第1話 妹がやってきた
馬車が宮殿の正門に着いたのは、午後の柔らかな日差しの中だった。
私は門の前で待っていた。二週間前に届いた手紙。「帝国に行きます」という妹の言葉。それから毎日、この日を待ち続けていた。
馬車の扉が開く。
最初に見えたのは、栗色の髪だった。私によく似た、でも少し柔らかな印象の顔立ち。五年前より大人びて、でも面影はそのままで——
「姉様」
リーゼロッテが馬車から降り、私の前に立った。
五年ぶりだった。最後に会ったのは、私が外務省に勤め始めた頃。あの頃の彼女はまだ十五歳で、控えめで、いつも私の影に隠れていた。
今、目の前にいるのは二十歳の女性だ。背筋を伸ばし、真っ直ぐ私を見つめている。
「リーゼロッテ」
名前を呼んだら、涙が溢れた。彼女の目にも、光るものがあった。
「姉様、私——」
「よく来たね」
気づいたら、妹を抱きしめていた。小さな体が震えている。私も、たぶん震えていた。
「ごめんなさい。ずっと、何もできなくて——」
「いいの。もういいの」
五年分の後悔と、五年分の寂しさが、抱擁の中で溶けていく気がした。
東宮別棟の応接室で、私たちは向かい合って座った。
エルザが用意してくれた茶を、リーゼロッテは両手で包むように持っている。緊張しているのだろう。無理もない。祖国を捨てて、見知らぬ国に来たのだから。
「長旅だったでしょう。疲れていない?」
「大丈夫です。それより、姉様に——お話ししなければならないことがあります」
「うん。聞かせて」
リーゼロッテが深呼吸をした。
「父上から、命令がありました。『帝国に行って、姉を連れ戻せ』と」
予想していた言葉だった。父は最後まで、私を「道具」として見ている。帰国させて、何かに利用するつもりだったのだろう。
「それで?」
「断りました」
その言葉に、私は目を見開いた。
「姉様は、自分の意志で帝国に来たんです。自分の力で、居場所を作ったんです。それを『連れ戻す』なんて——間違っています」
リーゼロッテの目が、真っ直ぐ私を見ていた。
「私は、父上の道具にはなりません。姉様を傷つける側には、絶対に立ちません」
胸が熱くなった。あの控えめだった妹が、父に逆らって、自分の意志で決断した。
「だから、亡命しました。もう、あの国には戻りません」
「リーゼロッテ……」
「姉様のように、自分で選んで生きたいんです。遅すぎたかもしれませんが——」
「遅くないよ」
私は妹の手を取った。
「私だって、五年間は選べなかった。でも、選んだ。あなたも、今選んだ。それで十分」
リーゼロッテの目から、涙がこぼれた。
少し落ち着いてから、リーゼロッテは祖国の状況を話し始めた。
「姉様、ローゼリアは今、内乱寸前です」
「宰相が失脚した後、混乱しているとは聞いていたけど……」
「それだけではありません。王太子派と第二王子派が、激しく対立しています」
王太子ルートヴィヒと、第二王子。二人の王位継承争いは以前からあったが、宰相という重しがなくなったことで、表面化したのだろう。
「王太子派は、帝国との関係悪化を利用しようとしています。姉様の『誘拐』を口実に、戦争を起こそうと——」
「評議会で否定されたのに?」
「王太子派は、評議会の決定を認めていません。『帝国に買収された』と主張しています」
無茶苦茶だ。でも、権力争いの中では、そういう詭弁がまかり通ることもある。
「父上も……王太子派に取り込まれています」
「そう……」
驚きはなかった。父は常に、強い方につく人だ。王太子が優勢と見れば、そちらに加担するだろう。
「姉様」
リーゼロッテが声を低くした。
「気をつけてください。王太子派は、姉様を——」
その時、扉が叩かれた。
「フェリシア様、陛下がお呼びです。リーゼロッテ様もご一緒に、とのことです」
エルザの声だった。
皇帝の執務室に入ると、グレイシアがいつもの場所に立っていた。
窓際で、腕を組んで、こちらを見ている。その視線が、私の隣に立つリーゼロッテに移った。
「お初にお目にかかります、皇帝陛下」
リーゼロッテが深々と頭を下げた。
「リーゼロッテ・シュタールです。姉が、いつもお世話になっております」
「顔を上げろ」
グレイシアの声は、いつもと変わらない。低く、感情を抑えた声。
「亡命の件、聞いている。受け入れを許可する」
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
グレイシアが一歩、前に出た。リーゼロッテの前に立ち、じっと見下ろす。妹が少し緊張しているのが分かった。
「お前は、フェリシアの妹だ」
「はい」
「ならば——」
グレイシアが、珍しく言葉を選ぶように間を置いた。
「フェリシアの家族は、俺の家族だ。この帝国で、お前の居場所は保証する」
リーゼロッテが目を見開いた。私も、少し驚いた。グレイシアがこんなに直接的に言葉にするのは、珍しい。
「困ったことがあれば、言え。できる限りのことはする」
「陛下……ありがとうございます」
リーゼロッテの声が震えていた。きっと、こんな言葉をかけられるとは思っていなかったのだろう。
グレイシアが私を見た。その目が、わずかに和らいでいる。
「結婚式の準備は進んでいるか」
「はい。順調です」
「そうか。——妹が来たなら、式にも出席させろ」
「もちろんです」
「ならいい」
それだけ言って、グレイシアは執務に戻った。いつもの無愛想な態度。でも、さっきの言葉は——本心だ。
「行こう、リーゼロッテ」
「はい、姉様」
部屋を出る時、私はグレイシアの背中を見た。彼は振り返らなかったが、耳の先がわずかに赤い気がした。
その夜、リーゼロッテと二人で話をした。
彼女の部屋は、私の隣に用意された。東宮別棟の一室。窓からは、中庭の薔薇園が見える。
「姉様、皇帝陛下は……いつもああなんですか」
「ああって?」
「無愛想だけど、優しい……というか」
思わず笑ってしまった。
「そうね。不器用なだけよ。言葉より行動で示すタイプ」
「姉様のこと、大切にしているんですね」
「……うん」
照れくさくて、視線を逸らした。
「結婚式、楽しみにしています。姉様の花嫁姿、見たいです」
「ありがとう。あなたにも、素敵な人が見つかるといいね」
「私は……まだ、そういうのは」
リーゼロッテが俯いた。そして、顔を上げた時——その目が、真剣だった。
「姉様」
「なに?」
「さっき、途中で終わってしまいましたが……王太子派の話です」
「うん」
「姉様を、狙っています」
心臓が、少し速くなった。
「狙うって……どういうこと?」
「詳しいことは分かりません。でも、王太子派の人たちが話しているのを聞きました。『帝国皇妃になる前に、始末しろ』と」
始末。その言葉が、冷たく胸に落ちた。
「結婚式の前に、何かを企んでいます。気をつけてください、姉様」
窓の外で、風が木々を揺らしていた。
結婚式まで、あと三週間。幸せな日々が続くと思っていた。でも——祖国は、まだ私を放してくれないらしい。
「ありがとう、リーゼロッテ。教えてくれて」
「姉様……」
「大丈夫。今度は、一人じゃないから」
妹の手を握った。小さくて、温かい手。
守らなければならないものが、また一つ増えた。でも、それは重荷じゃない。
家族だから。




