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三歩下がれと言われたので三千里離れた国へ逃げました  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第7話 呪われた花嫁


噂が広まり始めたのは、結婚式まであと一週間という時だった。


「花嫁は呪われている」


最初にその言葉を聞いたのは、衣装合わせの帰り道だった。廊下を歩いていると、侍女たちのひそひそ話が耳に入った。


「聞いた? 皇妃候補の方、呪われているんですって」


「まあ、怖い。どういうこと?」


「祖国を追われて、婚約者にも捨てられて……。不幸を呼ぶ女だって」


私は足を止めなかった。振り向きもしなかった。ただ、背筋を伸ばして歩き続けた。


こんな噂、気にする必要はない。そう自分に言い聞かせた。


でも、噂は日に日に大きくなっていった。


「呪われた花嫁が皇妃になれば、帝国に災いが降りかかる」


「あの方の周りでは、不幸な事件が続いている」


「襲撃事件だって、呪いのせいかもしれない」


馬鹿げている。そう思いながらも、噂は確実に広がっていた。


「フェリシア様」


エルザが眉を寄せて報告してきた。


「噂の出所を調べました。どうやら、下町の酒場から広がっているようです」


「下町の酒場?」


「はい。誰かが意図的に噂を流している可能性があります」


私は頷いた。予想通りだ。こんな噂が自然に広がるはずがない。


「調べましょう。誰が、何のために流しているのか」


調査を始めて二日目。


私はエルザとリーゼロッテを連れて、下町に向かった。もちろん、護衛のハンスも一緒だ。


「姉様、本当に行くのですか?」


リーゼロッテが心配そうに聞いた。


「危険では……」


「大丈夫よ。それに、自分の目で確かめたいの」


変装して下町を歩く。質素な服を着て、髪を隠して。誰も、私が皇妃候補だとは気づかないはずだ。


「あそこです」


エルザが指差した先に、古びた酒場があった。看板には「赤い狐亭」と書かれている。


「噂の発信源は、ここだと?」


「はい。複数の証言が一致しています」


私は頷き、酒場に入った。


店内は薄暗く、酒と煙草の匂いが充満していた。


カウンターに座り、安い葡萄酒を注文する。周りの客は、私たちをちらりと見たが、すぐに興味を失ったようだ。


「ねえ、聞いた?」


隣のテーブルから、男たちの会話が聞こえてきた。


「呪われた花嫁の話か? 聞いた聞いた」


「あの女、祖国で何かやらかしたらしいぜ」


「そりゃ大変だ。皇帝陛下も災難だな」


私は黙って葡萄酒を口に運んだ。手が震えそうになるのを、必死で抑えた。


「でもよ、その話、誰から聞いたんだ?」


「んー、確か……あの兄ちゃんだったかな。最近よく来る、外国訛りの」


外国訛り。その言葉に、私は耳を澄ませた。


「ああ、あいつか。気前よく酒を奢ってくれるんだよな」


「今日も来るかな?」


「さあな。でも、あいつの話、面白いんだよ。宮廷の裏話とか、色々知ってるみたいでさ」


私はエルザと目を合わせた。


エルザが小さく頷く。同じことを考えているらしい。


「少し待ちましょう」


私はそう言って、葡萄酒をゆっくり飲んだ。


一時間ほど経った頃、酒場の扉が開いた。


入ってきたのは、三十代くらいの男。茶色の髪に、目立たない顔立ち。でも、確かに外国訛りがある。


「おう、来たな!」


常連客が声をかけた。男はにこやかに笑って、カウンターに座った。


「今日も一杯、奢らせてくれよ」


「おお、いつも悪いな!」


男が酒を注文し、周りの客と話し始める。私は聞き耳を立てた。


「なあ、あの呪われた花嫁の話、続きはあるのか?」


「ああ、あるとも」


男がにやりと笑った。


「実はな、あの女、祖国で暗殺未遂を起こしたらしいぜ」


「暗殺未遂!?」


「ああ。元婚約者を殺そうとしたんだと。それがバレて、国外追放されたんだよ」


嘘だ。全くの嘘だ。


私は拳を握りしめた。怒りで、視界が赤くなりそうだった。


「落ち着いてください」


エルザが私の腕を掴んだ。その目が、冷静に私を見ている。


「今、動いてはいけません」


「……分かっているわ」


私は深く息を吸い、怒りを抑えた。


今、あの男を問い詰めても、逃げられるだけだ。それに、背後に誰がいるのかを知る必要がある。


「エルザ、あの男を尾行できる?」


「ハンスに任せます。私はフェリシア様の護衛を」


「分かったわ」


私たちは酒場を出て、近くの路地で待機した。しばらくして、男が酒場を出てきた。ハンスが静かに後を追う。


「姉様」


リーゼロッテが私の手を握った。


「大丈夫ですか?」


「……大丈夫よ」


嘘だった。大丈夫じゃない。あんな嘘を広められて、平気でいられるはずがない。


でも、ここで取り乱すわけにはいかない。


「帰りましょう。陛下に報告しなければ」


宮殿に戻り、グレイシア陛下に報告した。


陛下は黙って聞いていた。その表情は、いつも以上に冷たい。


「……ハンスからの報告は?」


「はい」


エルザが答えた。


「男は、帝都の外れにある宿屋に入りました。現在、諜報部が監視しています」


「身元は?」


「調査中ですが……恐らく、ローゼリアからの工作員だと思われます」


陛下の目が、僅かに細くなった。


「王太子派か」


「恐らくは」


沈黙が落ちた。


私は俯いていた。悔しくて、情けなくて、顔を上げられなかった。


「フェリシア」


陛下の声が聞こえた。


「顔を上げろ」


私は顔を上げた。陛下が玉座から立ち上がり、私の前に来た。


「お前は、何も悪くない」


「でも——」


「嘘を広められたのは、お前のせいじゃない。お前は被害者だ」


陛下の手が、私の頬に触れた。


「怒っていい。悔しがっていい。だが、自分を責めるな」


「……陛下」


「俺が、必ず決着をつける」


その言葉に、私は涙が溢れそうになった。


翌日、諜報部から報告が届いた。


「男の身元が判明しました」


ヴェルナーが報告した。


「名前はフリッツ・シュミット。元ローゼリア王国軍の情報部員。現在は、ブラント侯爵家に雇われています」


「またブラント侯爵家か」


陛下が低く呟いた。


「王太子派の中核が、動いているということか」


「はい。そして——」


ヴェルナーが少し躊躇い、それから続けた。


「もう一つ、重要な情報があります」


「何だ」


「シュミットの宿屋を調べたところ、通信用の魔道具が見つかりました。ローゼリアとの連絡に使っていたようです」


「通信内容は?」


「解読中ですが、一部は既に判明しています」


ヴェルナーが紙を取り出した。


「『計画は順調。噂は広まっている。本番は予定通り、結婚式当日に決行する』」


私は息を呑んだ。


「結婚式当日……」


「はい。王太子派は、結婚式で何かを企んでいます」


会議は長引いた。


警備の強化、招待客の再確認、当日の動線の見直し。様々な対策が議論された。


「結婚式を延期するという選択肢は?」


誰かが提案した。


「それはない」


即座に否定したのは、グレイシア陛下だった。


「延期すれば、王太子派の思う壺だ。俺たちが怯えていると見せることになる」


「しかし、陛下——」


「フェリシア」


陛下が私を見た。


「お前は、どう思う」


私は少し考え、それから答えた。


「……予定通り、行いたいです」


「理由は?」


「逃げたくないからです」


私は真っ直ぐに陛下を見た。


「ローゼリアから逃げて、この国に来ました。でも、もう逃げたくありません。ここが、私の居場所だから」


陛下の目が、僅かに和らいだ。


「……分かった」


陛下が立ち上がった。


「結婚式は予定通り行う。全員、準備を怠るな」


会議が終わり、皆が退出した後。


私は執務室に残った。


「陛下」


「何だ」


「……ありがとうございます」


陛下が私を見た。


「何に対しての礼だ」


「私の意見を、聞いてくださったことに」


陛下は少し黙り、それから口を開いた。


「お前は、俺の花嫁だ。お前の意見を聞くのは、当然のことだ」


「でも——」


「それに」


陛下が私に近づいた。


「お前の答えは、俺と同じだった」


「……同じ?」


「ああ。逃げたくない。ここが、俺たちの居場所だから」


陛下の手が、私の手を取った。


「俺たちは、似ているのかもしれないな」


その言葉に、私は微笑んだ。


「……そうかもしれません」


窓の外を見ると、夕日が沈んでいた。


結婚式まで、あと五日。


王太子派は、何を企んでいるのか。噂の先に、何があるのか。


まだ分からないことは多い。でも、一つだけ確かなことがある。


私は、この人の隣で戦う。


何があっても、逃げない。


それが、私の選択だ。

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― 新着の感想 ―
敵「後悔するぞ、無事結婚式できると思うなよ」 敵「酒場に口がうまいやつを派遣して相手の悪い噂を広めてやるぜ」 味方「いつのまにか悪い噂が広がっているぞ…困った、悪い噂の出元を確かめに妃様が酒場に出向…
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