第7話 呪われた花嫁
噂が広まり始めたのは、結婚式まであと一週間という時だった。
「花嫁は呪われている」
最初にその言葉を聞いたのは、衣装合わせの帰り道だった。廊下を歩いていると、侍女たちのひそひそ話が耳に入った。
「聞いた? 皇妃候補の方、呪われているんですって」
「まあ、怖い。どういうこと?」
「祖国を追われて、婚約者にも捨てられて……。不幸を呼ぶ女だって」
私は足を止めなかった。振り向きもしなかった。ただ、背筋を伸ばして歩き続けた。
こんな噂、気にする必要はない。そう自分に言い聞かせた。
でも、噂は日に日に大きくなっていった。
「呪われた花嫁が皇妃になれば、帝国に災いが降りかかる」
「あの方の周りでは、不幸な事件が続いている」
「襲撃事件だって、呪いのせいかもしれない」
馬鹿げている。そう思いながらも、噂は確実に広がっていた。
「フェリシア様」
エルザが眉を寄せて報告してきた。
「噂の出所を調べました。どうやら、下町の酒場から広がっているようです」
「下町の酒場?」
「はい。誰かが意図的に噂を流している可能性があります」
私は頷いた。予想通りだ。こんな噂が自然に広がるはずがない。
「調べましょう。誰が、何のために流しているのか」
調査を始めて二日目。
私はエルザとリーゼロッテを連れて、下町に向かった。もちろん、護衛のハンスも一緒だ。
「姉様、本当に行くのですか?」
リーゼロッテが心配そうに聞いた。
「危険では……」
「大丈夫よ。それに、自分の目で確かめたいの」
変装して下町を歩く。質素な服を着て、髪を隠して。誰も、私が皇妃候補だとは気づかないはずだ。
「あそこです」
エルザが指差した先に、古びた酒場があった。看板には「赤い狐亭」と書かれている。
「噂の発信源は、ここだと?」
「はい。複数の証言が一致しています」
私は頷き、酒場に入った。
店内は薄暗く、酒と煙草の匂いが充満していた。
カウンターに座り、安い葡萄酒を注文する。周りの客は、私たちをちらりと見たが、すぐに興味を失ったようだ。
「ねえ、聞いた?」
隣のテーブルから、男たちの会話が聞こえてきた。
「呪われた花嫁の話か? 聞いた聞いた」
「あの女、祖国で何かやらかしたらしいぜ」
「そりゃ大変だ。皇帝陛下も災難だな」
私は黙って葡萄酒を口に運んだ。手が震えそうになるのを、必死で抑えた。
「でもよ、その話、誰から聞いたんだ?」
「んー、確か……あの兄ちゃんだったかな。最近よく来る、外国訛りの」
外国訛り。その言葉に、私は耳を澄ませた。
「ああ、あいつか。気前よく酒を奢ってくれるんだよな」
「今日も来るかな?」
「さあな。でも、あいつの話、面白いんだよ。宮廷の裏話とか、色々知ってるみたいでさ」
私はエルザと目を合わせた。
エルザが小さく頷く。同じことを考えているらしい。
「少し待ちましょう」
私はそう言って、葡萄酒をゆっくり飲んだ。
一時間ほど経った頃、酒場の扉が開いた。
入ってきたのは、三十代くらいの男。茶色の髪に、目立たない顔立ち。でも、確かに外国訛りがある。
「おう、来たな!」
常連客が声をかけた。男はにこやかに笑って、カウンターに座った。
「今日も一杯、奢らせてくれよ」
「おお、いつも悪いな!」
男が酒を注文し、周りの客と話し始める。私は聞き耳を立てた。
「なあ、あの呪われた花嫁の話、続きはあるのか?」
「ああ、あるとも」
男がにやりと笑った。
「実はな、あの女、祖国で暗殺未遂を起こしたらしいぜ」
「暗殺未遂!?」
「ああ。元婚約者を殺そうとしたんだと。それがバレて、国外追放されたんだよ」
嘘だ。全くの嘘だ。
私は拳を握りしめた。怒りで、視界が赤くなりそうだった。
「落ち着いてください」
エルザが私の腕を掴んだ。その目が、冷静に私を見ている。
「今、動いてはいけません」
「……分かっているわ」
私は深く息を吸い、怒りを抑えた。
今、あの男を問い詰めても、逃げられるだけだ。それに、背後に誰がいるのかを知る必要がある。
「エルザ、あの男を尾行できる?」
「ハンスに任せます。私はフェリシア様の護衛を」
「分かったわ」
私たちは酒場を出て、近くの路地で待機した。しばらくして、男が酒場を出てきた。ハンスが静かに後を追う。
「姉様」
リーゼロッテが私の手を握った。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫よ」
嘘だった。大丈夫じゃない。あんな嘘を広められて、平気でいられるはずがない。
でも、ここで取り乱すわけにはいかない。
「帰りましょう。陛下に報告しなければ」
宮殿に戻り、グレイシア陛下に報告した。
陛下は黙って聞いていた。その表情は、いつも以上に冷たい。
「……ハンスからの報告は?」
「はい」
エルザが答えた。
「男は、帝都の外れにある宿屋に入りました。現在、諜報部が監視しています」
「身元は?」
「調査中ですが……恐らく、ローゼリアからの工作員だと思われます」
陛下の目が、僅かに細くなった。
「王太子派か」
「恐らくは」
沈黙が落ちた。
私は俯いていた。悔しくて、情けなくて、顔を上げられなかった。
「フェリシア」
陛下の声が聞こえた。
「顔を上げろ」
私は顔を上げた。陛下が玉座から立ち上がり、私の前に来た。
「お前は、何も悪くない」
「でも——」
「嘘を広められたのは、お前のせいじゃない。お前は被害者だ」
陛下の手が、私の頬に触れた。
「怒っていい。悔しがっていい。だが、自分を責めるな」
「……陛下」
「俺が、必ず決着をつける」
その言葉に、私は涙が溢れそうになった。
翌日、諜報部から報告が届いた。
「男の身元が判明しました」
ヴェルナーが報告した。
「名前はフリッツ・シュミット。元ローゼリア王国軍の情報部員。現在は、ブラント侯爵家に雇われています」
「またブラント侯爵家か」
陛下が低く呟いた。
「王太子派の中核が、動いているということか」
「はい。そして——」
ヴェルナーが少し躊躇い、それから続けた。
「もう一つ、重要な情報があります」
「何だ」
「シュミットの宿屋を調べたところ、通信用の魔道具が見つかりました。ローゼリアとの連絡に使っていたようです」
「通信内容は?」
「解読中ですが、一部は既に判明しています」
ヴェルナーが紙を取り出した。
「『計画は順調。噂は広まっている。本番は予定通り、結婚式当日に決行する』」
私は息を呑んだ。
「結婚式当日……」
「はい。王太子派は、結婚式で何かを企んでいます」
会議は長引いた。
警備の強化、招待客の再確認、当日の動線の見直し。様々な対策が議論された。
「結婚式を延期するという選択肢は?」
誰かが提案した。
「それはない」
即座に否定したのは、グレイシア陛下だった。
「延期すれば、王太子派の思う壺だ。俺たちが怯えていると見せることになる」
「しかし、陛下——」
「フェリシア」
陛下が私を見た。
「お前は、どう思う」
私は少し考え、それから答えた。
「……予定通り、行いたいです」
「理由は?」
「逃げたくないからです」
私は真っ直ぐに陛下を見た。
「ローゼリアから逃げて、この国に来ました。でも、もう逃げたくありません。ここが、私の居場所だから」
陛下の目が、僅かに和らいだ。
「……分かった」
陛下が立ち上がった。
「結婚式は予定通り行う。全員、準備を怠るな」
会議が終わり、皆が退出した後。
私は執務室に残った。
「陛下」
「何だ」
「……ありがとうございます」
陛下が私を見た。
「何に対しての礼だ」
「私の意見を、聞いてくださったことに」
陛下は少し黙り、それから口を開いた。
「お前は、俺の花嫁だ。お前の意見を聞くのは、当然のことだ」
「でも——」
「それに」
陛下が私に近づいた。
「お前の答えは、俺と同じだった」
「……同じ?」
「ああ。逃げたくない。ここが、俺たちの居場所だから」
陛下の手が、私の手を取った。
「俺たちは、似ているのかもしれないな」
その言葉に、私は微笑んだ。
「……そうかもしれません」
窓の外を見ると、夕日が沈んでいた。
結婚式まで、あと五日。
王太子派は、何を企んでいるのか。噂の先に、何があるのか。
まだ分からないことは多い。でも、一つだけ確かなことがある。
私は、この人の隣で戦う。
何があっても、逃げない。
それが、私の選択だ。




