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三歩下がれと言われたので三千里離れた国へ逃げました  作者: 秋月 もみじ


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第4話 帝国の奇跡と呼ばれているそうですが


帝国に来て、三ヶ月が過ぎた。


「お嬢、これ見たか?」


ハインリヒが、一枚の新聞を手に執務室へ入ってきた。帝都で発行されている日刊紙だ。一面に大きな見出しが躍っている。


『帝国の奇跡——冒険者ギルド改革、全土で成果』


「奇跡って、大げさですね」


「大げさじゃねえよ。事故率三割減、依頼達成率二割増、離職率は半分以下。数字は嘘をつかねえ」


ハインリヒが新聞を机に置いた。記事には、改革の詳細と成果が並んでいる。依頼マッチング、休息日義務化、報酬透明化、メンタルケア——私が提案した全てが、帝国全土で機能し始めていた。


「他国からも問い合わせが来てるらしいぜ。フロスティア連邦が視察団を送りたいってよ」


「それは……光栄ですね」


素直に嬉しかった。けれど、浮かれている場合ではない。


「改革は始まりに過ぎません。維持と発展が本当の勝負です」


「相変わらず堅いな、お嬢は」


ハインリヒが呆れたように笑った。でも、その目は優しい。この三ヶ月で、ギルド長との関係はすっかり変わっていた。最初は「貴族のお嬢様」と警戒されていたのに、今では「お嬢」と気軽に呼ばれている。


「ああ、それとな」


ハインリヒが思い出したように付け加えた。


「西方から来た商人が言ってたぜ。ローゼリア王国でも、お嬢の噂が広まってるってよ」


心臓が、一瞬だけ跳ねた。


「……そうですか」


「『帝国の奇跡を成し遂げた天才人事官』だとさ。名前も出てるらしい。フェリシア・シュタール、ってな」


祖国に、私の名前が届いている。三歩下がれと言われて逃げ出した女が、三千里先で「奇跡」を起こしたと。


アルベルトは、どんな顔をしているだろう。マルグリット夫人は。父は。


「……どうでもいいことです」


私は書類に目を落とした。過去を振り返っても仕方がない。今は、目の前の仕事に集中するだけだ。


それから数日、私は次の課題に取り組んでいた。


改革の全土展開に伴い、各支部からの報告書が山のように届く。成功事例、失敗事例、改善要望——全てに目を通し、分析し、次の施策に反映させる。気づけば、日が暮れてから日が昇るまで、執務室にこもる日が続いていた。


「お嬢、今日もか?」


夜の九時、ハインリヒが帰り際に声をかけてきた。


「もう少しだけ。この報告書、明日の会議で使いますので」


「無理すんなよ。倒れたら元も子もねえ」


「分かっています」


分かっているのに、手が止まらない。前世でもそうだった。仕事があると、休むことを忘れてしまう。


窓の外は、すっかり暗くなっていた。帝都の街灯が、ぽつぽつと光っている。


——コンコン。


扉を叩く音がした。こんな時間に誰だろう。ハインリヒはもう帰ったはずだ。


「どうぞ」


扉が開いた。


立っていたのは、銀髪の男。手には、盆が載っている。


「……陛下?」


皇帝グレイシアが、無表情のまま執務室に入ってきた。盆の上には、蓋付きの器と湯気の立つカップ。


「視察だ」


「こんな夜更けに、ですか」


「……執務が早く終わった」


嘘だ。皇帝の執務が「早く終わる」わけがない。帝国全土を統べる男が、暇を持て余すはずがない。


皇帝が盆を机に置いた。蓋を開けると、温かいスープとパンが現れる。


「食え。昼から何も口にしていないだろう」


私は目を瞬いた。確かに、昼食を取り損ねていた。でも、なぜそれを知っている。


「陛下、なぜ——」


「厨房に命じる暇がなかった」


また、その言い訳。私は思わず、小さく笑ってしまった。


「……何がおかしい」


「いえ。陛下は、正直な方ですね」


「どういう意味だ」


「嘘が下手、という意味です」


皇帝の表情が、一瞬だけ固まった。氷のような瞳が、わずかに揺れる。そして——耳の先が、かすかに赤くなっていた。


「……早く食え。冷める」


話題を逸らすように、皇帝が言った。私は素直に従い、スープを口に運ぶ。温かい液体が、疲れた体に染み渡っていく。


「美味しいです」


「そうか」


皇帝は腕を組み、窓の外を見ていた。無表情だが、どこか満足そうに見える。


不思議な人だ。言葉は少なく、感情が読めない。でも、行動は嘘をつかない。茶を届け、夜食を届け、理由は全部「暇だった」「命じる暇がなかった」。


見てくれている人は、見てくれている。そんな言葉が、ふと浮かんだ。


「陛下」


「何だ」


「ありがとうございます」


皇帝が、こちらを見た。


「……礼には及ばん。有能な人材が倒れては困る」


その言葉は、きっと本心なのだろう。でも、それだけではない気がした。根拠はない。ただの直感だ。


「お言葉ですが、陛下こそ、お体に気をつけてください。帝国が困ります」


皇帝の目が、わずかに見開かれた。それから、小さく鼻を鳴らす。


「……生意気な女だ」


「恐れ入ります」


口元が緩みそうになるのを、必死で堪えた。


翌朝、執務室で報告書の最終確認をしていると、職員が駆け込んできた。


「フェリシア様、お客様です」


「私に? 誰ですか」


職員が困惑した顔で、言葉を選んでいる。


「その……ローゼリア王国から、使者が来ております」


心臓が、冷たくなった。


「使者?」


「はい。シュタール伯爵家の執事だと名乗っておりまして——」


職員の言葉が、遠くなる。シュタール家。私の実家。父の使い。


「——フェリシア様、ご実家より、帰国の要請が届いております」


過去が、追いかけてきた。

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