第4話 影の刃
その夜は、妙に静かだった。
東宮別棟の廊下を歩きながら、私は窓の外を見た。月明かりが中庭を照らしている。穏やかな夜。でも、胸騒ぎが消えない。
使者が去ってから一日。警備は強化されたが、何も起きていない。それが逆に、不安を煽っていた。
「後悔することになる」
ブラント侯爵の言葉が、頭から離れない。
リーゼロッテの部屋を確認しようと、廊下を進んだ。彼女の部屋は私の隣——数歩の距離だ。
その時だった。
悲鳴が聞こえた。
「——っ!」
リーゼロッテの声。考えるより先に、体が動いていた。
部屋の扉を蹴り開けた。
中は暗かった。月明かりだけが、窓から差し込んでいる。その薄明かりの中に、二つの影が見えた。
一つは、ベッドの端で怯えているリーゼロッテ。
もう一つは——黒い服を着た男が、短剣を構えて立っていた。
「姉様!」
「リーゼロッテ、伏せて!」
叫ぶと同時に、私は動いた。
前世の記憶。人事部長として働いていた頃、会社の方針で護身術の研修を受けたことがある。実戦で使う日が来るとは思わなかったが——体は覚えていた。
暗殺者が振り向いた。短剣がこちらを向く。
私は低い姿勢で踏み込み、相手の腕を掴んだ。手首を捻り、てこの原理で——
「ぐっ!」
暗殺者がバランスを崩した。短剣が床に落ちる。その隙に、私は彼の背後に回り込み、腕を極めた。
「動くな」
「くそっ——!」
暗殺者がもがいたが、関節を極められた状態では動けない。
「リーゼロッテ、衛兵を呼んで!」
「は、はい!」
妹が部屋を飛び出していった。私は暗殺者を押さえつけたまま、必死で呼吸を整えた。心臓が破裂しそうなほど速く打っている。
数分後、衛兵たちが駆けつけてきた。
暗殺者は衛兵に引き渡され、応接室で事情聴取が行われることになった。
私はリーゼロッテと共に、エルザの到着を待っていた。妹の手が、まだ震えている。
「大丈夫?」
「はい……姉様こそ、怪我はありませんか」
「私は平気よ」
嘘だった。膝が笑っている。でも、妹の前で弱いところは見せられない。
「姉様、すごかったです。あの動き……」
「昔、護身術を習ったの。まさか役に立つとは思わなかったけど」
「護身術……」
リーゼロッテが不思議そうな顔をした。前世のことは話していない。説明が難しいので、曖昧に誤魔化すしかない。
扉が開き、エルザが入ってきた。
「フェリシア様、ご無事で何よりです」
「エルザさん。暗殺者は?」
「尋問中です。それと——」
エルザが、小さな布切れを差し出した。
「暗殺者の所持品から、これが見つかりました」
受け取って、広げる。金糸で刺繍された紋章——鷲と剣を組み合わせた意匠。
「この紋章は……」
「ブラント侯爵家のものです」
心臓が冷たくなった。
ブラント侯爵。昨日の使者。「後悔することになる」と言った男。
「つまり、あの使者が——」
「断定はできません。紋章だけでは、証拠として弱い。ただ……」
エルザの目が鋭くなった。
「状況的には、王太子派の犯行と見て間違いないでしょう」
リーゼロッテが震えた。
「私を……狙ったんですか」
「おそらく。フェリシア様を直接狙うより、まず妹君を——という計算かもしれません」
卑劣だ。私を傷つけるために、妹を狙う。そんな手段を、平気で使う連中だ。
「陛下に報告しなければなりません。フェリシア様、ご一緒に」
「はい」
立ち上がろうとして、膝が震えた。エルザが素早く支えてくれる。
「無理をなさらず」
「大丈夫です。行きましょう」
皇帝の執務室に入ると、グレイシアは窓際に立っていた。
報告を受けて、すぐに起きてきたのだろう。普段の正装ではなく、簡素な上着を羽織っている。
「フェリシア」
振り返った彼の目に、見たことのない感情が浮かんでいた。
「怪我は」
「ありません。私は無事です」
「そうか」
グレイシアが歩み寄ってきた。そして——
私を、抱きしめた。
「陛下……?」
「……無事で良かった」
低い声が、耳元で響いた。彼の腕が、強く私を包んでいる。いつもは感情を見せないこの人が、こんなにも——
「心配しました?」
「当然だ」
ぶっきらぼうな声。でも、その腕は震えていた。
「報告を聞いた時、頭が真っ白になった。お前に何かあったらと——」
「大丈夫です。私は、ここにいます」
「ああ……」
しばらく、そのままでいた。彼の心臓の音が聞こえる。いつもより速い。
「……すまない。取り乱した」
グレイシアが腕を解いた。でも、その手は私の肩に残っている。
「謝らないでください。嬉しかったです」
「嬉しい?」
「心配してくれて」
グレイシアの耳が赤くなった。咳払いをして、彼は執務机に向かった。
「それで、犯人は」
エルザが報告を引き継いだ。暗殺者の所持品、ブラント侯爵家の紋章、王太子派との関連。グレイシアの表情が、みるみる険しくなっていく。
「あの使者か」
「状況証拠ですが、可能性は高いです」
「警備を強化しろ。リーゼロッテは、東宮ではなく宮殿内に移せ。フェリシアも——」
「私は大丈夫です」
「しかし——」
「逃げ隠れしても、狙われ続けるだけです。それより、こちらから動いた方がいい」
グレイシアが眉をひそめた。
「どういう意味だ」
「暗殺者を尋問して、王太子派の計画を暴きます。そして、公に告発する。そうすれば、彼らは動けなくなる」
「危険だ」
「このまま守りに徹する方が、危険です。結婚式まで、あと九日。それまでに、決着をつけましょう」
グレイシアが長い沈黙の後、頷いた。
「分かった。——ただし、俺の目の届く範囲にいろ」
「はい」
「約束だ」
その言葉には、命令以上の重みがあった。
廊下に出ると、リーゼロッテが待っていた。
「姉様……」
「大丈夫。もう安全よ」
「ごめんなさい。私のせいで——」
「あなたのせいじゃない」
私は妹の手を握った。
「狙われたのは、私たちが王太子派にとって都合が悪いから。それだけよ。あなたは何も悪くない」
「でも……」
「リーゼロッテ」
真っ直ぐ、妹の目を見た。
「私たちは家族よ。何があっても、守る。だから、怖がらなくていい」
リーゼロッテの目に、涙が浮かんだ。
「姉様……」
「さあ、宮殿に移ろう。今夜は一緒に寝ましょうか」
「……はい」
妹の手を引いて、廊下を歩く。
窓の外で、月が雲に隠れていく。
結婚式まで、あと九日。王太子派は、まだ諦めていない。
でも——私も、諦めない。
守るべきものがある。だから、負けない。




