第9話 偽装婚約のはずでしたが
顧問官就任式は、驚くほど淡々と終わった。
宣誓の言葉を述べ、皇帝から任命状を受け取り、重臣たちの拍手を浴びる。外国人が帝国の顧問官になるのは異例中の異例らしく、何人かは複雑な表情を隠せていなかった。それでも、表立って反対する者はいない。冒険者ギルドの改革実績が、私の能力を証明している。
「フェリシア・シュタール顧問官。今後の活躍を期待する」
皇帝の声が広間に響く。形式的な言葉。でも、その目は——いつもと同じように、静かに私を見ていた。
式典が終わり、重臣たちが退出していく中、皇帝が口を開いた。
「フェリシア。このあと、執務室に来い。話がある」
執務室の扉を閉めると、皇帝はいつものように茶を淹れ始めた。その背中を見ながら、私は椅子に座る。もう何度目か分からないこの光景。でも今日は、空気が少し違う気がした。
「話とは、何でしょうか」
「……単刀直入に言う」
皇帝が振り返る。手には茶器ではなく、小さな箱を持っていた。
「俺と婚約しろ」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。婚約。皇帝と。私が。
「は……?」
「偽装だ。政治的な保護策として、形式上の婚約関係を結ぶ」
皇帝が箱をテーブルに置き、腕を組んだ。いつもの無表情。でも、耳の先がわずかに赤い。
「お前は外国人だ。顧問官になったとはいえ、政敵に狙われやすい立場にある。俺の婚約者という立場があれば、手出しできる者は限られる」
理屈は分かる。帝国では皇帝の権威は絶対だ。その婚約者となれば、私への攻撃は皇帝への攻撃と同義になる。
「……偽装、ですか」
「ああ。期限付きでいい。互いに干渉しない。業務上の関係だ。お前が望むなら、いつでも解消できる」
条件は悪くない。むしろ、私を守るための配慮が詰まっている。でも——
「陛下は、それでいいのですか」
「何がだ」
「皇帝陛下の婚約者が、偽装で、しかも外国人で、爵位を剥奪された元令嬢で……」
言葉を連ねるうちに、自分でも馬鹿らしくなってきた。私は何を言っているのだろう。この人が、そんなことを気にする人だろうか。
皇帝がため息をついた。
「お前は、本当に自己評価が低いな」
「そういうわけでは……」
「黙って聞け」
皇帝が一歩、近づいた。テーブル越しに、真っ直ぐ私を見つめる。
「お前は有能だ。帝国に必要な人材だ。それは事実であり、俺の判断だ。外国人だろうが、元令嬢だろうが関係ない」
「……はい」
「だから、婚約は政治的な判断だ。お前を守るための最善策だ。それ以上でも以下でもない」
それ以上でも以下でもない。その言葉が、なぜか少しだけ胸に刺さった。
「……ただ」
皇帝が視線を逸らした。窓の外を見るふりをしている。
「形だけでいい。互いに干渉しなくていい。……ただ、傍にいてくれれば」
心臓が跳ねた。今の言葉は、政治的な判断とは違う響きがあった。
「陛下……?」
「何でもない。忘れろ」
皇帝が咳払いをして、茶器を取りに行く。その背中が、いつもより少しだけ強張っている気がした。
私は小さく息を吐いて、答えた。
「……お受けします」
「そうか」
振り返らないまま、皇帝が頷く。その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
婚約発表は、その日のうちに行われた。
大広間に重臣たちが集められ、皇帝が宣言する。「フェリシア・シュタール顧問官を、正式に婚約者とする」——どよめきが広がったが、反対の声は上がらなかった。皇帝の決定は絶対だ。
「陛下、一つよろしいでしょうか」
法務大臣が手を挙げた。
「シュタール顧問官は、ローゼリア王国から爵位を剥奪されております。皇帝陛下の婚約者としての身分は——」
「帝国顧問官という地位がある。それで十分だ」
皇帝が遮る。
「身分は能力で示すものだ。彼女はすでに、それを証明している」
法務大臣が黙った。他の重臣たちも、それ以上何も言わない。
その時、大広間の扉が開いた。
「失礼いたします。ローゼリア王国より、緊急の使者が参りました」
近衛兵の声に、広間の空気が張り詰める。現れたのは、見覚えのある顔だった。祖国の外務次官。かつて、私が翻訳を担当した相手だ。
「アドラー帝国皇帝陛下。ローゼリア王国は、フェリシア・シュタールの身柄引き渡しを改めて要求いたします」
使者が頭を下げる。形式上は丁重だが、目には侮蔑が滲んでいた。
「彼女は我が国の爵位を剥奪され、国外追放となった罪人です。帝国がこのような人物を顧問官に、ましてや皇帝陛下の婚約者にすることは——」
「待て」
皇帝の声が、広間を切り裂いた。
「一つ確認させろ。お前たちは、フェリシア・シュタールの爵位を剥奪し、国外追放にしたのだな?」
「はい、その通りです」
「ならば」
皇帝が一歩、前に出た。その背中が、私を守るように立ちはだかる。
「爵位を剥奪した相手に、まだ何か言う権利があるのか」
使者の顔が強張った。
「お前たちは彼女を捨てた。不要だと判断した。そして今、彼女は帝国の民だ。帝国の顧問官だ。俺の婚約者だ。——お前たちに、口を出す権利はない」
広間が静まり返った。使者は何か言おうとして、口を開閉するが、言葉が出てこない。
「用件が身柄引き渡しだけなら、帰れ。これ以上の議論は無意味だ」
皇帝が背を向ける。使者は数秒間立ち尽くした後、無言で頭を下げ、広間を去っていった。
重臣たちの間から、ため息とも感嘆ともつかない声が漏れる。私は——ただ、皇帝の背中を見つめていた。
婚約発表の後、皇帝は私をバルコニーに連れ出した。
夜風が心地よい。帝都の街並みが、星明かりの下に広がっている。ここに来て、もう半年近くになる。最初は右も左も分からなかった街が、今では——帰る場所になりつつある。
「手を出せ」
皇帝の声に、私は左手を差し出した。彼がポケットから取り出したのは、先ほどの小さな箱。
「婚約指輪だ。形式上のものだが、身につけておけ」
箱を開ける。中には、深い青の宝石がはめ込まれた銀の指輪があった。帝国の紋章——大鷲の意匠が、繊細に彫り込まれている。
皇帝が指輪を取り出し、私の薬指にはめようとした。その時——
彼の手が、微かに震えていた。
「……陛下?」
「なんだ」
「手が……」
「冷えているだけだ」
嘘だ。今夜は暖かい。春の夜風は、むしろ心地よいくらいだ。
指輪が、薬指に収まった。ぴったりだった。まるで、最初から私のために作られたかのように。
「……サイズが合っていますね」
「当然だ。事前に調べさせた」
それは、偽装婚約にしては——丁寧すぎないだろうか。
皇帝が視線を逸らす。バルコニーの手すりに寄りかかり、街並みを見下ろす。その横顔が、星明かりに照らされている。
「これで、誰もお前に手出しはできない」
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。政治的な判断だ」
政治的な判断。形式上の婚約。互いに干渉しない関係。——それなのに、なぜ。
なぜ、この人は手を震わせていたのだろう。
左手の指輪を見つめる。深い青の宝石が、星明かりを反射してきらめいている。
偽装のはずなのに。形だけのはずなのに。
——この指輪は、なぜこんなにも、温かいのだろう。
「陛下」
「なんだ」
「これは……本当に、偽装なのですか」
皇帝が振り返った。その目が、一瞬だけ揺れた気がした。
「……何を言っている」
「いえ、何でもありません」
私は笑って、話を逸らした。まだ、確信が持てない。この感情に、名前をつける勇気がない。
でも——
「おやすみなさい、陛下」
「ああ。……おやすみ」
部屋に戻る私の背中を、皇帝の視線が追っている気がした。振り返らなかったけれど、なぜか分かる。
この婚約は、本当に偽装なのだろうか。
左手の指輪が、静かに問いかけていた。




