表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三歩下がれと言われたので三千里離れた国へ逃げました  作者: 秋月 もみじ
第3章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/30

第5話 夜襲の後に


朝が来るのが、こんなに長く感じたのは久しぶりだった。


東宮別棟の医務室。簡素な寝台の上で、リーゼロッテはまだ眠っている。右腕に巻かれた包帯が痛々しい。浅い傷だと医師は言った。でも、あの時の叫び声は今も耳に残っている。


「姉様」


低い声が聞こえて、私は目を開けた。いつの間にか、椅子に座ったまま眠っていたらしい。窓から差し込む朝日が眩しい。リーゼロッテが寝台の上で身を起こしていた。


「リーゼ、動かないで。傷に触るわ」


「大丈夫です。もう痛みもほとんど……」


そう言いながら、リーゼロッテは右腕をそっと押さえた。その仕草を見て、私は胸が締め付けられる。


私を守ろうとして、妹が傷ついた。それが、どうしようもなく悔しかった。


「お二人とも、おはようございます」


扉が開いて、エルザが入ってきた。いつもの冷静な表情だが、目の下に薄い隈がある。彼女も一晩中、警備の手配に奔走していたのだ。


「陛下から伝言です。リーゼロッテ様の回復を確認次第、執務室へ来てほしいと」


「……分かりました」


私は立ち上がり、リーゼロッテの額に手を当てた。熱はない。顔色も悪くない。


「リーゼ、私は少し席を外すわ。エルザに何かあれば伝えて」


「姉様」


リーゼロッテが私の袖を掴んだ。その目に、不安と決意が混ざっている。


「私も、行きます」


「駄目よ。まだ安静に——」


「駄目じゃありません」


強い声だった。私の知っている、控えめな妹の声ではない。


「私は姉様を追いかけて、この国に来ました。姉様の傍にいると決めました。だから、姉様が戦う場所に、私もいたいんです」


その言葉に、私は何も言えなかった。リーゼロッテは昔から、こういう子だった。普段は大人しいのに、決めたことは絶対に曲げない。


「……分かったわ。でも、少しでも辛くなったら言うこと」


「はい」


リーゼロッテが微笑んだ。その笑顔が、少しだけ姉に似ていると言われたことを思い出す。


皇帝の執務室には、既に数人が集まっていた。


グレイシア陛下が机の前に立ち、その隣にハンス副騎士団長。そして、見覚えのない男が一人。黒い外套を纏い、フードを深く被っている。


「来たか」


グレイシア陛下が私たちを見て頷いた。その視線が一瞬リーゼロッテに向けられ、「傷は」と短く問う。


「浅い傷です。お気遣い、ありがとうございます」


リーゼロッテが答えると、陛下は小さく頷いた。そして、黒い外套の男を示した。


「紹介する。帝国諜報部のヴェルナー。昨夜の襲撃について、調査結果が出た」


ヴェルナーと呼ばれた男がフードを下ろした。三十代半ばくらいの、鋭い目をした男。無表情だが、どこか油断ならない雰囲気がある。


「フェリシア・シュタール殿、リーゼロッテ・シュタール殿。初めまして」


低い声で挨拶し、ヴェルナーは懐から数枚の紙を取り出した。


「昨夜の襲撃者について、身元が判明しました」


ヴェルナーの報告は、予想通りであり、予想以上だった。


「襲撃者の名はゲオルク・ミュラー。元ローゼリア王国軍の下級騎士。三年前に除隊し、その後はブラント侯爵家に仕えていました」


ブラント侯爵家。昨夜、リーゼロッテが見つけた紋章の家。


「現在、ブラント侯爵家は王太子派の中核を担っています。特に、侯爵の弟であるディートリヒ・フォン・ブラントは、王太子の側近として知られています」


私は眉を寄せた。王太子派が動いているのは分かっていた。でも、ここまで直接的な行動に出るとは。


「暗殺未遂は、国際法上の重大な違反です」


グレイシア陛下が冷たく言った。


「昨日の使者の脅迫といい、今回の襲撃といい……ローゼリアは完全に一線を越えた」


「陛下」


ヴェルナーが口を開いた。


「問題は、王太子派の単独行動なのか、それとも王家の意思なのかです。現時点では、判断がつきません」


「父は……」


リーゼロッテが声を上げた。皆の視線が集まる。


「父は、王太子派とは距離を置いていました。少なくとも、私が国を出る前は」


「シュタール伯爵か」


ヴェルナーが頷いた。


「確かに、シュタール伯爵家は王太子派に属していません。しかし、中立派と見るべきか、それとも別の勢力と見るべきか」


「……別の勢力?」


私は首を傾げた。リーゼロッテも同じ表情をしている。


「詳細は調査中です。ただ、ローゼリア国内の情勢が不安定化しているのは確かです」


会議が一段落し、ヴェルナーとハンスが退出した。


執務室に残ったのは、グレイシア陛下と私、そしてリーゼロッテの三人。


「リーゼロッテ」


陛下が妹の名を呼んだ。


「お前に聞きたいことがある」


「はい」


リーゼロッテが背筋を伸ばした。


「お前が帝国に来た理由。姉を追いかけたというのは分かる。だが、それだけか?」


沈黙が落ちた。リーゼロッテの表情が、僅かに曇る。


「……お分かりなのですね」


「分かる。お前の目は、ただ姉を慕う妹の目ではない」


グレイシア陛下の声は冷たくない。ただ、真実を求めているだけだ。


リーゼロッテは深く息を吸い、そして口を開いた。


「私は、情報を持って来ました。ローゼリアの内情を、姉様と陛下にお伝えするために」


「リーゼ……」


「姉様、黙っていてごめんなさい」


リーゼロッテが私を見た。その目に、罪悪感と覚悟が混ざっている。


「私は、ただ姉様に会いたかっただけじゃないんです。ローゼリアで起きていることを、知ってほしかった」


リーゼロッテの話は、衝撃的だった。


ローゼリア国内では、王太子派と反王太子派の対立が激化している。王太子エーリッヒは、父王の病を理由に摂政の座を狙っているという。


「父王は、本当に病なのですか?」


私が問うと、リーゼロッテは首を横に振った。


「分かりません。ただ、公の場に姿を見せなくなって、もう三ヶ月になります」


三ヶ月。私が帝国に来てから、ずっとということになる。


「王太子派は、父王の病を利用して権力を握ろうとしています。そして、その障害になるものは……」


「排除する、か」


グレイシア陛下が低く呟いた。


「フェリシアを狙う理由は何だ。既に国外追放されたはずだが」


「それは……」


リーゼロッテが言い淀んだ。何か、言いにくいことがあるらしい。


「リーゼ」


私は妹の手を取った。


「大丈夫よ。何でも言って」


リーゼロッテは私の手を握り返し、そして意を決したように口を開いた。


「王太子派は、姉様を『帝国のスパイ』として断罪したいのです」


「は?」


思わず声が出た。


「スパイ? 私が?」


「姉様がローゼリアにいた頃の業務。あの改竄された書類を、『帝国に機密を流した証拠』として使おうとしているんです」


呆れるのを通り越して、笑いそうになった。


あの改竄された書類。アルベルトが私の成果を奪うために作ったもの。それを今度は、私を陥れるために使うというのか。


「なるほど」


グレイシア陛下の声が、静かに響いた。


「フェリシアを断罪することで、帝国との関係を悪化させる。そして、その混乱に乗じて権力を握る」


「恐らく、そういうことだと思います」


リーゼロッテが頷いた。


「だから、私は姉様に警告しなければと思いました。そして、できるなら……帝国に、協力してほしいと」


「協力?」


「はい」


リーゼロッテが真っ直ぐにグレイシア陛下を見た。


「王太子派を止められるのは、帝国だけです。外圧がなければ、ローゼリアは王太子の手に落ちます。そうなれば、帝国との関係は最悪になり、戦争になるかもしれません」


私は妹を見つめた。この子は、私が思っていたよりずっと強かった。


そして、ずっと孤独に戦っていたのだ。


「陛下」


私は口を開いた。


「リーゼロッテの情報を、どうお考えですか」


グレイシア陛下は少し考え、それから答えた。


「信用できる。少なくとも、昨夜の襲撃と一致する」


リーゼロッテの肩から、僅かに力が抜けた。


「ただし」


陛下が続けた。


「帝国が直接介入するには、大義名分が必要だ。現時点では、王太子派の暴走としか言えない」


「……確かに」


「だが」


陛下の目が、私を捉えた。氷のような青い目。でも、その奥に温かさがある。


「お前たちを守ることに、大義名分は必要ない」


私は息を呑んだ。


「陛下……」


「フェリシア。リーゼロッテ。お前たちは、帝国が守る。それは、俺が決めることだ」


その言葉に、リーゼロッテが目を潤ませた。私も、胸が熱くなるのを感じた。


会議を終えて、執務室を出る時。


グレイシア陛下が私の腕を掴んだ。


「フェリシア。少し残れ」


リーゼロッテがエルザに連れられて去った後、陛下は私の顔を覗き込んだ。


「昨夜、眠れなかっただろう」


「……少し」


嘘をついても仕方がない。陛下には、何でも見透かされる気がする。


「お前は、自分を責めている」


「……」


「妹が傷ついたのは、自分のせいだと」


図星だった。私は目を伏せた。


「違う」


陛下の手が、私の頬に触れた。冷たいと思っていたその手は、意外なほど温かかった。


「お前のせいじゃない。狙ったのは、王太子派だ。お前は何も悪くない」


「でも——」


「お前がここにいることを、俺は望んだ。それを忘れるな」


静かな、でも強い声。私は顔を上げた。


「陛下……」


「結婚式まで、あと二週間だ」


陛下の目が、真っ直ぐに私を見ている。


「それまでに、必ず安全を確保する。お前の妹も、お前自身も。俺の花嫁を、誰にも傷つけさせない」


その言葉に、私は涙が溢れそうになった。


「……ありがとうございます」


「礼はいらない」


陛下の手が、私の頭をそっと撫でた。


「俺の花嫁を守るのは、俺の仕事だ」


執務室を出て、廊下を歩く。


心の中に、温かい何かが広がっていた。


まだ、問題は山積みだ。王太子派の脅威。ローゼリアの内乱。結婚式までの安全確保。


でも、一人じゃない。


グレイシア陛下がいる。リーゼロッテがいる。エルザやカロリーネもいる。


私は、もう一人で戦わなくていいのだ。


窓の外を見ると、青空が広がっていた。雲一つない、澄んだ空。


結婚式まで、あと二週間。


何があっても、私はこの国で、この人の隣で、生きていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
父親は王太子派に取り込まれていたとほんの数日前に語っていたのに、王太子派とは距離を置いていたと矛盾が生じています。
前話では結婚式まであと9日となっていますがこの話ではあと2週間に?? そして妹はいつ怪我したのか?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ