第2話 花嫁衣装
宮殿の衣装部屋は、布と糸と宝石の香りで満ちていた。
壁一面に並ぶ生地の見本、テーブルに広げられたデザイン画、そして部屋の中央に立つ——純白のドレス。
「フェリシア様、こちらにどうぞ」
宮廷お抱えの仕立師が、私を鏡の前に導いた。ドレスは帝国の伝統的な様式で、銀糸の刺繍が施された長いトレーン、繊細なレースの袖、そして胸元には小さな青い宝石があしらわれている。
「素敵……」
リーゼロッテが息を呑んだ。
「姉様、本当に綺麗」
「まだ着てないわよ」
「着たら、もっと綺麗になります」
エルザが眼鏡を押し上げた。
「リーゼロッテ様の言う通りです。さあ、試着を」
ドレスに袖を通すと、思っていたより軽かった。
見た目は重厚なのに、動きやすい。帝国の仕立師の技術は、さすがだ。鏡に映る自分を見て、私は少し驚いた。
「これが……私?」
鏡の中の女性は、見知らぬ人のようだった。栗色の髪がアップにまとめられ、白いドレスが肌を輝かせている。地味だと思っていた顔立ちが、不思議と華やかに見えた。
「お似合いです」
エルザが珍しく微笑んだ。
「完璧、とは言いませんが……九十五点くらいでしょうか」
「厳しいですね」
「残りの五点は、当日の笑顔次第です」
その言葉に、私も笑った。エルザらしい。
「フェリシア様」
声をかけてきたのは、カロリーネだった。北部の修道院に行くと言っていた彼女が、なぜここにいるのか——招待したのは私だ。
「カロリーネ様。来てくれてありがとう」
「お招きいただいて、光栄です。それに……」
カロリーネが少し照れたように俯いた。
「修道院に行く前に、フェリシア様の花嫁姿を見たかったんです」
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
「あの」
彼女が顔を上げた。その目には、以前のような翳りはなかった。
「私、修道院で少し考えて……やっぱり、ただ隠れているだけじゃ駄目だと思ったんです」
「駄目?」
「はい。叔母様のことは終わりましたが、私自身は何も変わっていない。だから——」
カロリーネが背筋を伸ばした。
「私も、新しい人生を始めます。修道院で学びながら、自分にできることを探します。いつか、フェリシア様のように、自分の力で道を切り開きたい」
その言葉に、胸が温かくなった。
あの日、図書室で言った言葉を、彼女は覚えていてくれた。「選ぶのに、遅すぎることはない」——それを、自分のものにしてくれた。
「応援してるわ。何かあったら、いつでも頼って」
「ありがとうございます。……友人として」
カロリーネが微笑んだ。敵だった相手が、今は友人になっている。それが、少しだけ誇らしかった。
試着が一段落して、廊下に出た時だった。
リーゼロッテが私の袖を引いた。
「姉様、あそこ」
窓の外を見ると、中庭で侍従たちが何か話し込んでいた。表情が険しい。声は聞こえないが、雰囲気が只事ではない。
「何かあったのかしら」
「分かりません。でも……」
リーゼロッテが声を低くした。
「今朝、街で噂を聞きました。『ローゼリアが何か企んでいる』と」
「噂?」
「はい。商人たちの間で広まっているようです。『王太子派が帝国に使者を送る』とか、『結婚式を妨害する計画がある』とか……」
胸騒ぎがした。リーゼロッテが警告した通り、王太子派は動き始めているのかもしれない。
「詳しいことは分かる?」
「いいえ。ただの噂で、具体的なことは……」
「そう……」
考え込んでいると、後ろから声がかけられた。
「フェリシア」
振り返ると、グレイシアが立っていた。
「陛下?」
「衣装合わせと聞いた。どうだった」
「あ、はい。順調です」
「そうか」
グレイシアの視線が、私の全身を上から下へ移動した。まだドレス姿のままだったことに、今更ながら気づく。
「あの、これは試着で——」
「……」
グレイシアが黙った。珍しい。いつもは何か返事をするのに、今日は口を閉ざしたまま、じっと私を見ている。
「陛下?」
「……綺麗だ」
小さな声だった。聞き逃しそうなほど。
「え?」
「何でもない」
グレイシアが視線を逸らした。耳の先が赤い。この人がこんなに動揺するのは、珍しい。
「あの、ありがとうございます」
「礼を言うようなことじゃない」
ぶっきらぼうな声。でも、その頬もわずかに赤みを帯びている。
リーゼロッテが小さく笑った。
「姉様、皇帝陛下が照れていらっしゃいます」
「リーゼロッテ!」
「事実を言っただけですわ」
グレイシアが咳払いをした。
「着替えたら、執務室に来い。話がある」
「はい」
彼は足早に去っていった。その背中が、いつもより少し強張って見えた。
「姉様、本当に仲が良いんですね」
「……うるさい」
照れくさくて、私はそっぽを向いた。
着替えを終えて執務室に向かうと、エルザが既にいた。
二人の表情を見て、私は察した。何か良くない報せがあるのだと。
「どうしたの?」
グレイシアが口を開いた。
「ローゼリアから、使者が来る」
「使者……」
「王太子派の名代だそうだ。明日、帝都に到着する」
心臓が冷たくなった。リーゼロッテの警告、街の噂——全てが繋がっていく。
「目的は?」
「表向きは、『友好的な対話』だと」
「表向きは?」
グレイシアの目が鋭くなった。
「裏の目的は、おそらく——お前だ」
「私……」
「以前と同じだ。『誘拐された国民の返還』を求めてくるだろう。評議会で否定されたことなど、あいつらには関係ない」
エルザが補足した。
「拒否すれば、宣戦布告の口実にされる可能性があります。受け入れれば、フェリシア様の立場が危うくなる。どちらにしても、厄介な状況です」
「……」
窓の外で、夕陽が沈みかけていた。
結婚式まで、あと二週間。幸せな日々が続くと思っていた。でも、祖国は——王太子派は、まだ諦めていない。
「どうする?」
グレイシアが聞いた。その目は、私の判断を待っている。
「会います」
「いいのか?」
「逃げても、追ってくるだけです。なら、正面から対処した方がいい」
グレイシアが、わずかに笑った。
「相変わらずだな」
「何がですか?」
「強い」
その一言が、不思議と胸に響いた。
「明日、使者と会う。俺も同席する」
「ありがとうございます」
「礼はいらない。——お前は、俺の婚約者だ」
その言葉に込められた意味を、私は理解していた。
何があっても、守る。そう言ってくれている。
「では、準備を」
エルザが頭を下げ、部屋を出ていった。
窓の外で、最後の陽光が消えていく。
明日、王太子派の使者が来る。何を要求してくるか分からない。でも——
今度は、一人じゃない。




