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三歩下がれと言われたので三千里離れた国へ逃げました  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第3話 王太子の使者


謁見の間は、張り詰めた空気に満ちていた。


玉座にはグレイシアが座り、その両脇に重臣たちが並んでいる。私は傍聴席——皇妃候補として、正式な席を与えられていた。


扉が開き、使者が入ってきた。


四十代半ばの男だった。黒髪に白髪が混じり、軍人風の体格。冷たい目が、真っ直ぐ玉座を見据えている。その後ろには、二人の護衛が従っていた。


「ローゼリア王国より参りました。ゲルハルト・フォン・ブラント侯爵と申します」


深々と頭を下げる。形式的な礼儀。でも、その目には敬意など微塵もなかった。


「王太子ルートヴィヒ殿下の名代として、友好的な対話を求めに参上いたしました」


友好的。その言葉が、白々しく響いた。


グレイシアが口を開いた。


「用件を聞こう」


「はい。単刀直入に申し上げます」


ブラント侯爵の目が、私の方を向いた。


「フェリシア・シュタールの身柄引き渡しを要求いたします」


謁見の間がざわめいた。予想していたことだが、こうも直接的に言われると、心臓が冷たくなる。


「理由を聞こう」


グレイシアの声は、いつも通り冷静だった。


「彼女は我が国の国民です。帝国に『保護』されているとのことですが、我が国としては、国民の安全を確認する義務があります」


「大陸評議会で、誘拐の主張は退けられたはずだが」


「評議会の決定には、疑義があります。帝国の影響下で行われた採決に、公正さがあったとは思えません」


グレイシアの目が細まった。


「帝国が評議会を買収したとでも?」


「そうは申しておりません。ただ、我が国としては、独自に真実を確認する権利がある、と申し上げているのです」


詭弁だ。評議会の決定を否定しながら、直接的な非難は避けている。外交的には巧みだが、その分——悪質だ。


「要求は拒否する」


グレイシアが言い切った。


「フェリシア・シュタールは、帝国の顧問官であり、俺の婚約者だ。身柄を引き渡す理由がない」


「それは遺憾です」


ブラント侯爵の口元が、わずかに歪んだ。


「拒否されるのであれば、我が国としては——これを宣戦布告と受け取らざるを得ません」


謁見の間が凍りついた。


宣戦布告。その言葉の重さを、全員が理解している。帝国とローゼリアが戦争になれば、大陸全体が巻き込まれる。


「脅迫か」


グレイシアの声が、低く響いた。


「事実を申し上げているだけです。我が国の国民を不当に拘束しているのであれば、それは——」


「失礼します」


私は立ち上がった。


全員の視線が集中した。使者も、重臣たちも、グレイシアも。


「発言の許可を求めます」


グレイシアが頷いた。


「許可する」


私は使者の前に進み出た。ブラント侯爵が、値踏みするような目でこちらを見ている。


「ブラント侯爵。一つ、確認させてください」


「何でしょう」


「あなたは、私を『ローゼリア国民』と仰いました」


「その通りです」


「では、お聞きします」


私は真っ直ぐ、使者の目を見た。


「ローゼリア王国は、半年前に私の爵位を剥奪し、国外追放を宣言しました。——その事実を、ご存知ですか?」


ブラント侯爵の目が、わずかに揺れた。


「それは……」


「爵位剥奪と国外追放。これは、国籍の剥奪と同義です。私はもう、ローゼリア国民ではありません」


「しかし、血統は——」


「血統で国籍が決まるのであれば、帝国に帰化した全ての元外国人を、母国に返還しなければなりませんね。それが国際法だと、お考えですか?」


沈黙が落ちた。


「私は、ローゼリア王国によって追放されました。国民としての権利を剥奪されました。その後、自分の意志で帝国に来て、帝国の民として受け入れられました。——これが事実です」


私は一歩、前に出た。


「引き渡すべき『国民』は、存在しません。あなたが要求しているのは、帝国の民を——帝国の皇妃候補を、外国に引き渡せということです。それこそが、宣戦布告に値する侮辱ではありませんか?」


ブラント侯爵の顔が、みるみる強張っていった。


「詭弁です。爵位剥奪は、あなたの罪に対する——」


「罪? 何の罪ですか?」


「それは——」


「具体的にお答えください。私が犯した罪とは何ですか? 裁判は行われましたか? 判決文はありますか?」


沈黙。使者は何も言えなかった。


なぜなら、私は何の罪も犯していないからだ。爵位剥奪は、評議会で真実が明らかになった後の報復措置に過ぎない。正当な法的手続きなど、何もなかった。


「答えられないようですね」


私は背筋を伸ばした。


「ブラント侯爵。お伝えください。フェリシア・シュタールは、ローゼリアの国民ではありません。帝国の民であり、皇帝陛下の婚約者です。身柄引き渡しの要求には、一切の法的根拠がありません。——以上です」


謁見の間が、静まり返った。


視界の端で、グレイシアが小さく頷いた。誇らしげな、満足げな表情。それだけで、胸が温かくなった。


使者は長い沈黙の後、ようやく口を開いた。


「……承知いたしました。本国に、そのように報告いたします」


形式的な言葉。でも、その目には——怒りと、何か別のものが燃えていた。


「ただ、一つだけ申し上げておきます」


ブラント侯爵が、私を見た。


「後悔することになりますよ」


「脅迫ですか?」


「忠告です。王太子殿下は、簡単には諦めない方だ。——お気をつけて」


踵を返し、使者は謁見の間を去っていった。


その背中を見送りながら、私は胸騒ぎを覚えていた。「後悔する」——あの言葉には、単なる捨て台詞以上の意味がある気がした。


謁見が終わった後、私はグレイシアと共に執務室に向かった。


「よくやった」


廊下を歩きながら、彼が言った。


「完璧な論破だった。あの使者、何も言い返せなかったな」


「ありがとうございます。でも……」


「どうした」


「最後の言葉が、気になります。『後悔する』と」


グレイシアの目が鋭くなった。


「俺も同じことを考えていた」


「何か、企んでいるのでしょうか」


「分からない。だが、警戒は必要だ」


執務室に入ると、エルザが待っていた。


「お疲れ様でした。見事な論破でしたね」


「ありがとうございます。でも、エルザさん——」


「ええ。使者の動向を監視させます。宮廷を出るまで、目を離しません」


さすがエルザだ。私が言う前に、先回りしている。


「それと」


エルザが表情を引き締めた。


「念のため、フェリシア様とリーゼロッテ様の警護を強化します。不審者がいたら、すぐに報告を」


「お願いします」


窓の外で、夕陽が沈みかけていた。


使者は去った。要求は退けた。でも——何かが、終わっていない気がする。


「後悔することになる」


あの言葉が、頭から離れなかった。


結婚式まで、あと十日。無事に、その日を迎えられるだろうか。


グレイシアが私の肩に手を置いた。


「考えすぎるな。何があっても、俺がいる」


「……はい」


その言葉を信じたかった。信じている。でも——


胸騒ぎは、消えなかった。

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なんでこんなに執着するんだろ? 何故王太子?
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