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三歩下がれと言われたので三千里離れた国へ逃げました  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第4話 影の刃


その夜は、妙に静かだった。


東宮別棟の廊下を歩きながら、私は窓の外を見た。月明かりが中庭を照らしている。穏やかな夜。でも、胸騒ぎが消えない。


使者が去ってから一日。警備は強化されたが、何も起きていない。それが逆に、不安を煽っていた。


「後悔することになる」


ブラント侯爵の言葉が、頭から離れない。


リーゼロッテの部屋を確認しようと、廊下を進んだ。彼女の部屋は私の隣——数歩の距離だ。


その時だった。


悲鳴が聞こえた。


「——っ!」


リーゼロッテの声。考えるより先に、体が動いていた。


部屋の扉を蹴り開けた。


中は暗かった。月明かりだけが、窓から差し込んでいる。その薄明かりの中に、二つの影が見えた。


一つは、ベッドの端で怯えているリーゼロッテ。


もう一つは——黒い服を着た男が、短剣を構えて立っていた。


「姉様!」


「リーゼロッテ、伏せて!」


叫ぶと同時に、私は動いた。


前世の記憶。人事部長として働いていた頃、会社の方針で護身術の研修を受けたことがある。実戦で使う日が来るとは思わなかったが——体は覚えていた。


暗殺者が振り向いた。短剣がこちらを向く。


私は低い姿勢で踏み込み、相手の腕を掴んだ。手首を捻り、てこの原理で——


「ぐっ!」


暗殺者がバランスを崩した。短剣が床に落ちる。その隙に、私は彼の背後に回り込み、腕を極めた。


「動くな」


「くそっ——!」


暗殺者がもがいたが、関節を極められた状態では動けない。


「リーゼロッテ、衛兵を呼んで!」


「は、はい!」


妹が部屋を飛び出していった。私は暗殺者を押さえつけたまま、必死で呼吸を整えた。心臓が破裂しそうなほど速く打っている。


数分後、衛兵たちが駆けつけてきた。


暗殺者は衛兵に引き渡され、応接室で事情聴取が行われることになった。


私はリーゼロッテと共に、エルザの到着を待っていた。妹の手が、まだ震えている。


「大丈夫?」


「はい……姉様こそ、怪我はありませんか」


「私は平気よ」


嘘だった。膝が笑っている。でも、妹の前で弱いところは見せられない。


「姉様、すごかったです。あの動き……」


「昔、護身術を習ったの。まさか役に立つとは思わなかったけど」


「護身術……」


リーゼロッテが不思議そうな顔をした。前世のことは話していない。説明が難しいので、曖昧に誤魔化すしかない。


扉が開き、エルザが入ってきた。


「フェリシア様、ご無事で何よりです」


「エルザさん。暗殺者は?」


「尋問中です。それと——」


エルザが、小さな布切れを差し出した。


「暗殺者の所持品から、これが見つかりました」


受け取って、広げる。金糸で刺繍された紋章——鷲と剣を組み合わせた意匠。


「この紋章は……」


「ブラント侯爵家のものです」


心臓が冷たくなった。


ブラント侯爵。昨日の使者。「後悔することになる」と言った男。


「つまり、あの使者が——」


「断定はできません。紋章だけでは、証拠として弱い。ただ……」


エルザの目が鋭くなった。


「状況的には、王太子派の犯行と見て間違いないでしょう」


リーゼロッテが震えた。


「私を……狙ったんですか」


「おそらく。フェリシア様を直接狙うより、まず妹君を——という計算かもしれません」


卑劣だ。私を傷つけるために、妹を狙う。そんな手段を、平気で使う連中だ。


「陛下に報告しなければなりません。フェリシア様、ご一緒に」


「はい」


立ち上がろうとして、膝が震えた。エルザが素早く支えてくれる。


「無理をなさらず」


「大丈夫です。行きましょう」


皇帝の執務室に入ると、グレイシアは窓際に立っていた。


報告を受けて、すぐに起きてきたのだろう。普段の正装ではなく、簡素な上着を羽織っている。


「フェリシア」


振り返った彼の目に、見たことのない感情が浮かんでいた。


「怪我は」


「ありません。私は無事です」


「そうか」


グレイシアが歩み寄ってきた。そして——


私を、抱きしめた。


「陛下……?」


「……無事で良かった」


低い声が、耳元で響いた。彼の腕が、強く私を包んでいる。いつもは感情を見せないこの人が、こんなにも——


「心配しました?」


「当然だ」


ぶっきらぼうな声。でも、その腕は震えていた。


「報告を聞いた時、頭が真っ白になった。お前に何かあったらと——」


「大丈夫です。私は、ここにいます」


「ああ……」


しばらく、そのままでいた。彼の心臓の音が聞こえる。いつもより速い。


「……すまない。取り乱した」


グレイシアが腕を解いた。でも、その手は私の肩に残っている。


「謝らないでください。嬉しかったです」


「嬉しい?」


「心配してくれて」


グレイシアの耳が赤くなった。咳払いをして、彼は執務机に向かった。


「それで、犯人は」


エルザが報告を引き継いだ。暗殺者の所持品、ブラント侯爵家の紋章、王太子派との関連。グレイシアの表情が、みるみる険しくなっていく。


「あの使者か」


「状況証拠ですが、可能性は高いです」


「警備を強化しろ。リーゼロッテは、東宮ではなく宮殿内に移せ。フェリシアも——」


「私は大丈夫です」


「しかし——」


「逃げ隠れしても、狙われ続けるだけです。それより、こちらから動いた方がいい」


グレイシアが眉をひそめた。


「どういう意味だ」


「暗殺者を尋問して、王太子派の計画を暴きます。そして、公に告発する。そうすれば、彼らは動けなくなる」


「危険だ」


「このまま守りに徹する方が、危険です。結婚式まで、あと九日。それまでに、決着をつけましょう」


グレイシアが長い沈黙の後、頷いた。


「分かった。——ただし、俺の目の届く範囲にいろ」


「はい」


「約束だ」


その言葉には、命令以上の重みがあった。


廊下に出ると、リーゼロッテが待っていた。


「姉様……」


「大丈夫。もう安全よ」


「ごめんなさい。私のせいで——」


「あなたのせいじゃない」


私は妹の手を握った。


「狙われたのは、私たちが王太子派にとって都合が悪いから。それだけよ。あなたは何も悪くない」


「でも……」


「リーゼロッテ」


真っ直ぐ、妹の目を見た。


「私たちは家族よ。何があっても、守る。だから、怖がらなくていい」


リーゼロッテの目に、涙が浮かんだ。


「姉様……」


「さあ、宮殿に移ろう。今夜は一緒に寝ましょうか」


「……はい」


妹の手を引いて、廊下を歩く。


窓の外で、月が雲に隠れていく。


結婚式まで、あと九日。王太子派は、まだ諦めていない。


でも——私も、諦めない。


守るべきものがある。だから、負けない。

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