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イリアの世界  作者: 一集
第一章
1/75

1.姉と弟

伯爵令嬢イリア・エル・エンドレシア。


彼女には両親と二人の姉がいた。

イリアが端的に評するならば、無関心な父と、高飛車な母と、傲慢な長女と、陰湿な次女となる。


父は暗い金髪、母は自分の平凡な暗褐色の髪を嫌っていた。

長女は母に似て前世でも見慣れた茶色の髪で、次女は家族の中で一番明るい金色。

10も離れた長女と3つ上の次女とは最初から他人のようだった。


イリアは初めからひどく冷めた子供で、母は早々に敬遠し、使用人たちは遠巻きに彼女の頼みだけを叶える存在になった。


故に、伯爵令嬢でありながら、イリアに与えられた自由は多い。


かつての記憶から、この家族が家族とも言えない歪な血縁関係を形成しているのはわかる。

が、この貴族社会を見るにこの状況は異質なことではないらしい。

前世の常識と今世の常識があまりにも違いすぎてすり合わせが難しいのだ。


絶壁に隔てられた距離は双方に最初から努力を放棄させた。

イリアは近づく気を無くさせる彼らの心をなんとなく想像してみる。

父は権力に、母は贅沢に、長女は他人を従えることに、次女は美に、その価値を見出して心の隙間を埋めているのかもしれない。


そしてイリアはその何ものにも興味を持てず、隙間は晒されたままで、自身の孤独を眺め続けていた。


このばらばらな家族に変化があったのはイリアが7つ頃のこと。

基本男系相続であるこの国で後継ぎが生まれない父がどこぞから息子を連れてきたのだ。


よくある話だ。

ありすぎて話のネタにもならない。


少しだけ耳を傾けたそんな話にイリアはすぐに興味を失った。

母がヒステリックにわめき、長女が乗じて母とそっくりな声で父を責める。

次女は嫌悪をのせた視線を父と息子に放っていた。


耳障りな声と居心地の悪い空間にわざわざ居る意味はない。

イリアは椅子を下りて部屋から出て行った。


彼は、あの肩身の狭そうなあの子は、『なに』でこの孤独を埋めるのか。

ふとそんなことが頭を過ったけれど。


「まあ、いいわ」


どうせ私の孤独を埋めてくれるわけではない。

記憶のせいで深く深く、削れていく心は大分弱り、感情の振り幅を一層狭めていく。

なんだかよくない方向に向かっていることはわかっていたけれど、それを打開する気力はすでにない。


だからそれ以後、本当にそんな些細な出来事のことは忘れていたのだ。


イリアの日常は本人からすれば満足すぎるほどに穏やかだった。

家庭教師のする話はそのほとんどが退屈で、気が向いたときに出向くことはあっても、大抵内容を聞いてはいない。

天気に誘われて庭でのんびりと本を読むこともあれば、庭師と共に土いじりをすることもある。

一番多いのは家の書庫に籠っていることだろうか。


この世界にはあまりにも娯楽が少なく、それを埋める手段は文字を追うことしかなかった。

あまり意識はしていなかったが、多分情報に対しての飢えもあったのだろう。


情報の海で溺れぬ術を、息をするように身に着ける人種だったのだ、かつての自分は。

この世界では自慢の泳ぎを披露するどころか、湛えられた水は浅すぎて地面に足がついてしまう。


そんな中、イリアが夢中になったのは魔法という不可思議な現象だった。

それを教えてくれる家庭教師もいたが、期待を寄せてきいてみた授業はまったく要領を得ず、結局イリアは疑問の答えは自分で探す羽目になった。


あるいはそれがたった一つの心の慰めであったのかもしれない。


「光よ」


照らし出される暗闇を満足そうに見て、魔法という不可思議現象に対するルールを一つ、頭の中に書き加える。

本当に嘘ばかりだ、教師も書物も。


なかなかのものになったと思う魔法も、誰とも縁を持たないイリアの世界で閉じて終わるだけの自己満足。


「闇よ」


しんみりとした時には穏やかな夜を呼んで、目を瞑る。

それで一日は終わりだ。


イリアが兄弟と二度目に顔を合わせたのはふと気が向いて久々に顔を出した家庭教師の授業での話だった。


先客はイリアの姿を見ると、身を縮み込ませて所在無さ気に目線をさ迷わせてから、意を決したように挨拶をくれた。


「初めまして、お姉さま。僕の名前はニール・ウル・エンドレシアです」


はて、誰だったかと頭を捻っていたが、答えをもらって得心がいく。


「イリア・エル・エンドレシアよ」


挨拶には挨拶を。


魔法の詠唱以外で久々に出した気がする声はなんだかむず痒かった。

返したことに満足をしたイリアは大きくはない円卓で彼の隣の椅子に座る。


ここにいるという事は同じ授業を受けるという事であり、多分イリアと年がそう変わらないのだろう。

姉、と呼ばれたのならば彼は弟。

イリアはそれだけを情報として書き込んだ。


イリアには彼に向ける言葉がなく、興味もなく、故に家庭教師が来るまでの時間、二人の間には長い沈黙が下りた。

当然、もぞもぞと居心地が悪そうにしていたのはニールのみ。


授業は相変わらず面白くなかった。

イリアは教材を開くこともせずに、思いついたことを躊躇いなくする。


窓の外を見て、何事かを走り書きをして、うとうとと微睡む。

それを教師は注意もしない。


雇い主から彼女に関して必要量の知識を身に着けさせることができなくとも罰さない、減給しないという言質を、いつだったかあまりにも不真面目な態度に泣きついた時にもらっているのだ。


それを考えると、彼女が授業に参加しない方が負担も減るというもの。

いてもいなくても問題ない人物が目の前のイリアという娘だった。


けれど、教師にとっては最近増えたもう一人の生徒もイリアとは別方面の問題児だった。

いつもおどおどと、答えに詰まる態度は見ていて不愉快ですらある。


大体、自分は難しい授業をしているわけではない。

彼に問いかけるのは教材に答えが載っているものばかりだ。


今まで平民として暮らしてきたせいか、その洗練されていない動作もまた目につく。

なるほど彼にとっては貴族社会は荷が重いだろう。


だがそれでは困る。

彼を立派な次期エンドレシア伯爵として育てる一端を教師は担っているのだ。


先が思いやられると溜息を吐いた時。


イリアが唐突に立ち上がった。


「おや?イリアさま、お帰りですか?」

「ええ」


相も変わらず表情の映らない目を向けてくる。

この目が教師は苦手だった。


この伯爵家に居るものすべてが苦手としていることも知っている。


「ニール、あなたもよ」


イリアは立ち上がった時と同じく唐突に弟の名を呼んだ。

戸惑って動けない弟の腕をつかんで引き上げてみれば、彼は素直に従った。

反抗を知らない子供なのかもしれない。


あるいは誰かにそう教えられたのか。


「イリアさま困ります。ニールさまは将来この家を継ぐのです、勉学を疎かにしてはいけません」

「あなた」


すっと目を細めて教師を見れば、彼は怯んだように続ける言葉を飲み込んだ。


そんな様子にイリアはまた一つ溜息を吐いて首を振った。


「あなたが必要とされるのは、今じゃないわ。当分あなたの仕事はここにはない。父に相談して暇をもらいなさい」

「そんな!」


教師の反論をイリアは聞く耳を持っていなかった。


「イリアさま!」


後ろから聞こえる声はすでに意識の外。

弟を引っ張って、連れてきたのは自室だった。


「座って」

「はい、お姉さま」


ニールにとってこの伯爵家の者の言う事は絶対だったが、唯一の後ろ盾である父がほとんど不在である伯爵家は針の筵のようだった。

この数か月、新しい家族から向けられたのは蔑視と敵意と害意ばかり。

かといって使用人たちが優しい言葉をくれたかと言えば否。

この家を実質支配している夫人に倣うのが道理というもの。


必死で食い繋いできた明日をも知らぬ身としては渡りに船と思った日が遠い昔のように思えた。


甘かったのだ、ニールは。

足りな過ぎたのだ、覚悟が。


ここには自由がない。

ここでは自分がない。

ここはやらなければいけないことと、やってはいけないことしかない。


一度伯爵家の者として迎え入れられた今、出奔は許されまい。

もはやここで生きていくほか、ニールには道がなかった。


以前、こうして新しい母の部屋にお茶と称して部屋に呼ばれたことがあるが、マナーのないニールには手も足も、言葉すら出せずに、ただ過ぎる時間を苦痛に耐えた。

ニールは見定められ、そして侮られた。


もはや母の目には入らず、時に向けられるのは蔑みと嘲笑。


ニールがいなければこの伯爵家を、婿を取って継ぐはずだった長女は多分そこに理由を見つけたのだろう。

彼女の、ニールを見る目は暗い喜びに溢れている。

嗜虐心に歪んだ顔がどれほど醜いものか彼女は気付いているだろうか。


先日、出会い頭に蹴とばされた腹が痛む。

「わたくしの視界に入ることを許した覚えはなくてよ?」

それが一方的な暴力の理由だ。


廊下の端で傷みに呻いていたニールを、汚物でも見たかのような目で眉を顰めて、早足で去って行ったのは次女。

「あそこに転がっているものを早く片してちょうだい」

そう使用人に命令をくれていた。


自分は一体誰だっただろうか。

ぼんやりと最近思う。


悔しさも湧き上がらず、痛みにも涙は出なかった。

軋みを上げるのは体だろうか、心だろうか。


「ニール?」

「あ、はい、すみません。お姉さま」


呼びかけられて反射的に顔を上げると今まで交流のなかった最後の姉が不思議そうにニールを見ていた。


机には姉が広げたのだろう、大きな紙がいくつか広がっていた。


「…これは?」


文字を一覧にまとめたものだとイリアは答える。


「読めないわけではないようだけど、どこまでわかるの?」


家族の誰にも似ていない黒い髪の彼女は驚くことにそう聞いてきたのだ。


「ぼ、ぼくは…」


弱みを見せてはならぬ。

虐げられる理由になるから。


心に留めた言葉が声を詰まらせた。


「…別に読めないことを恥だとは思わないけど」


イリアはニールの焦りを宥めるように言った。

そして戸惑うままのニールに紙を差し出す。


「とりあえずこれを全部覚えて」


言い置いて、イリアは自分の本を読み始めてしまった。

仕方なしにニールはイリアの課題と向き合う。


彼女が自分を虐げるつもりがないことは見て取れた。

ならばここはこの家の中では一番安全な場所ではないか?


ニールはその日から、座学の時間はイリアのもとに通うことになった。


教師はイリアの言に従わず、暇をもらうことなく毎日通ってきている。

一応姉二人の教師も務めているのだから無駄ではないだろう。


生徒が二人ばかり無断欠席をしているが、ニールに敵意のある夫人は彼が立派な大人になる必要性を感じていなかったためにそれを夫には告げなかった。

長女にしても、彼が後継ぎに相応しくなければ自分にお鉢が回ってくるはずなのだ、推奨こそすれ、勉学に励めなど注意するわけもない。


イリアがそばにいることも大きかっただろう。

あの子には関わりたくない、彼女たちは皆がそう思っている。


「お姉さま、これはずいぶんと分かりやすい教材ですね」


数日、ニールは思い切ってこの掴みどころのない姉に声をかけた。

もし、父以外で味方を作れるとしたらこの姉しかいないという打算もある、が、それ以上に本当に疑問だったのだ。


「ありがとう、自分で覚えるために作ったのよ、役に立ってよかったわ」


イリアは本当にそう思っているとは思えない無感動さでそう答えた。


「え、お姉さまが作ったのですか?」


意表を突かれてニールはまじまじと姉を見た。


「そうよ、わたしもニールと同じように文字を覚えるのに苦労したものだから」


なにせこの世界なのか、この国なのか、あるいは教師個人の無能ぶりなのか、とにかく教育が系統立っていないのだ。

わかりにくいことこの上ない。

教育機関はあれども、基礎を自ら得た後に入学するところだった。


仕方なしにイリアはこれまた文字を自力で覚える羽目になった。

その時の苦労がこうして役に立っているのならば一石二鳥というもの。


「それから…」


一瞬だけ言い淀んでイリアは続けた。


「わたしのことはイリアと呼んで、わたしも名前を呼んでいるのだから」

「は、はい、イリア姉さま」


その答えにイリアは少しだけ苦笑して、そして何も言わなかった。

少しだけ扉を開けた心は彼には伝わらなかったようだけど、まあ、そういうものだろう。


ニールは出来のいい生徒で、素直でもあった。


「もうできたの?ニールは飲み込みが早いわ」

「…そう、ですか?」

「ええ」


一人気ままな生活が嫌いな訳ではなかったけれど、誰かと共有する時間はまた別の楽しみがある。


「ありがとう、ございます…」


褒めれば気恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに笑うニール。

それを見るたびにじわりと滲み出す感情を何と呼ぶべきか。


彼は自分と同じ孤独を噛みしめていたのかもしれない。

最近はそんなことを思う。


やっと興味を持って聞いた話では、唯一の母を失って縋るものもなくこの家に来たという。

イリアはようやく同情を抱いた。


「ニールは強いわね」


孤独はあれども、生活を保障された身分であるイリア。

もしニールの境遇に置かれたら当に野垂れ死んでいた自信がある。


「そんなことは…」

「いいえ、ニール。あなたは凄いのよ」


心の底から言葉を乗せる。

不満を言うでもなく、ここまで来た。

彼はもうそろそろ報われてもいいのではないか。


「イリア姉さま」


そう呼ばれるたびに、溶け出すものがある。

何かをもう少しで掴めそうな気がする。


「イリア姉さま、今日は何を?文字は覚えました、この前わたされた本も読み切りました」

「うーん…そうね、今日は算術をやりましょうか」

「はい、イリア姉さま!」


文字も過不足なく読めるようになったと太鼓判を押したイリアによりニールは家庭教師の授業も再開されている。

けれどニールは楽しそうにイリアのもとに訪れる。

イリア自身、乾いた砂が水を吸うように知識を得ていく弟に何かを教えるのは楽しかった。


「教師の講義は退屈です。イリア姉さまの教えてくださったことばかりを繰り返して、先に全然進みません」


不満そうな言葉を漏らすようになったのはいつからだろう。

家に従順なだけだった少年は『自分』というものを取り戻しつつあるのかもしれない。


「ニールの頭が良過ぎるのよ」

「そう、ですか…?」


変わらないのはこの少し気恥ずかしそうな表情だろうか。

イリアはそれが嬉しくて、言葉を選ばずに返した。


「そうよ、わたしの弟はとびきり優秀な自慢の生徒ですもの」


小さな笑い声が一緒に零れて、イリアは唐突に理解した。


そうか、わたしは『姉』になったのだ。


遠い記憶の自分に兄弟はなかったからずっとわからなかったけれど、これに似たものを知っている。

見えない絆だとか、心に根付いた信頼だとか、無条件に溢れる愛だとか。


姉さま、と呼ばれるたびに溶け出し、打ち込まれていた楔。


その先にあるものの名は『家族』だ。


すとんと落ち付いた感情はもう零れ落ちることもなく、形を固定した。

やっと、この世界に家族を、居場所を得たのだと、イリアは歓喜する心を宥めるように静かに微笑んだ。


「自慢の、弟、ですか?」

「ええ、ニール、あなたはわたしのたった一人の大事な弟よ」


とびっきり甘やかそう。

母を失ってから愛を向けられることのなかった彼に。

孤独を埋めてくれた彼に。

少しでも返せるように。


ニールが泣きそうな顔をした。


「どうしたの?」


首を振る彼に手を伸ばす。


「イリア姉さま、ぼく頑張ります、だから、どうか」


その先を彼は言葉にしなかったけれど、イリアは愛を込めてニールを抱きしめた。

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