第5話 夜襲の後に
朝が来るのが、こんなに長く感じたのは久しぶりだった。
東宮別棟の医務室。簡素な寝台の上で、リーゼロッテはまだ眠っている。右腕に巻かれた包帯が痛々しい。浅い傷だと医師は言った。でも、あの時の叫び声は今も耳に残っている。
「姉様」
低い声が聞こえて、私は目を開けた。いつの間にか、椅子に座ったまま眠っていたらしい。窓から差し込む朝日が眩しい。リーゼロッテが寝台の上で身を起こしていた。
「リーゼ、動かないで。傷に触るわ」
「大丈夫です。もう痛みもほとんど……」
そう言いながら、リーゼロッテは右腕をそっと押さえた。その仕草を見て、私は胸が締め付けられる。
私を守ろうとして、妹が傷ついた。それが、どうしようもなく悔しかった。
「お二人とも、おはようございます」
扉が開いて、エルザが入ってきた。いつもの冷静な表情だが、目の下に薄い隈がある。彼女も一晩中、警備の手配に奔走していたのだ。
「陛下から伝言です。リーゼロッテ様の回復を確認次第、執務室へ来てほしいと」
「……分かりました」
私は立ち上がり、リーゼロッテの額に手を当てた。熱はない。顔色も悪くない。
「リーゼ、私は少し席を外すわ。エルザに何かあれば伝えて」
「姉様」
リーゼロッテが私の袖を掴んだ。その目に、不安と決意が混ざっている。
「私も、行きます」
「駄目よ。まだ安静に——」
「駄目じゃありません」
強い声だった。私の知っている、控えめな妹の声ではない。
「私は姉様を追いかけて、この国に来ました。姉様の傍にいると決めました。だから、姉様が戦う場所に、私もいたいんです」
その言葉に、私は何も言えなかった。リーゼロッテは昔から、こういう子だった。普段は大人しいのに、決めたことは絶対に曲げない。
「……分かったわ。でも、少しでも辛くなったら言うこと」
「はい」
リーゼロッテが微笑んだ。その笑顔が、少しだけ姉に似ていると言われたことを思い出す。
皇帝の執務室には、既に数人が集まっていた。
グレイシア陛下が机の前に立ち、その隣にハンス副騎士団長。そして、見覚えのない男が一人。黒い外套を纏い、フードを深く被っている。
「来たか」
グレイシア陛下が私たちを見て頷いた。その視線が一瞬リーゼロッテに向けられ、「傷は」と短く問う。
「浅い傷です。お気遣い、ありがとうございます」
リーゼロッテが答えると、陛下は小さく頷いた。そして、黒い外套の男を示した。
「紹介する。帝国諜報部のヴェルナー。昨夜の襲撃について、調査結果が出た」
ヴェルナーと呼ばれた男がフードを下ろした。三十代半ばくらいの、鋭い目をした男。無表情だが、どこか油断ならない雰囲気がある。
「フェリシア・シュタール殿、リーゼロッテ・シュタール殿。初めまして」
低い声で挨拶し、ヴェルナーは懐から数枚の紙を取り出した。
「昨夜の襲撃者について、身元が判明しました」
ヴェルナーの報告は、予想通りであり、予想以上だった。
「襲撃者の名はゲオルク・ミュラー。元ローゼリア王国軍の下級騎士。三年前に除隊し、その後はブラント侯爵家に仕えていました」
ブラント侯爵家。昨夜、リーゼロッテが見つけた紋章の家。
「現在、ブラント侯爵家は王太子派の中核を担っています。特に、侯爵の弟であるディートリヒ・フォン・ブラントは、王太子の側近として知られています」
私は眉を寄せた。王太子派が動いているのは分かっていた。でも、ここまで直接的な行動に出るとは。
「暗殺未遂は、国際法上の重大な違反です」
グレイシア陛下が冷たく言った。
「昨日の使者の脅迫といい、今回の襲撃といい……ローゼリアは完全に一線を越えた」
「陛下」
ヴェルナーが口を開いた。
「問題は、王太子派の単独行動なのか、それとも王家の意思なのかです。現時点では、判断がつきません」
「父は……」
リーゼロッテが声を上げた。皆の視線が集まる。
「父は、王太子派とは距離を置いていました。少なくとも、私が国を出る前は」
「シュタール伯爵か」
ヴェルナーが頷いた。
「確かに、シュタール伯爵家は王太子派に属していません。しかし、中立派と見るべきか、それとも別の勢力と見るべきか」
「……別の勢力?」
私は首を傾げた。リーゼロッテも同じ表情をしている。
「詳細は調査中です。ただ、ローゼリア国内の情勢が不安定化しているのは確かです」
会議が一段落し、ヴェルナーとハンスが退出した。
執務室に残ったのは、グレイシア陛下と私、そしてリーゼロッテの三人。
「リーゼロッテ」
陛下が妹の名を呼んだ。
「お前に聞きたいことがある」
「はい」
リーゼロッテが背筋を伸ばした。
「お前が帝国に来た理由。姉を追いかけたというのは分かる。だが、それだけか?」
沈黙が落ちた。リーゼロッテの表情が、僅かに曇る。
「……お分かりなのですね」
「分かる。お前の目は、ただ姉を慕う妹の目ではない」
グレイシア陛下の声は冷たくない。ただ、真実を求めているだけだ。
リーゼロッテは深く息を吸い、そして口を開いた。
「私は、情報を持って来ました。ローゼリアの内情を、姉様と陛下にお伝えするために」
「リーゼ……」
「姉様、黙っていてごめんなさい」
リーゼロッテが私を見た。その目に、罪悪感と覚悟が混ざっている。
「私は、ただ姉様に会いたかっただけじゃないんです。ローゼリアで起きていることを、知ってほしかった」
リーゼロッテの話は、衝撃的だった。
ローゼリア国内では、王太子派と反王太子派の対立が激化している。王太子エーリッヒは、父王の病を理由に摂政の座を狙っているという。
「父王は、本当に病なのですか?」
私が問うと、リーゼロッテは首を横に振った。
「分かりません。ただ、公の場に姿を見せなくなって、もう三ヶ月になります」
三ヶ月。私が帝国に来てから、ずっとということになる。
「王太子派は、父王の病を利用して権力を握ろうとしています。そして、その障害になるものは……」
「排除する、か」
グレイシア陛下が低く呟いた。
「フェリシアを狙う理由は何だ。既に国外追放されたはずだが」
「それは……」
リーゼロッテが言い淀んだ。何か、言いにくいことがあるらしい。
「リーゼ」
私は妹の手を取った。
「大丈夫よ。何でも言って」
リーゼロッテは私の手を握り返し、そして意を決したように口を開いた。
「王太子派は、姉様を『帝国のスパイ』として断罪したいのです」
「は?」
思わず声が出た。
「スパイ? 私が?」
「姉様がローゼリアにいた頃の業務。あの改竄された書類を、『帝国に機密を流した証拠』として使おうとしているんです」
呆れるのを通り越して、笑いそうになった。
あの改竄された書類。アルベルトが私の成果を奪うために作ったもの。それを今度は、私を陥れるために使うというのか。
「なるほど」
グレイシア陛下の声が、静かに響いた。
「フェリシアを断罪することで、帝国との関係を悪化させる。そして、その混乱に乗じて権力を握る」
「恐らく、そういうことだと思います」
リーゼロッテが頷いた。
「だから、私は姉様に警告しなければと思いました。そして、できるなら……帝国に、協力してほしいと」
「協力?」
「はい」
リーゼロッテが真っ直ぐにグレイシア陛下を見た。
「王太子派を止められるのは、帝国だけです。外圧がなければ、ローゼリアは王太子の手に落ちます。そうなれば、帝国との関係は最悪になり、戦争になるかもしれません」
私は妹を見つめた。この子は、私が思っていたよりずっと強かった。
そして、ずっと孤独に戦っていたのだ。
「陛下」
私は口を開いた。
「リーゼロッテの情報を、どうお考えですか」
グレイシア陛下は少し考え、それから答えた。
「信用できる。少なくとも、昨夜の襲撃と一致する」
リーゼロッテの肩から、僅かに力が抜けた。
「ただし」
陛下が続けた。
「帝国が直接介入するには、大義名分が必要だ。現時点では、王太子派の暴走としか言えない」
「……確かに」
「だが」
陛下の目が、私を捉えた。氷のような青い目。でも、その奥に温かさがある。
「お前たちを守ることに、大義名分は必要ない」
私は息を呑んだ。
「陛下……」
「フェリシア。リーゼロッテ。お前たちは、帝国が守る。それは、俺が決めることだ」
その言葉に、リーゼロッテが目を潤ませた。私も、胸が熱くなるのを感じた。
会議を終えて、執務室を出る時。
グレイシア陛下が私の腕を掴んだ。
「フェリシア。少し残れ」
リーゼロッテがエルザに連れられて去った後、陛下は私の顔を覗き込んだ。
「昨夜、眠れなかっただろう」
「……少し」
嘘をついても仕方がない。陛下には、何でも見透かされる気がする。
「お前は、自分を責めている」
「……」
「妹が傷ついたのは、自分のせいだと」
図星だった。私は目を伏せた。
「違う」
陛下の手が、私の頬に触れた。冷たいと思っていたその手は、意外なほど温かかった。
「お前のせいじゃない。狙ったのは、王太子派だ。お前は何も悪くない」
「でも——」
「お前がここにいることを、俺は望んだ。それを忘れるな」
静かな、でも強い声。私は顔を上げた。
「陛下……」
「結婚式まで、あと二週間だ」
陛下の目が、真っ直ぐに私を見ている。
「それまでに、必ず安全を確保する。お前の妹も、お前自身も。俺の花嫁を、誰にも傷つけさせない」
その言葉に、私は涙が溢れそうになった。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
陛下の手が、私の頭をそっと撫でた。
「俺の花嫁を守るのは、俺の仕事だ」
執務室を出て、廊下を歩く。
心の中に、温かい何かが広がっていた。
まだ、問題は山積みだ。王太子派の脅威。ローゼリアの内乱。結婚式までの安全確保。
でも、一人じゃない。
グレイシア陛下がいる。リーゼロッテがいる。エルザやカロリーネもいる。
私は、もう一人で戦わなくていいのだ。
窓の外を見ると、青空が広がっていた。雲一つない、澄んだ空。
結婚式まで、あと二週間。
何があっても、私はこの国で、この人の隣で、生きていく。




