EX.ティナと闇の精霊
ティナはごく普通の娘だった。
どこにでもいる名前で、どこにでもいる容姿で、どこにでもあるような村に生まれた。
毎日日の出と共に起きて、大人たちを手伝って、くたくたになるまで働いて、そして倒れるように眠る。
不満に思ったことはない。
この村が他に比べて貧しいという事はなかったし、自由な時間が時折持てるほどには恵まれていた。
同世代の子ども多く、遊び相手には困らなかったし、家族は厳しくも暖かかった。
食事の前や、森に踏み入るときに口に出る精霊への祈りは癖のようなもので、当たり前にある習慣の一つ。
少しだけ変わっているところがあるとするならば。
ティナの夜は他の子どもたちより少しだけ遅い。
ティナはなぜか寝る前にも精霊に祈るからだ。
理由はないように思う。
いつの間にか自分に出来ていた習慣だ。
気付いた時にはそうしていたし、気付いてからは欠かしたことがない。
窓から見え隠れする星や月を美しいと思う。
夜に怯える幼馴染はティナをすごいと褒めるけれど、ティナは闇を怖いとは思えなかった。
それを疑問に思うべきだったのだ。
誰が、何が、自分をそう足らしめているのか。
であれば、悲劇は回避できたのかもしれない。
今も、ティナは祈る。
悲劇を繰り返し思い出して、後悔に胸を締め付けられる。
あれはティナが七つの頃。
この村は他に比べて少し特別だった。
一年に一度、訪れる方がいる。
黒髪の少女と、幾人かの少年。
ティナは心の中でずっとお姫様と王子様と呼んでいた彼らは貴族という特別な身分を持つ人。
少女は穏やかな人で、強く逞しい村の女性ばかりを見ているティナからすれば不安に駆られるほどに嫋やかな人物だった。
物語に出てくるお姫様みたいで、ティナは憧れをもっていつも彼女を眺めていた。
彼女にはいつもそばに少年たちが付き添っている。
目線が合えば頬が勝手に上気してしまうような紅顔の少年たち。
村の悪戯ばかりの幼馴染とは別の生き物なのではないかと疑うほど、物語から抜け出してきたような眩しさを持っていた。
彼らはティナにとって、近づきたいとすら思えない別世界の人間。
そして村にとっても彼らは大切な客人だった。
ティナより少々年上の、けれどまだ子供と言われる年の彼らがなぜ特別なのか。
そこには秘密がある。
ティナも大人たちに口を酸っぱく言い聞かされていることだが、言われなくてもわかるくらいにはティナも分別を得ていた。
貴族が祈るのは神。
人々が奉るのは精霊。
彼らは貴族だったけれど、多分、とても自分たちに近いのだ。
その圧倒的な魔力をもとに、精霊と言葉を交わすことが出来る彼らは貴族としては異端。
あるいは失格。
危険を冒して村に精霊を呼んでくれる彼らに感謝の念があるのなら、それは誰にも知られてはいけない秘密。
精霊に愛された者。
グルン・ルグリート、と大人たちは彼らを称する。
誰もが寝物語に母から聞いたお話の一つ。
昔、精霊と人々が心離れて互いに背を向けて歩き出した時代に、精霊たちに寄り添った人間のこと。
だから今も精霊たちは時折人間に愛を注いでくれるのだと物語は締めくくられる。
彼ら精霊を愛した者たちの努力空しく、もう人々は精霊の姿を忘れるほどに彼らと乖離してしまった。
その姿を視ることが叶わないほどに。
彼らの力を借りる術を忘れるほどに。
けれど奇跡は起きた。
グルン・ルグリートは皮肉なことに、精霊を捨てた貴族の中に生まれたのだ。
そうして彼らは時折村々を訪れて祈る。
精霊に。
その姿を見せてくれと。
彼らを視る目を失ってしまった人々に奇跡を。
彼らは、この村には一年に一度、決まった日に訪れる。
もう幾度目かを数えたその年には、精霊への敬愛は誰もの心に強く宿っていたように思う。
精霊の愛するシルビアの花は大事に育てられて村中を覆っていたし、何かを成すときには無意識に祈りを口ずさむくらいには強く。
初めてこの村を彼らが訪れた頃、ティナはまだ記憶に留められるほど大きくはなった。
だからいつ決まったのかは定かでない。
けれどいつの間にか、儀式のように通例になっていた。
この村に生まれ育った子供たちは七つの年に、一年に一度訪れる精霊様にお目通り願うのだ。
彼らはそっと教えてくれる、どんな精霊に一番その子供が愛されているのかを。
その時だけ可視化される周りの精霊たちは毎年感嘆を漏らすほどに美しい光景を見せてくれた。
無数の光は瞬きを繰り返して子供の周りを巡る。
あるいは加護、と呼ばれるほどに強く愛された者もまれにいた。
たった一つの、その命をかけて寄り添ってくれる精霊を得るほどに愛された者。
それはトカゲの形をした炎だったり、光の球体だったり、スライム姿の水精霊だったり。
そのただ一度だけ見ることの出来る、自分だけに祝福を注ぐ精霊。
加護を持つと知った彼らは自然と精霊と共に生きるようになる。
見えない精霊に、今まで注がれた以上の愛を注ぐ。
ティナには、加護を持った彼らは儀式の日から唐突に大人になったように見えていた。
自信と余裕がその心を満たし、人々の、それとして見る目が彼らをそうさせたのだと、イリアなら答えただろう。
気まぐれに、残酷に、戯れに、意図なく、それと知らずに人の運命を決める彼女なら。
ティナはその日を待ちわびていた。
日に日に近づいてくるその儀式。
胸が飛び跳ねて規則正しい音を刻まないから眠くもならない。
同じ年に生まれた幼馴染たちはみな、似たようなものだった。
どんな精霊に好かれているのか、あるいは加護を持っていたら。
想像は止まらない。
話は巡り、同じ言葉を幾度も繰り返すけど、多分誰も気にしてはいなかった。
話題など、たった一つ。
加護を持っていたらどうしよう、どうせなら火の精霊に好かれていたい、自分は光の精霊がいい。
そんな話に加わって、ティナの想像する未来はきらめいていた。
運命の日。
彼らは違わずにやってきた。
精霊王様にすら言葉を届けられる彼ら、希代のグルン・ルグリート。
尊敬の念を込めて村人たちは彼らを歓迎する。
ゆっくりと日は落ちて、夜のかがり火。
飲めや歌えやの祭りが前座。
日の入りが就寝の時間である子供たちもこの日ばかりは起きていることが許された。
やがて完全に夜の帳が落ちたころ、黒髪の少女が約束を果たすと口にすれば村人は静まり返る。
そして毎年繰り返す口上を述べた。
精霊が見えるただ一度の機会。
故に口にしてはならぬ。
神の名と、神への祈りと、自己の欲望と、支配への渇望と、精霊への拒絶を。
染み入るようにその声が耳に届いたのを見届けると、少女が少年たちに目を向け、それを合図に夜が柔らかく緩む。
圧倒的な存在感がどこからともなく滲み出す。
目を向けなくても、なにか、自分たちとは違う、高位の存在が降りてきたのだとわかる。
視界に入れていいのかさえ分からなくなる神性。
精霊王の顕現。
人々はゆっくりと頭を垂れた。
もちろんティナも、両親の隣で審判を待つかのように神妙に。
『久しい空気だ』
頭の中に声が、いや思念がねじり込まれる。
『顔を上げよ』
恐る恐る従えば、光の精霊王がそこにはいた。
久しいと、口にするはずだ。
何年か前に一度、どこかの村で姿を現したきり、一度もその噂を聞いたことがない。
男とも女とも見える美しい姿。
『我が身を目にしたことを、僥倖と知るがいい』
不敵に笑んだ王はそれでも務めを果たす気があるようだった。
グルン・ルグリートの少女が前に出ておいでとティナたちに呼びかける。
心臓が口から飛び出そうなほどに跳ねた。
今年七つの年を数える子供は五人。
ここ10年で最も多産の年だったという。
みんなでこの日を待ちわびて、色々な話をした。
腕白少年は火か風の精霊がいいと言っていたし、ティナと違って人見知り気味の少女は水の精霊がそばにいてくれたら嬉しいと控えめに語っていた。
ティナに希望はなかった。
みなと同じように楽しみにしていたし、わくわくと未来に思いを馳せた。
けれど不思議と彼らの言葉には同意しなかった。
だからだろうか、五人の幼馴染の、一番最後にティナは並んで友人たちに告げられる光の王の言葉を聞いていた。
希望通りとはいかず、火か風の精霊を望んでいた少年は光の精霊を身に纏わりつかせていたし、人見知りの妹のような少女は土の精霊の加護を得ていた。
けれどそのどれもが喜びに満ち溢れている。
特に、今年は加護を得ている者がいる。
村人たちにとってはもうそれだけで騒ぐ理由になる。
この時だけ見えるもぐらの様な姿をした土の精霊は少女の足元を離れず、そのつぶらな瞳で祝福を注いできた人間の成長を喜んでいた。
恙なく順番は巡り、最後のティナの番が来た時に光の王がその動きを一瞬だけ止めた。
『おや、これは珍しい』
その意味が分からず、ティナは首を傾げる。
目の前を何かが横切った。
無意識に目でそれを追いかけると淡く紫色に光る小さな存在がティナの周りをぐるぐると飛んでいた。
見たことのない色だとティナがぼんやりと思い、そして村人が不安に揺れる。
その動揺が伝播して、ティナは思わず光から目を離して村人たちを見た。
視線が外れるのを嫌がるかのように、紫色の光がティナの視界を追いかけて、目の前にとまる。
紫の光の正体は妖精のような姿をした、二対の羽を持つ小さな小さな女の子だった。
光の精霊王が言った。
『闇の精霊とは珍しい。強い加護であるな』
息を飲む音は村人のものだったのか。
ひどくゆっくりとティナは人々の驚愕に彩られる表情を見ていた。
両親が青ざめ、妹のように接していた少女はティナから逃げるように後退った。
それらをすべて見てから、ティナはやっと何が起きたのかを理解する。
闇の、精霊。
魔物を呼ぶ、忌まわしき精霊。
そして目の前で微笑んでいる闇の精霊を払いのけるように手を振り、言った。
生理的嫌悪が、反射を呼び起こして、ティナはそれに従ってしまった。
「いや!」
なぜ、どうして。
聞いてない。
何でもよかったのに。
どんな精霊でも。
だって、闇の精霊が『存在する』なんて聞いてない。
グルン・ルグリートが小さく「あ」と声を漏らした。
その意味。
闇の精霊は二度だけ瞬いて、消えた。
「え?……、…え?」
ティナには何一つ理解ができなかった。
何かが体から抜けていく。
何も欠けるもののないはずの、十全な体から、それでも確かに何かが失われた。
『…拒絶か、それもまた選択故に責めはせぬ』
光の精霊王の平坦な声。
足が震えて立っていられない。
へなへなと萎えるのにしたがってぺたりと地面に尻をついた。
何が起きたのか。
村人たちにもわからない。
ティナだけは本能で悟っていた。
空間の隙間から悲しそうな声が聞こえる。
『ああ、だから言ったのに。姿を見せるなと』
風の精霊王が降り立つ。
ティナにはどうでもよかった、それどころではなかった。
「なにが、なにが」
まとまらない考えが口から零れる。
ふらふらと揺れる視界に黒髪の少女が映った。
悲痛そうな顔の、グルン・ルグリート。
グルン・ルグリートはなぜ、飽きもせずに禁止事項を毎回口にしていたのか。
ならぬ、ならぬ。
口にしてはならぬ。
神への言葉、あさましい願い。
そして。
『拒絶は成った。人の子の願いは成就された』
ぽたりぽたりと雫を落としながら優美なる水の精霊王が闇の中から現れる。
『人の子よ、お前に罪はない。「あれ」は覚悟の上だった、気にするな』
土が人の形をとってそう慰めた。
『だが、どうか知っておいておくれ。「あれ」がそなたをどれほどいとおしんでいたか』
グルン・ルグリートの少女が精霊王の言葉を引き継ぐように問いかけた。
「あなたは、闇に怯えたことがある?」
「………、……いいえ、…いいえ」
がくがくと、震える唇が自分のものではないように、答えた。
ないのです、あたしには、ただの一度も。
夜が怖かったことも、闇を恐れることも。
その事実が、何かを指し示す。
震えは全身に広がって、ティナは両手を口に添える。
取り返しのつかない言葉を吐いた口を、今さら抑える。
友達の家から帰るのが遅くなった日も、夜に水を汲みにいかなければならなくなった時も、ティナは鼻歌すら歌えるほどにその足取り軽く、闇に足を取られることも、道に迷うことすらなかった。
友達はティナを勇気のあるやつだと褒めて、大人はその危機感のなさに危惧を抱いた。
勇気と無謀をはき違えてはいけないという忠告がティナに響くことはない。
だって、それは無謀ではなく、勇気ですらなく。
困ったように眉を下げたグルン・ルグリートの少女がもう一つの真実を口にする。
「この村には、魔物の被害がどれほどあるの?」
ああ、そうだ。
少ない。
他の村に比べて、簡易な柵しかないこの村に、魔物が現れることはあまりない。
どうして、と誰も疑問には思わなかった。
平穏は日常で、ありふれていて、それは当たり前で。
精霊王がねじり込んでくる記憶。
小さな闇の精霊がはしゃいでいた。
「精霊王さま、とてもかわいい子を見つけたのです。わたしを見ても怯えない、それどころか笑いかけてくれる子です」
人間でも、小さな生まれたばかりの透明な目には、見えないもののかわりに見えるものもある。
人間は闇を恐れる。
小さな子供ですら本能的に闇を避けるから、闇の精霊はとても孤独。
闇の精霊にとってその子供は特別だった。
くるくると目の前を飛び回れば嬉しそうにきゃっきゃと声を上げて笑い、その姿を求めて手を伸ばしてくれる。
ああ、あれはきっとあたし。
精霊と無邪気に遊んでいた赤ん坊のころの、何も知らない、けれどそれ故に純粋なあたし。
飽きずに、闇の精霊は子供のそばでその寝顔を眺め続けた。
「加護を、与えたいのです。」
ぎこちなく、笑う闇の精霊が覚悟を口に乗せる。
精霊王はおやめなさいと言った。
闇が畏れられはじめたのはいつのころからだっただろうか。
最初はこうではなかった。
夜の安寧と、闇の平安を司る、精霊の中でも最も穏やかな気性を持つ闇の精霊は他の精霊たちと同じように愛され、敬われていた。
かわったのは魔物が出現するようになった頃。
魔物たちはみな闇が凝り固まったような姿をして、闇を味方に人々を蹂躙し始めた。
人々にとって闇は忌避するものとなり、太陽のない時間を恐怖するようにすらなった。
闇の精霊に祈りを捧げる者は減り、今はもうどこにもいない。
祈り無くば精霊は生まれない、生きられない。
そうして闇の精霊はもう、ほとんど絶えてしまった。
闇の精霊がいなければ闇はただ深く、暗く、重くなるばかり。
魔物は猛威を振るい、やがて闇と魔物は人々の目に同じものとして映る。
魔物とは、闇とは、夜とは、不浄とは、危険とは、災厄とは、つまり闇の精霊である。
「祝福をわたしの愛しいあの子に」
人間から嫌われているとわかっていても、それでも心を傾けてしまう。
けれどそれが闇の精霊だった。
幾度も、何度も、愛を注ぎ、命を注ぎ、それでも報われないのが闇の精霊。
消えていくことを、享受する。
それでも繰り返すのが闇の精霊。
「愛しい子、お眠りなさい。夜はあなたを包むもの。闇はあなたを守るもの」
耳の奥で、声がする。
柔らかな、無償の愛を注ぐ、両親以外のたった一つの存在。
「あ、…あ、あ」
口からはそんな呻く様な言葉しか出てこなかった。
悲痛さを滲ませた声でティナは思う。
闇は恐れるものではなかった。
夜は、穏やかな優しさに満ちていた。
「おぼえて、あたし、おぼえて」
いるのだ。
きっと幸せにしてあげる。
わたしが絶対に守ってあげるから。
その声を。
今さら思い出して。
弱く小さな力で、必死に闇を均し、魔を退け、夜の穏やかなる静謐を守っていた。
「ねえ、ティナ。明日やっと会えるわね。怖いけど、楽しみでもあるわ。あなたともう一度目を合わせられるのなら、それはきっととても素敵な事だから。」
寝静まった夜に、届かないと知りながら語りかけるその声が聞こえていたなら。
守られていたというのに。
知らずに。
あたし、なにもしらずに。
「帰ってきて…」
謝るから。
何度でも謝るから、もう一度共に。
零れた声が聞き届けられないことなど、ティナはとっくに知っていた。
胸の喪失感が、もう埋められないことを如実に突きつけてくる。
でも言わずにはいられなかったのだ。
『人の子よ、そなたらの言葉は「強い」。もはやそなたの望む存在はどこにもない』
「う、あ」
容赦なく突きつけられた事実に喘ぐように息をする。
最初から持っていた加護だから、ないことを知らなかった。
きっと加護を持たない人間はみなこれが当たり前なのだろう。
こんな、さみしく、暗い穴を胸に抱えるような冷たい孤独を抱えて生きているのか。
これから、生きていかなければならないのか。
精霊が姿を現した時、目線を合わせた時、ティナの闇の精霊はとても嬉しそう微笑んだのだ。
ティナの目の前にとまって、緊張と不安で、それでも精一杯ぎこちなく笑ってくれたのに。
拒絶の言葉が刺さるのを見た。
驚いて、でも当たり前のことだと諦めたような顔で、最後に申し訳なさそうにごめんねと音にならない音を残して消えた。
その目の中にあったさみしさを、ティナは目撃していたのだ。
こんな裏切りに、怒りもなく、恨みもなく、もうそばに居られないことを嘆くさみしさを。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
地面に手をついたまま、ティナは泣きながら繰り返した。
優しい精霊だった。
精霊のどこにも、否なんてない。
拒絶される謂れなんてどこにもない。
もし、精霊が消えたなら、それはきっとその人間が愚かだったに違いない。
救いようのないほどに、愚鈍で考えなしな人間。
あたしのこと。
「なんでもします、精霊王様。ティナは何でもします。だからティナの精霊をたすけてください、あたしに返してください」
ありがとうと言わなければならない。
ごめんねと、伝えなければならない。
『残念ながら人の子よ。零れた言葉がなかったことに出来ないのと同じように、時間は巻き戻せぬ。命も生まれれば変質し老いて消えるのが道理。道理とは覆せるものではないのだよ』
「あたしがころした」
闇の精霊は弱い。
人の信仰を持たない彼らは何よりも脆く柔い。
拒絶の言葉一つで消えてしまうほどに。
『人の子よ、そなたに出会う前の「あれ」はもっと小さくもっと弱かった。』
『「あれ」を育てたのはおぬしであろう』
生れても、ほんの瞬きの間に消えてしまう。
息が詰まった。
知らず注いでいた祈りを糧に生きていたという。
『何百年ぶりか、ああも育った闇の精霊を見たのは』
ころころと鈴の音のように王が笑った。
『しかし加護を失った心は人間の身には辛かろう。お前が苦しむのは「あれ」の望むところではない。「あれ」に免じてかわりになんぞ埋めてやろう』
その手がティナの頭に翳された。
柔らかな光だというのに、ティナの全身の毛がぞわりと逆立つ。
「いらない!」
咄嗟に出た言葉。
今度は、確かに自分の意志で。
嘆きはまだある。
喪失感が胸を押し潰そうと迫ってくる。
けれど涙は止まった。
絶望に彩られていた瞳には確かな光。
「ごめんなさい、精霊王様。でも、あの子以外の加護は、あたしいらない。」
『そうであるか』
人間の小娘程度の拒否で、王は痛みを覚えたりしない。
屈辱も、侮辱も感じたりはしない。
『強い娘だ、「あれ」が捧げただけのことはある。』
そう、少し微笑む。
「でも精霊王様、一つ教えてほしいことがあります。」
『我は気分がいい。答えてやろう』
立ち上がって、手を強く握り込む。
「…どうしたら、」
どうしたら償える?
この罪を。
『おぬしにその必要はない。おぬしに罪はない。おぬしに責はない』
「いいえ、どうか、償わせてください。あたしが、そうしたいのです」
王たちは顔を見合せたようだった。
思わぬ援護で口を挟んだのは黒髪の少女。
「王様、わたしからもどうかお願いします。人間は弱いのです。自らが罪と感じた咎を償わずに生きるには心が耐えられない」
『ふむ、グルン・ルグリートの乙女よ、そなたが言うことならばそれが人間の真実であろう。難儀な生き物であるな、人とは。』
呟きは精霊と人との隔たりを示していた。
光の王が一つ前に進み出て、ティナに厳かに告げる。
『では人の娘よ、罪なき罪を背負うものよ。そなたには祈りを所望しようぞ』
「祈り?」
『毎日、絶やすことのない祈りを』
『忘れ得ぬ痛みと共に』
王が暗い空を仰いだ。
『さすればいつかまた、どこかで「あれ」も生まれいずるやもしれん』
驚きにティナの目が見開かれた。
祈りが、命を生むという。
ティナにとってそれは希望の言葉だった。
叫ぶように誓う。
「祈ります!あたし、きっと」
毎日、強く。
朝起きて祈り、食事を前に祈り、鍬を振るうたびに祈り、空を見上げて祈り、緑萌えることを祈り、水の流れを祈り、火の暖かさを祈り、夜を祈ろう。
月の光に感謝を、闇無くば生きられぬこの身に喜びを。
精霊に愛を。
どれだけの祈りが必要になるかティナは知らない。
そして祈りが形を作ったとしても、それはきっとティナの知るティナの精霊とは違うものだろう。
それでも。
「世界が闇の精霊であふれるくらいに!誰もが闇に怯えないくらいに!祈り続けます!」
いつか、ティナの祈りが闇の精霊を生んで。
闇の精霊が誰かを愛し、この悲劇を繰り返さぬように。
「あたし伝えます。闇の精霊がどれだけ世界を支えているのかを。人が夜の闇を知らずに生きられないことを。彼らがあたしたちをたくさん愛していることを」
怖がらなくてもいいんだと、闇の精霊の優しさを伝えたい。
小さな自分の祈りを、いつか誰もが同じように祈ってくれたなら。
ティナは思った。
生まれた意味を。
この悲劇の意味を知った。
悲しい、さみしい、苦しい、つらい、痛い。
心を裂くこの感情はきっといくら祈っても消えはしない。
けれど、ティナは一生祈ることをやめないだろう。
無駄にはしない。
無駄ではない。
人の愚かさと、失う痛みとを知る自分だから、自分だけが出来ることがある。
そのための試練だったというのなら、きっと成し遂げて見せる。
奇跡は遥か遠く。
成すべきことも多く。
けれどその果てに、ティナは夢を見る。
いつかまた、あの愛と出会える日を。
グルン・アリアルート。
精霊を愛したもの。
精霊信仰において、その名を持つ者は多い。
だが、精霊の加護を持たない人間で、その名を冠するものは長い歴史上でただ三人。
その最初の一人。
ティナ・グルン・アリアルート。
彼女は絶えていた闇の精霊信仰を根気強く広めた第一人者であり、道を見失った多くの人を救った聖者としても知られ、後の世でも最も著名な人物の一人である。
イリアたちが片手間に恐ろしいことをしている、という話。
そんな感じで一生が決まってしまった哀れな少女は自分を不幸と思うことがなかったのが救い。
イリアたちの認識としては。
え、精霊を見てほしいって?ああ占いみたいなものね、オッケー!
あれ、女の子が泣いてる!まだ小さいから信じてるんだね。フォローフォロー!
毎日祈りを強制とかかわいそうじゃない?
小さいんだからそのうち飽きるか忘れるさー!




