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三歩下がれと言われたので三千里離れた国へ逃げました  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第2話 花嫁衣装


宮殿の衣装部屋は、布と糸と宝石の香りで満ちていた。


壁一面に並ぶ生地の見本、テーブルに広げられたデザイン画、そして部屋の中央に立つ——純白のドレス。


「フェリシア様、こちらにどうぞ」


宮廷お抱えの仕立師が、私を鏡の前に導いた。ドレスは帝国の伝統的な様式で、銀糸の刺繍が施された長いトレーン、繊細なレースの袖、そして胸元には小さな青い宝石があしらわれている。


「素敵……」


リーゼロッテが息を呑んだ。


「姉様、本当に綺麗」


「まだ着てないわよ」


「着たら、もっと綺麗になります」


エルザが眼鏡を押し上げた。


「リーゼロッテ様の言う通りです。さあ、試着を」


ドレスに袖を通すと、思っていたより軽かった。


見た目は重厚なのに、動きやすい。帝国の仕立師の技術は、さすがだ。鏡に映る自分を見て、私は少し驚いた。


「これが……私?」


鏡の中の女性は、見知らぬ人のようだった。栗色の髪がアップにまとめられ、白いドレスが肌を輝かせている。地味だと思っていた顔立ちが、不思議と華やかに見えた。


「お似合いです」


エルザが珍しく微笑んだ。


「完璧、とは言いませんが……九十五点くらいでしょうか」


「厳しいですね」


「残りの五点は、当日の笑顔次第です」


その言葉に、私も笑った。エルザらしい。


「フェリシア様」


声をかけてきたのは、カロリーネだった。北部の修道院に行くと言っていた彼女が、なぜここにいるのか——招待したのは私だ。


「カロリーネ様。来てくれてありがとう」


「お招きいただいて、光栄です。それに……」


カロリーネが少し照れたように俯いた。


「修道院に行く前に、フェリシア様の花嫁姿を見たかったんです」


「そう言ってもらえると嬉しいわ」


「あの」


彼女が顔を上げた。その目には、以前のような翳りはなかった。


「私、修道院で少し考えて……やっぱり、ただ隠れているだけじゃ駄目だと思ったんです」


「駄目?」


「はい。叔母様のことは終わりましたが、私自身は何も変わっていない。だから——」


カロリーネが背筋を伸ばした。


「私も、新しい人生を始めます。修道院で学びながら、自分にできることを探します。いつか、フェリシア様のように、自分の力で道を切り開きたい」


その言葉に、胸が温かくなった。


あの日、図書室で言った言葉を、彼女は覚えていてくれた。「選ぶのに、遅すぎることはない」——それを、自分のものにしてくれた。


「応援してるわ。何かあったら、いつでも頼って」


「ありがとうございます。……友人として」


カロリーネが微笑んだ。敵だった相手が、今は友人になっている。それが、少しだけ誇らしかった。


試着が一段落して、廊下に出た時だった。


リーゼロッテが私の袖を引いた。


「姉様、あそこ」


窓の外を見ると、中庭で侍従たちが何か話し込んでいた。表情が険しい。声は聞こえないが、雰囲気が只事ではない。


「何かあったのかしら」


「分かりません。でも……」


リーゼロッテが声を低くした。


「今朝、街で噂を聞きました。『ローゼリアが何か企んでいる』と」


「噂?」


「はい。商人たちの間で広まっているようです。『王太子派が帝国に使者を送る』とか、『結婚式を妨害する計画がある』とか……」


胸騒ぎがした。リーゼロッテが警告した通り、王太子派は動き始めているのかもしれない。


「詳しいことは分かる?」


「いいえ。ただの噂で、具体的なことは……」


「そう……」


考え込んでいると、後ろから声がかけられた。


「フェリシア」


振り返ると、グレイシアが立っていた。


「陛下?」


「衣装合わせと聞いた。どうだった」


「あ、はい。順調です」


「そうか」


グレイシアの視線が、私の全身を上から下へ移動した。まだドレス姿のままだったことに、今更ながら気づく。


「あの、これは試着で——」


「……」


グレイシアが黙った。珍しい。いつもは何か返事をするのに、今日は口を閉ざしたまま、じっと私を見ている。


「陛下?」


「……綺麗だ」


小さな声だった。聞き逃しそうなほど。


「え?」


「何でもない」


グレイシアが視線を逸らした。耳の先が赤い。この人がこんなに動揺するのは、珍しい。


「あの、ありがとうございます」


「礼を言うようなことじゃない」


ぶっきらぼうな声。でも、その頬もわずかに赤みを帯びている。


リーゼロッテが小さく笑った。


「姉様、皇帝陛下が照れていらっしゃいます」


「リーゼロッテ!」


「事実を言っただけですわ」


グレイシアが咳払いをした。


「着替えたら、執務室に来い。話がある」


「はい」


彼は足早に去っていった。その背中が、いつもより少し強張って見えた。


「姉様、本当に仲が良いんですね」


「……うるさい」


照れくさくて、私はそっぽを向いた。


着替えを終えて執務室に向かうと、エルザが既にいた。


二人の表情を見て、私は察した。何か良くない報せがあるのだと。


「どうしたの?」


グレイシアが口を開いた。


「ローゼリアから、使者が来る」


「使者……」


「王太子派の名代だそうだ。明日、帝都に到着する」


心臓が冷たくなった。リーゼロッテの警告、街の噂——全てが繋がっていく。


「目的は?」


「表向きは、『友好的な対話』だと」


「表向きは?」


グレイシアの目が鋭くなった。


「裏の目的は、おそらく——お前だ」


「私……」


「以前と同じだ。『誘拐された国民の返還』を求めてくるだろう。評議会で否定されたことなど、あいつらには関係ない」


エルザが補足した。


「拒否すれば、宣戦布告の口実にされる可能性があります。受け入れれば、フェリシア様の立場が危うくなる。どちらにしても、厄介な状況です」


「……」


窓の外で、夕陽が沈みかけていた。


結婚式まで、あと二週間。幸せな日々が続くと思っていた。でも、祖国は——王太子派は、まだ諦めていない。


「どうする?」


グレイシアが聞いた。その目は、私の判断を待っている。


「会います」


「いいのか?」


「逃げても、追ってくるだけです。なら、正面から対処した方がいい」


グレイシアが、わずかに笑った。


「相変わらずだな」


「何がですか?」


「強い」


その一言が、不思議と胸に響いた。


「明日、使者と会う。俺も同席する」


「ありがとうございます」


「礼はいらない。——お前は、俺の婚約者だ」


その言葉に込められた意味を、私は理解していた。


何があっても、守る。そう言ってくれている。


「では、準備を」


エルザが頭を下げ、部屋を出ていった。


窓の外で、最後の陽光が消えていく。


明日、王太子派の使者が来る。何を要求してくるか分からない。でも——


今度は、一人じゃない。

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