第10話 父と娘
謁見の間に向かう足が、重かった。
父に会う。あの父に。
私を影のように扱い、アルベルトの言いなりになり、私の成果を奪うことを黙認した父。
「姉様」
リーゼロッテが私の手を握った。その手も、震えている。
「大丈夫です。私も一緒にいます」
「……ありがとう、リーゼ」
私は深く息を吸い、謁見の間の扉を開けた。
そこに立っていたのは、私の記憶とは違う人物だった。
父、ハインリヒ・フォン・シュタール伯爵。かつては威厳に満ちた貴族だった。でも、今の父は痩せこけ、髪には白いものが混じり、目の下には深い隈がある。
「フェリシア」
父の声も、かすれていた。
「……久しぶりだな」
私は黙って父を見つめた。何を言えばいいのか、分からなかった。
「リーゼロッテも。二人とも、無事で良かった」
リーゼロッテが私の後ろに隠れるように立った。妹も、父にどう接していいか分からないのだろう。
「シュタール伯爵」
グレイシアが口を開いた。
「まず、状況を説明してもらおう。なぜ、帝国に来た」
父が深く頭を下げた。
「陛下。亡命をお許しいただき、感謝いたします」
「許可したわけではない。話を聞いてから判断する」
グレイシアの声は冷たい。当然だ。この男は、私を苦しめた張本人の一人なのだから。
父の話は、長かった。
ローゼリアで何が起きたのか。王太子エーリッヒがどうやって権力を掌握したのか。そして、父がなぜ逃げてきたのか。
「エーリッヒは、狂っています」
父の声には、恐怖が滲んでいた。
「父王を幽閉し、反対派を次々と処刑している。私も、危うく捕らえられるところでした」
「処刑?」
私は眉を寄せた。
「反王太子派の貴族が、処刑されているのですか?」
「ああ。リヒター子爵の父君も、昨日処刑された」
私は息を呑んだ。リヒター子爵の父。クラウス様の父親が。
「クラウス様は……」
「彼は、私と一緒に逃げてきた。今、別室で休んでいる」
父が言った。
「彼がいなければ、私も逃げられなかった」
「シュタール伯爵」
グレイシアが冷たく言った。
「お前が逃げてきた理由は分かった。だが、一つ聞きたいことがある」
「何でしょうか」
「お前は、フェリシアの父親だ。なぜ、彼女を守らなかった」
父が顔を歪めた。
「それは……」
「アルベルト・ヴァイスが、お前の娘の成果を奪った。お前は、それを黙認した。違うか」
「……違いません」
父の声が、小さくなった。
「私は、娘を守れなかった。それは、認めます」
「なぜだ」
「……弱かったからです」
父が俯いた。
「ヴァイス家は、ローゼリアで有力な家です。逆らえば、シュタール家は潰される。私は、家を守ることを優先してしまった」
「家を守るために、娘を犠牲にしたと?」
「……はい」
父の声は、震えていた。
私は黙って聞いていた。
怒りはある。当然、ある。でも、それ以上に、虚しさがあった。
父は、弱かっただけなのだ。悪意があったわけではない。ただ、弱くて、娘を守る勇気がなかっただけ。
「父上」
私は口を開いた。
「はい」
父が顔を上げた。その目に、涙が浮かんでいる。
「私は、あなたを恨んでいました」
父が顔を歪めた。
「当然だ。恨まれて当然のことをした」
「でも」
私は続けた。
「今は、もう恨んでいません」
父が驚いた顔をした。
「フェリシア……?」
「恨んでも、何も変わりません。過去は、変えられない」
私は父を真っ直ぐに見た。
「私は、もう前を向いています。この国で、新しい人生を歩んでいます。あなたを恨むことに、時間を使いたくありません」
父の目から、涙がこぼれた。
「……すまなかった」
「謝らなくていいです」
「いや、謝らせてくれ」
父が膝をついた。
「私は、お前を守れなかった。父親として、最低のことをした。許してくれとは言わない。ただ、謝らせてくれ」
私は黙って父を見下ろした。
かつて、威厳に満ちていた父。私を見下ろしていた父。その父が、今は私の足元で膝をついている。
「……立ってください」
私は言った。
「え?」
「立ってください。みっともないです」
父がゆっくりと立ち上がった。
「私は、あなたを許します」
父の目が見開かれた。
「でも、それは忘れるという意味ではありません。あなたがしたことは、覚えています。ただ、それに囚われて生きるのは、やめます」
私は深く息を吸った。
「私は、もうシュタール家の娘ではありません。アドラー帝国の皇妃です。過去ではなく、未来を見て生きます」
父との会話が終わった後、私は廊下に出た。
「フェリシア」
グレイシアが後を追ってきた。
「大丈夫か」
「……はい」
私は微笑んだ。でも、少し疲れていた。
「嘘をつくな」
グレイシアが私の顔を覗き込んだ。
「お前は、無理をしている」
「……少しだけ」
私は認めた。
「父に会うのは、辛かったです。でも、言いたいことは言えました」
「許すと言ったな」
「はい」
「本当に、許したのか?」
私は少し考えた。
「……分かりません。でも、許そうと思っています。それが、前に進むために必要なことだから」
グレイシアが私の肩を抱いた。
「お前は、強いな」
「そうでしょうか」
「ああ。俺には、できないかもしれない」
グレイシアの声が、僅かに震えた。
「俺も、父との関係は複雑だった。だから、お前の気持ちは分かる」
私はグレイシアを見上げた。この人も、何か抱えているのだ。
「いつか、話してくれますか?」
「……ああ。いつか」
グレイシアが私の髪を撫でた。
「今は、お前のことだけ考えろ。俺の話は、また今度だ」
翌日、リヒター子爵に会った。
「フェリシア様」
クラウス様は、疲れ切った顔をしていた。でも、その目には、まだ光がある。
「お悔やみ申し上げます。お父上のこと……」
「ありがとうございます」
クラウス様が頭を下げた。
「父は、自分の信念のために死にました。後悔はしていないと思います」
「……そうですか」
「それより、フェリシア様」
クラウス様が真剣な目で私を見た。
「ローゼリアを、助けてください」
私は眉を寄せた。
「助ける?」
「はい。エーリッヒは、暴君です。このままでは、ローゼリアは滅びます」
「でも、私はもうローゼリアの人間ではありません」
「分かっています」
クラウス様が言った。
「だからこそ、お願いしているのです。帝国の皇妃として、ローゼリアを救ってください」
私は黙った。
ローゼリアを救う。かつて、私を追い出した国を。
複雑な気持ちだった。
その夜、グレイシアに相談した。
「ローゼリアを救う、か」
グレイシアが呟いた。
「どう思われますか?」
「……難しい問題だな」
グレイシアが窓の外を見た。
「帝国が介入すれば、戦争になる可能性がある。多くの犠牲が出る」
「はい」
「だが、放置すれば、エーリッヒの暴政は続く。ローゼリアの民は、苦しみ続ける」
私は頷いた。
「私は……」
言葉が詰まった。
「私は、ローゼリアを恨んでいました。でも、ローゼリアの全ての人を恨んでいるわけではありません」
「ああ」
「リーゼロッテも、クラウス様も、ローゼリアの人です。彼らのような人を、見捨てたくありません」
グレイシアが私を見た。
「お前は、どうしたい」
「……ローゼリアを、助けたいです」
私は真っ直ぐにグレイシアを見た。
「でも、戦争は避けたい。別の方法があるなら、それを探したい」
グレイシアが頷いた。
「分かった」
「え?」
「お前の望みを、叶えよう」
グレイシアが私の手を取った。
「戦争を避けながら、ローゼリアを救う方法を探す。俺たちで、一緒に考えよう」
私は涙が溢れそうになった。
「……ありがとうございます」
「礼はいらん」
グレイシアが私の頬を撫でた。
「お前は、俺の妻だ。お前の望みを叶えるのは、俺の仕事だ」
窓の外を見ると、夜明けが近づいていた。
新しい一日が始まる。新しい戦いが始まる。
でも、私は一人じゃない。
グレイシアがいる。リーゼロッテがいる。エルザも、カロリーネも、クラウス様も。
仲間がいる。
私は、もう逃げない。
この国で、この人の隣で、戦っていく。
それが、私の選択だ。




