第7話 私がいないと仕事が回らないそうですね
書類の齟齬が発覚してから、数日が過ぎた。
帝国法務省が過去の外交記録を精査した結果、問題は想像以上に深刻だった。
「過去5年間の外交文書を照合しました」
法務官が、分厚い報告書を机に置いた。皇帝の執務室。私と皇帝、そして法務省の高官が数名。
「結果、ローゼリア王国から提出された書類のうち、23件に齟齬が確認されました。全て、アルベルト・ヴァイス書記官が担当した時期と一致しています」
23件。5年間で23件。私が外務省で働いていた期間と、ぴったり重なる。
「齟齬の内容は様々です。数字の改変、日付の修正、署名欄の書き換え——」
法務官の説明を聞きながら、私は確信した。これは偶然ではない。意図的な改竄だ。そして、改竄されたのは——私が作成した書類だ。
「フェリシア」
皇帝が、私を見た。
「心当たりはあるか」
「……はい」
私は頷いた。隠す理由はない。
「これらの書類は、私が外務省時代に作成したものです。原本は私が書きました。しかし、提出された書類では、署名がアルベルト・ヴァイス様のものに変わっています」
法務官たちがざわめいた。皇帝は無表情のまま、続きを促す。
「つまり、私の仕事が、彼の名義で提出されていたということです。そして、その過程で数字や日付が改変された可能性があります」
「証拠は」
「あります」
私は、懐から鍵を取り出した。
「帝国に来る時、外務省時代の業務記録の写しを全て持ってきました。私が作成した書類の下書き、作業日誌、提出前の最終稿——全て保管しています」
皇帝の目が、わずかに見開かれた。法務官たちは顔を見合わせている。
「なぜ、そのようなものを持っていた」
「官僚としての習慣です」
私は答えた。
「自分が作った書類は、必ず写しを取っておく。何かあった時のために。……まさか、こんな形で役立つとは思いませんでしたが」
沈黙が落ちた。皇帝が、静かに口を開く。
「法務省は、フェリシアの業務記録と、帝国側の外交記録を照合しろ。改竄の証拠を固める」
「はっ」
法務官たちが頭を下げ、退出していった。執務室に、私と皇帝だけが残る。
「5年分の証拠か」
皇帝が、窓際に歩み寄った。
「よく、持っていたな」
「偶然です。……いえ、偶然ではないかもしれません」
私も窓際に近づいた。皇帝の隣に立つ。夕日が、帝都の街並みを染めている。
「どこかで、気づいていたのだと思います。自分の仕事が奪われていることに。だから、無意識に証拠を残していた」
「復讐のためか」
「いいえ」
私は首を振った。
「復讐するつもりはありませんでした。ただ、いつか——自分の仕事に、自分の名前をつけたかっただけです」
皇帝が、こちらを見た。氷青の瞳に、何かの感情が揺れている。読み取れない。けれど、冷たくはない。
「……そうか」
それだけ言って、皇帝は黙った。
翌日、状況は急変した。
「祖国が正式に抗議声明を出しました」
報告を持ってきた官吏の顔は、青ざめていた。
「『帝国は根拠のない言いがかりで、ローゼリア王国の外交官を侮辱している』と。さらに——」
官吏が言葉を切った。私を見る目に、困惑が浮かんでいる。
「フェリシア・シュタールの身柄引き渡しを要求しています。『婚約を放棄して逃亡した罪人』だと」
心臓が、冷たくなった。
「アルベルト・ヴァイス書記官は、『書類の齟齬はフェリシア・シュタールの捏造である』と主張しているそうです」
捏造。私が、証拠を偽造したと言っている。
「帝国内にも、一部から声が上がっています。『一人の官吏のために、隣国との関係を悪化させるべきではない』と」
当然の反応だ。私一人のために、国家間の関係が揺らいでいる。
「陛下」
私は皇帝に向き直った。
「私が出頭すれば——」
「黙れ」
皇帝の声が、鋭く響いた。
私は言葉を呑んだ。皇帝の表情が、初めて崩れていた。怒り——いや、違う。もっと複雑な何か。
「馬鹿なことを言うな」
皇帝が一歩、近づいた。
「お前を差し出して得られる平和に、何の価値がある」
「でも、陛下の治世に——」
「傷? 有能な臣下を守れぬ皇帝に、何の価値がある」
皇帝の声が、わずかに震えていた。
「俺は、お前を守りたいんだ」
心臓が、大きく跳ねた。
「皇帝としてではなく、俺が。俺個人が。……分かるか」
分かる。分かってしまった。
この人は、私を——
「陛下……」
「グレイシアだ」
皇帝が、私の手を取った。大きな手。温かい。
「二人の時は、そう呼べ」
喉が詰まって、声が出なかった。頷くことしかできない。
「俺は、お前を手放さない」
皇帝——グレイシアの目が、真っ直ぐに私を捉えている。
「これは皇帝としての判断ではない。俺個人の、意志だ」
その夜、さらに悪い知らせが届いた。
祖国からの正式な外交文書。封を切り、内容を読んで、私は息を呑んだ。
『フェリシア・シュタールの身柄引き渡しに応じない場合、ローゼリア王国は帝国との通商条約を破棄する用意がある』
通商条約。帝国と祖国を結ぶ、最も重要な経済協定。これが破棄されれば、両国の貿易は大打撃を受ける。
私一人のために、国家間の経済関係を壊すのか。
「フェリシア」
グレイシアの声がした。いつの間にか、隣に立っていた。
「その顔をするな」
「……でも」
「俺は、お前を渡さない」
グレイシアが、文書を取り上げた。一瞥して、机に投げ捨てる。
「通商条約を盾に取るなら、こちらにも考えがある。第三国の魔法鑑定士による書類検証を提案する。公正な場で、どちらの主張が正しいか明らかにすればいい」
「第三国……」
「中立国フロスティア連邦に依頼する。両国の書類を検証し、魔力痕から実際の作成者を特定する。捏造かどうか、白黒つけてやる」
グレイシアの目に、冷たい光が宿っていた。皇帝としての——戦う者の目だ。
「逃げるな、フェリシア」
「……はい」
「お前の戦いは、俺の戦いでもある。一人で抱え込むな」
胸が熱くなった。涙が出そうになるのを、必死で堪える。
「……ありがとうございます、グレイシア」
初めて、名前を呼んだ。皇帝の——グレイシアの耳が、かすかに赤くなった。
「……礼は、全てが終わってからでいい」
そう言って、グレイシアは窓の外を見た。夜空に、星が瞬いている。
戦いが、始まろうとしていた。




