第5話 御用件は文書でお願いします
ギルド本部の応接室で、私は父の使いと向き合っていた。
シュタール家の執事、ヴェルナー。白髪交じりの初老の男で、私が幼い頃から屋敷にいた人だ。表情は硬く、居心地が悪そうに椅子に座っている。
「お久しぶりです、フェリシア様」
「……ええ、お久しぶりです」
感慨はなかった。この人は父の忠実な部下であり、私の味方だったことは一度もない。母が亡くなった時も、継母が来た時も、私が婚約を押し付けられた時も——いつも、父の側にいた。
「旦那様からのお手紙です」
執事が封書を差し出した。受け取り、封を切る。父の筆跡が並んでいる。
『フェリシアへ。直ちに帰国せよ。ヴァイス侯爵家との婚約は継続する。お前の帝国での「功績」とやらは、アルベルト様の教育の賜物であると公言すること。これ以上の恥をかかせるな。父より』
指先が、冷たくなった。
教育の賜物。功績は私のものではなく、アルベルトのおかげ。三千里離れてもなお、私の仕事を奪おうとしている。
「……旦那様は、フェリシア様のご帰国を心待ちにしておられます」
執事が言った。心待ち。嘘だ。父が私を待っているのは、ヴァイス家との繋がりを維持するためだ。娘としてではない。道具として。
私は手紙を静かに折りたたみ、執事に返した。
「お伝えください」
「……はい」
「私は帝国の官吏です。私事の相談は、正式な文書で外務省を通していただきたい」
執事の目が、わずかに見開かれた。
「フェリシア様、しかし——」
「帰国の意思はありません」
私は立ち上がった。
「以上です。お引き取りください」
「お待ちください、旦那様は——」
「御用件は、文書でお願いします」
声は穏やかに、けれど明確に。これ以上の議論はしない、という意思を込めて。
執事は口を開きかけ、そして閉じた。私の目を見て、何かを悟ったのだろう。深々と頭を下げ、応接室を出ていった。
扉が閉まった瞬間、私は深く息を吐いた。手が、わずかに震えている。怒りではない。安堵だ。
三ヶ月前の私なら、あんな対応はできなかっただろう。黙って従い、言い訳を探し、結局は帰国していたかもしれない。でも、今は違う。
私は、私の人生を生きると決めた。誰かの道具には、もう二度とならない。
数日後、状況は悪化していた。
「祖国が、お嬢を『逃亡者』だと言い始めてるらしい」
ハインリヒが渋い顔で報告してきた。
「婚約を放棄して国外に逃亡した、ってな。帝国に引き渡しを要求するつもりらしいぜ」
「……逃亡者、ですか」
私は正規の手続きで退職し、正規の手続きで入国した。逃亡などしていない。けれど、祖国がそう主張するなら、外交問題になりかねない。
「帝国内にも、面倒事を抱え込むなって声があるらしい」
ハインリヒが腕を組んだ。
「一人の官吏のために、隣国との関係を悪くするのかってな」
胸が、ちくりと痛んだ。私のせいで、帝国に迷惑をかけている。皇帝に紹介状をもらい、ギルドで働かせてもらい、改革を任せてもらった。その恩を、こんな形で返すことになるとは。
「ハインリヒさん、私は——」
「お嬢」
ギルド長が、私の言葉を遮った。
「逃げるなよ」
「……え?」
「お嬢は帝国のために働いた。『帝国の奇跡』を起こした。それを、よその国の都合で差し出すわけにはいかねえ」
ハインリヒの目は、真っ直ぐだった。
「俺たちは、お嬢の味方だ。忘れんな」
喉の奥が、熱くなった。言葉が出てこない。ただ、頷くことしかできなかった。
その日の夕方、皇帝からの書状が届いた。
『フェリシア・シュタールは帝国への正規入国手続きを経た帝国官吏である。帝国臣民への内政干渉は認めない。——アドラー帝国皇帝グレイシア・ヴォルフ・アドラー』
公式声明だった。皇帝の署名と、帝国の紋章。これが発表されれば、祖国は私を「逃亡者」として扱えなくなる。
「陛下……」
書状を手に、私は執務室の窓から外を見た。夕日が、帝都の街並みを染めている。
どうして、ここまでしてくれるのだろう。有能な人材だから? それだけで、外交問題になりかねない声明を出すだろうか。
——コンコン。
扉を叩く音がした。返事をする前に、扉が開く。
「……陛下」
皇帝グレイシアが、無表情のまま執務室に入ってきた。今日は護衛もいない。一人だ。
「声明を読んだか」
「はい。……ありがとうございます」
「礼は要らん」
皇帝が、窓際に歩み寄った。私の隣に立ち、同じように夕日を見ている。
「守っていただいた……のですか?」
私は、思い切って尋ねた。皇帝が、こちらを見る。氷青の瞳が、夕日に染まっていた。
「守った?」
皇帝の声は、いつも通り素っ気ない。
「違う。有能な人材を手放す理由がないだけだ」
また、その言い方。茶を届けた時も、夜食を届けた時も、いつも「理由」をつける。感情を隠すように、事実だけを並べる。
でも、今日は少し違う気がした。
「陛下」
「何だ」
「嘘が下手ですね」
皇帝の目が、わずかに見開かれた。私は小さく笑った。
「有能な人材を守るだけなら、公式声明までは出さないでしょう。外交問題になりかねないのに」
「……」
「見てくれているんですね、陛下は」
沈黙が落ちた。夕日が、ゆっくりと沈んでいく。皇帝は何も言わなかった。けれど、視線を逸らさなかった。
「……生意気な女だ」
ようやく、皇帝が口を開いた。
「だが、悪くない」
胸が、じんわりと温かくなった。この人は、私を見てくれている。能力だけではなく、私自身を。根拠はない。でも、そう思えた。
「お言葉ですが、陛下」
「何だ」
「私も、陛下を見ています」
皇帝の耳が、かすかに赤くなった。夕日のせいだと言い張るだろうけれど、私には分かる。
数週間後、新たな報せが届いた。
「フェリシア様、外務省から通達です」
職員が、困惑した顔で書類を持ってきた。
「ローゼリア王国から、外交使節団が来訪するそうです。その中に——」
職員が言葉を切った。私は書類を受け取り、目を通す。使節団の名簿。その一番上に、見覚えのある名前があった。
『ローゼリア王国外務省書記官 アルベルト・ヴァイス』
手紙ではなく、本人が来る。
三歩下がれと言った男が、三千里先まで追いかけてくる。




