表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三歩下がれと言われたので三千里離れた国へ逃げました  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/10

第9話 偽装婚約のはずでしたが


顧問官就任式は、驚くほど淡々と終わった。


宣誓の言葉を述べ、皇帝から任命状を受け取り、重臣たちの拍手を浴びる。外国人が帝国の顧問官になるのは異例中の異例らしく、何人かは複雑な表情を隠せていなかった。それでも、表立って反対する者はいない。冒険者ギルドの改革実績が、私の能力を証明している。


「フェリシア・シュタール顧問官。今後の活躍を期待する」


皇帝の声が広間に響く。形式的な言葉。でも、その目は——いつもと同じように、静かに私を見ていた。


式典が終わり、重臣たちが退出していく中、皇帝が口を開いた。


「フェリシア。このあと、執務室に来い。話がある」


執務室の扉を閉めると、皇帝はいつものように茶を淹れ始めた。その背中を見ながら、私は椅子に座る。もう何度目か分からないこの光景。でも今日は、空気が少し違う気がした。


「話とは、何でしょうか」


「……単刀直入に言う」


皇帝が振り返る。手には茶器ではなく、小さな箱を持っていた。


「俺と婚約しろ」


一瞬、言葉の意味が分からなかった。婚約。皇帝と。私が。


「は……?」


「偽装だ。政治的な保護策として、形式上の婚約関係を結ぶ」


皇帝が箱をテーブルに置き、腕を組んだ。いつもの無表情。でも、耳の先がわずかに赤い。


「お前は外国人だ。顧問官になったとはいえ、政敵に狙われやすい立場にある。俺の婚約者という立場があれば、手出しできる者は限られる」


理屈は分かる。帝国では皇帝の権威は絶対だ。その婚約者となれば、私への攻撃は皇帝への攻撃と同義になる。


「……偽装、ですか」


「ああ。期限付きでいい。互いに干渉しない。業務上の関係だ。お前が望むなら、いつでも解消できる」


条件は悪くない。むしろ、私を守るための配慮が詰まっている。でも——


「陛下は、それでいいのですか」


「何がだ」


「皇帝陛下の婚約者が、偽装で、しかも外国人で、爵位を剥奪された元令嬢で……」


言葉を連ねるうちに、自分でも馬鹿らしくなってきた。私は何を言っているのだろう。この人が、そんなことを気にする人だろうか。


皇帝がため息をついた。


「お前は、本当に自己評価が低いな」


「そういうわけでは……」


「黙って聞け」


皇帝が一歩、近づいた。テーブル越しに、真っ直ぐ私を見つめる。


「お前は有能だ。帝国に必要な人材だ。それは事実であり、俺の判断だ。外国人だろうが、元令嬢だろうが関係ない」


「……はい」


「だから、婚約は政治的な判断だ。お前を守るための最善策だ。それ以上でも以下でもない」


それ以上でも以下でもない。その言葉が、なぜか少しだけ胸に刺さった。


「……ただ」


皇帝が視線を逸らした。窓の外を見るふりをしている。


「形だけでいい。互いに干渉しなくていい。……ただ、傍にいてくれれば」


心臓が跳ねた。今の言葉は、政治的な判断とは違う響きがあった。


「陛下……?」


「何でもない。忘れろ」


皇帝が咳払いをして、茶器を取りに行く。その背中が、いつもより少しだけ強張っている気がした。


私は小さく息を吐いて、答えた。


「……お受けします」


「そうか」


振り返らないまま、皇帝が頷く。その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。


婚約発表は、その日のうちに行われた。


大広間に重臣たちが集められ、皇帝が宣言する。「フェリシア・シュタール顧問官を、正式に婚約者とする」——どよめきが広がったが、反対の声は上がらなかった。皇帝の決定は絶対だ。


「陛下、一つよろしいでしょうか」


法務大臣が手を挙げた。


「シュタール顧問官は、ローゼリア王国から爵位を剥奪されております。皇帝陛下の婚約者としての身分は——」


「帝国顧問官という地位がある。それで十分だ」


皇帝が遮る。


「身分は能力で示すものだ。彼女はすでに、それを証明している」


法務大臣が黙った。他の重臣たちも、それ以上何も言わない。


その時、大広間の扉が開いた。


「失礼いたします。ローゼリア王国より、緊急の使者が参りました」


近衛兵の声に、広間の空気が張り詰める。現れたのは、見覚えのある顔だった。祖国の外務次官。かつて、私が翻訳を担当した相手だ。


「アドラー帝国皇帝陛下。ローゼリア王国は、フェリシア・シュタールの身柄引き渡しを改めて要求いたします」


使者が頭を下げる。形式上は丁重だが、目には侮蔑が滲んでいた。


「彼女は我が国の爵位を剥奪され、国外追放となった罪人です。帝国がこのような人物を顧問官に、ましてや皇帝陛下の婚約者にすることは——」


「待て」


皇帝の声が、広間を切り裂いた。


「一つ確認させろ。お前たちは、フェリシア・シュタールの爵位を剥奪し、国外追放にしたのだな?」


「はい、その通りです」


「ならば」


皇帝が一歩、前に出た。その背中が、私を守るように立ちはだかる。


「爵位を剥奪した相手に、まだ何か言う権利があるのか」


使者の顔が強張った。


「お前たちは彼女を捨てた。不要だと判断した。そして今、彼女は帝国の民だ。帝国の顧問官だ。俺の婚約者だ。——お前たちに、口を出す権利はない」


広間が静まり返った。使者は何か言おうとして、口を開閉するが、言葉が出てこない。


「用件が身柄引き渡しだけなら、帰れ。これ以上の議論は無意味だ」


皇帝が背を向ける。使者は数秒間立ち尽くした後、無言で頭を下げ、広間を去っていった。


重臣たちの間から、ため息とも感嘆ともつかない声が漏れる。私は——ただ、皇帝の背中を見つめていた。


婚約発表の後、皇帝は私をバルコニーに連れ出した。


夜風が心地よい。帝都の街並みが、星明かりの下に広がっている。ここに来て、もう半年近くになる。最初は右も左も分からなかった街が、今では——帰る場所になりつつある。


「手を出せ」


皇帝の声に、私は左手を差し出した。彼がポケットから取り出したのは、先ほどの小さな箱。


「婚約指輪だ。形式上のものだが、身につけておけ」


箱を開ける。中には、深い青の宝石がはめ込まれた銀の指輪があった。帝国の紋章——大鷲の意匠が、繊細に彫り込まれている。


皇帝が指輪を取り出し、私の薬指にはめようとした。その時——


彼の手が、微かに震えていた。


「……陛下?」


「なんだ」


「手が……」


「冷えているだけだ」


嘘だ。今夜は暖かい。春の夜風は、むしろ心地よいくらいだ。


指輪が、薬指に収まった。ぴったりだった。まるで、最初から私のために作られたかのように。


「……サイズが合っていますね」


「当然だ。事前に調べさせた」


それは、偽装婚約にしては——丁寧すぎないだろうか。


皇帝が視線を逸らす。バルコニーの手すりに寄りかかり、街並みを見下ろす。その横顔が、星明かりに照らされている。


「これで、誰もお前に手出しはできない」


「……ありがとうございます」


「礼はいらない。政治的な判断だ」


政治的な判断。形式上の婚約。互いに干渉しない関係。——それなのに、なぜ。


なぜ、この人は手を震わせていたのだろう。


左手の指輪を見つめる。深い青の宝石が、星明かりを反射してきらめいている。


偽装のはずなのに。形だけのはずなのに。


——この指輪は、なぜこんなにも、温かいのだろう。


「陛下」


「なんだ」


「これは……本当に、偽装なのですか」


皇帝が振り返った。その目が、一瞬だけ揺れた気がした。


「……何を言っている」


「いえ、何でもありません」


私は笑って、話を逸らした。まだ、確信が持てない。この感情に、名前をつける勇気がない。


でも——


「おやすみなさい、陛下」


「ああ。……おやすみ」


部屋に戻る私の背中を、皇帝の視線が追っている気がした。振り返らなかったけれど、なぜか分かる。


この婚約は、本当に偽装なのだろうか。


左手の指輪が、静かに問いかけていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ