第8話 証拠は全て揃っております
検証結果が届いたのは、春の陽射しが窓から差し込む穏やかな午後だった。
「フェリシア様、フロスティア連邦より正式な書状が届きました」
ハインリヒが封蝋のついた厚い封筒を差し出す。中立国の紋章——交差した天秤と羽根ペン。私は深呼吸をしてから封を切った。二週間。長いようで短い時間だった。この結果で、全てが決まる。
書面に目を通す。一枚目は形式的な挨拶文。二枚目から本題——検証対象となった23件の外交文書について、詳細な分析結果が記されていた。
「……23件全てにおいて、原本の魔力痕と最終提出版の魔力痕に不一致が確認されました」
声に出して読み上げる。ハインリヒが息を呑む気配がした。
「原本にはフェリシア・シュタールの魔力痕。最終提出版には、その上からアルベルト・ヴァイスの魔力痕が上書きされている。上書きの時期は提出直前と推定——」
つまり、私が作成した書類を、アルベルトが提出直前に自分の名義に書き換えていた。五年間、ずっと。第三国の魔法鑑定士が、公正な立場で、物的証拠として認定した。
「これは……」
「証拠です」
私は静かに言った。感情が波立つかと思ったが、不思議と穏やかだった。ずっと分かっていたことが、ようやく形になっただけ。悔しさよりも、安堵の方が大きい。
「ハインリヒさん。皇帝陛下に報告の場を設けていただけますか」
「直ちに手配いたします」
謁見の間には、皇帝の他に法務大臣と外務大臣が同席していた。
私は検証結果の書面を読み上げ、23件の改竄が確定したことを報告した。法務大臣が眉を顰め、外務大臣が難しい顔で腕を組む。皇帝は——いつものように、静かに聞いていた。
「つまり、過去五年間の通商交渉において、ローゼリア王国側の担当者が組織的に文書を改竄していた、ということか」
法務大臣の言葉に、私は頷いた。
「組織的かどうかは分かりません。ただ、少なくともアルベルト・ヴァイス書記官が関与していたことは、魔力痕という物的証拠で証明されました」
「これは看過できん。帝国の信用に関わる問題だ」
外務大臣が立ち上がる。
「ローゼリア王国に正式な抗議文を送付すべきだ。改竄の事実確認と、責任者の処分を求める」
議論が進む中、皇帝が口を開いた。
「抗議文の送付は認める。ただし、フェリシア・シュタールの身柄に関する要求は一切受け付けないと明記しろ」
「陛下……」
「これは帝国の公式見解だ。彼女は帝国に貢献した有能な人材であり、改竄の被害者だ。加害者側の国に引き渡す理由がない」
その言葉は、二週間前と同じだった。でも、今は——物的証拠がある。第三国の公正な検証がある。誰にも反論できない、確かな土台がある。
「ありがとうございます、陛下」
「礼を言うのは早い。まだ片付いていない問題がある」
皇帝の視線が、謁見の間の扉の方を向いた。
回廊で待っていたのは、アルベルトだった。
検証結果が届いたことを知っているのだろう。顔色が悪く、いつもの尊大さが影を潜めている。私の姿を見ると、彼は一瞬たじろいだ。
「フェリシア」
「アルベルト様。お久しぶりですね」
私は立ち止まった。逃げる必要はない。もう、何も怖くない。
「……あの検証結果は、何かの間違いだ」
「間違いではありません。フロスティア連邦の魔法鑑定士が、中立の立場で検証した結果です」
「お前が何か細工をしたんだろう。昔からそうだ、お前は——」
「私が?」
思わず笑ってしまった。五年間、黙々と書類を作り、手柄を奪われ続けた私が、細工?
「私は書類を作っただけです。署名を書き換えたのは、あなたです」
「黙れ。お前のような女が、俺の——」
「あなたの、何ですか?」
私は一歩、前に出た。アルベルトが後ずさる。
「踏み台ですか? 道具ですか? それとも、三歩下がって歩くべき従順な婚約者ですか?」
彼は何も言えなかった。言葉を探すように口を開閉するが、音にならない。
「私の仕事は、私のものです」
静かに、はっきりと言った。
「五年分の功績も、積み上げた信頼も、身につけた技術も。全て私のものです。あなたに奪われたと思っていましたが——取り戻しました」
アルベルトの顔が歪む。怒りなのか、屈辱なのか、それとも——初めて気づいた恐怖なのか。
「お前なんか、いなくても——」
「ええ、そうですね」
私は微笑んだ。
「私がいなくても、あなたはきっと困らないでしょう。でも、あなたがいなくても、私は困りません。それだけのことです」
彼の横を通り過ぎる。振り返らなかった。
皇帝の執務室に通されたのは、日が傾き始めた頃だった。
「座れ」
いつもの椅子。いつものように、皇帝は自分で茶を淹れている。この光景にも、すっかり慣れてしまった。
「検証結果の件、改めて礼を言う。お前が証拠を保管していなければ、ここまで明確な決着はつかなかった」
「いえ、私は自分の仕事を守っただけです」
「……そうか」
皇帝が茶器を置き、私の正面に座った。いつもより、少しだけ距離が近い気がする。
「フェリシア・シュタール。お前に、正式な地位を与えたい」
「地位、ですか」
「帝国顧問官。冒険者ギルドの改革だけでなく、帝国全体の労務政策について助言を求める。……国家としての判断だ」
顧問官。それは、外国人である私が帝国で得られる最高位に近い地位だった。驚きで言葉が出ない。
「陛下、私は——」
「まだ話は終わっていない」
皇帝が、珍しく視線を逸らした。窓の外を見るふりをしているが、耳の先がわずかに赤い。
「これは国家の判断だ。だが——」
間があった。長い、長い間。
「——俺個人としても、お前にここにいてほしい」
心臓が跳ねた。今、なんと言った?
「仕事ができるから、ではない。いや、それもあるが……」
皇帝が額に手を当てる。言葉を探しているようだった。
「お前といると、落ち着く。茶を淹れる相手がいるのは、悪くない。だから——」
その時、扉が叩かれた。
「陛下、ローゼリア王国より緊急の通達が届きました」
執事の声に、皇帝が舌打ちする。私は内心で、少しだけ安堵した。今の言葉の意味を、まだ整理できていない。
届けられた書状を開く。皇帝が先に目を通し、眉を顰めた。
「……フェリシア」
「はい」
「ローゼリア王国は、お前の爵位を剥奪し、国外追放とする、と通達してきた」
爵位剥奪。国外追放。シュタール伯爵家の令嬢という身分が、正式に消える。
私は——笑っていた。
「そうですか」
「……動揺しないのか」
「いいえ、少しだけ」
窓の外を見た。帝都の街並みが、夕陽に染まっている。三千里離れた国。実力だけが評価される場所。ここで、私は自分の仕事を取り戻した。
「ようやく、本当の意味で自由になれますね」
振り返ると、皇帝が不思議そうな顔をしていた。
「自由?」
「はい。もう、あの国に縛られるものは何もありません。帰る場所がないということは——ここが、私の居場所だということです」
皇帝が、何かを言いかけて止めた。代わりに、静かに頷く。
「……そうか」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
窓の外で、夕陽が沈んでいく。明日からまた、新しい日が始まる。顧問官として。帝国の民として。そして——この人の隣で、茶を飲む相手として。
爵位を失った私は、きっと誰よりも自由だ。




