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三歩下がれと言われたので三千里離れた国へ逃げました  作者: 秋月 もみじ


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第6話 元婚約者との再会は外交会談の場で


帝国宮殿、外交会談の間。


高い天井から陽光が差し込み、大理石の床を照らしている。長いテーブルの片側に帝国側の席、反対側にローゼリア王国使節団の席。私は皇帝の右隣——秘書官の席に座っていた。


「使節団、入場いたします」


侍従の声が響く。大きな扉が開かれ、王国の使節団が姿を現した。


先頭を歩くのは、金髪の男。見覚えのある顔。見覚えのある、自信に満ちた笑み。


アルベルト・ヴァイス。


私の元婚約者が、会談の間に足を踏み入れた。


「ローゼリア王国外務省を代表し——」


アルベルトが挨拶を始めかけて、言葉が止まった。視線が、私を捉えている。青い瞳が大きく見開かれ、口が半開きになっている。


硬直していた。


三ヶ月前、「三歩下がれ」と言い放った男が、今は皇帝の隣に座る私を見て、石像のように固まっている。


「……なぜ、お前がそこにいる」


アルベルトの声は、かすれていた。


「帝国皇帝陛下の秘書官として、記録を担当しております」


私は無表情のまま答えた。声は穏やかに、けれど明確に。


「会談を始めましょう。お時間も限られておりますので」


アルベルトの顔が、わずかに歪んだ。けれど、周囲の視線がある。使節団の他のメンバーも、帝国側の官僚たちも、皇帝も——全員が見ている。ここで取り乱すわけにはいかないのだろう。


アルベルトは唇を噛み、自分の席に着いた。


会談が始まった。


午前の会談が終わり、休憩時間に入った。


私は廊下に出て、窓から中庭を眺めていた。春の花が咲き始めている。帝国の春は、王国より少し遅い。


「フェリシア」


背後から、声がかかった。振り返らなくても、誰か分かる。


「アルベルト様」


形式的に敬称をつけた。もう婚約者ではないが、外交の場だ。礼儀は守る。


「……話がある」


アルベルトが近づいてきた。自信に満ちた歩き方は変わらない。けれど、目の奥に焦りが見える。会談中、何度も私の方を見ていたのに気づいていた。


「戻ってこい」


アルベルトが言った。


「え?」


「戻ってこい、フェリシア。俺は許してやる」


許してやる。その言葉に、私は目を瞬いた。


「お前が勝手に逃げ出したことも、俺に恥をかかせたことも、全部許す。だから、戻ってこい」


何を言っているのだろう、この人は。


「許す……ですか」


私は、静かに問い返した。


「私は何か、罪を犯しましたでしょうか」


「……何?」


「正規の手続きで退職し、正規の手続きで入国しました。婚約については、あなた様が『三歩下がれ』と仰ったので、三千里ほど下がらせていただいただけです」


アルベルトの顔が、赤くなった。怒りか、羞恥か。


「口答えするな。お前は俺の婚約者だ」


「でした」


私は訂正した。


「過去形です、アルベルト様。私は今、帝国の官吏です。あなた様に許されるべきことなど、何一つございません」


「お前——」


アルベルトが一歩踏み出した。その瞬間、背後から冷たい声が響いた。


「何をしている」


皇帝グレイシアが、廊下の向こうに立っていた。氷青の瞳が、アルベルトを射抜いている。


「外交会談の休憩時間に、帝国の官吏に私的な接触を図るとは。礼儀を欠いているのではないか」


アルベルトの顔から、血の気が引いた。


「へ、陛下、これは——」


「会談を再開する」


皇帝が歩み寄ってきた。私の腕に、そっと手を添える。


「来い、フェリシア。お前の席は、俺の隣だ」


心臓が、大きく跳ねた。


皇帝に導かれるまま、会談の間に戻る。アルベルトは、呆然とその場に立ち尽くしていた。


午後の会談で、皇帝は明確な態度を示した。


「帝国の官吏に対する私的な発言は、公式会談の場では慎んでいただきたい」


氷の声が、会談の間に響く。


「侮辱と取られかねん」


使節団の全員が、息を呑んだ。アルベルトの顔が蒼白になる。


皇帝は、私を自分の隣に座らせ直した。さっきより、少し近い席に。国際的な場で、「皇帝の庇護下にある」ことを明示したのだ。


会談は続いた。けれど、アルベルトの視線は、もう私に向けられなかった。


会談が終わり、使節団が退出した後。


私は宮殿の廊下で、皇帝と二人きりになっていた。夕日が、窓から差し込んでいる。


「……怖かったか」


皇帝が、静かに尋ねた。


「いいえ」


私は首を振った。


「陛下がいらしたので」


皇帝が、こちらを見た。氷青の瞳が、夕日に染まっている。


「……そうか」


それだけ言って、皇帝は黙った。私も、何も言わなかった。


沈黙が流れる。けれど、居心地は悪くなかった。むしろ、心地よい。この人の隣にいると、安心する。理由は分からない。でも、そう感じた。


「明日も会談がある」


皇帝が口を開いた。


「お前は、俺の隣にいろ」


命令ではなく、確認するような声だった。


「……はい」


私は頷いた。


翌日、会談の2日目。


午前の議題が進む中、帝国側の法務官が眉をひそめた。


「ヴァイス書記官、この書類についてお尋ねしたい」


アルベルトの顔が、わずかに強張る。


「昨年締結した通商協定の付帯条項ですが、帝国側の記録と、貴国から提出された書類に齟齬があります」


法務官が、二枚の書類を並べた。


「帝国側の記録では、関税率は12%となっております。しかし、貴国の書類では15%。これは、どちらが正しいのでしょうか」


会談の間が、静まり返った。


アルベルトの顔から、血の気が引いていく。額に、汗が浮かんでいる。


私は気づいた。この書類——私が外務省時代に作成したものだ。原本は私が書いた。12%が正しい。つまり、誰かが数字を書き換えた。


「これは……その……」


アルベルトが言葉を詰まらせる。弁解を探している。けれど、見つからない。


皇帝が、静かに私を見た。何も言わない。けれど、その目は何かを確信しているようだった。


「会談を一時中断する」


皇帝の声が響いた。


「この齟齬について、詳細な調査が必要だ」


アルベルトの顔が、絶望に歪んでいる。


私がいないと、仕事が回らない。


その証明が、始まろうとしていた。

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