが小さく笑った。


彼女は知らないだろう、今、ニールの中に駆け巡った感情を。


「…仰せのままに」


ゆるりと笑ってニールは慇懃に腰を折った。


もうずっと。

出会ってから。

溺れるほどの愛に、今も自分は溺れているのだろうな、と。


弟の教育に失敗している姉&教育の失敗を悟られたくない弟。


&本編が進まず番外ばかり増えて困ってる私。

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