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三歩下がれと言われたので三千里離れた国へ逃げました  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第1話 妹がやってきた


馬車が宮殿の正門に着いたのは、午後の柔らかな日差しの中だった。


私は門の前で待っていた。二週間前に届いた手紙。「帝国に行きます」という妹の言葉。それから毎日、この日を待ち続けていた。


馬車の扉が開く。


最初に見えたのは、栗色の髪だった。私によく似た、でも少し柔らかな印象の顔立ち。五年前より大人びて、でも面影はそのままで——


「姉様」


リーゼロッテが馬車から降り、私の前に立った。


五年ぶりだった。最後に会ったのは、私が外務省に勤め始めた頃。あの頃の彼女はまだ十五歳で、控えめで、いつも私の影に隠れていた。


今、目の前にいるのは二十歳の女性だ。背筋を伸ばし、真っ直ぐ私を見つめている。


「リーゼロッテ」


名前を呼んだら、涙が溢れた。彼女の目にも、光るものがあった。


「姉様、私——」


「よく来たね」


気づいたら、妹を抱きしめていた。小さな体が震えている。私も、たぶん震えていた。


「ごめんなさい。ずっと、何もできなくて——」


「いいの。もういいの」


五年分の後悔と、五年分の寂しさが、抱擁の中で溶けていく気がした。


東宮別棟の応接室で、私たちは向かい合って座った。


エルザが用意してくれた茶を、リーゼロッテは両手で包むように持っている。緊張しているのだろう。無理もない。祖国を捨てて、見知らぬ国に来たのだから。


「長旅だったでしょう。疲れていない?」


「大丈夫です。それより、姉様に——お話ししなければならないことがあります」


「うん。聞かせて」


リーゼロッテが深呼吸をした。


「父上から、命令がありました。『帝国に行って、姉を連れ戻せ』と」


予想していた言葉だった。父は最後まで、私を「道具」として見ている。帰国させて、何かに利用するつもりだったのだろう。


「それで?」


「断りました」


その言葉に、私は目を見開いた。


「姉様は、自分の意志で帝国に来たんです。自分の力で、居場所を作ったんです。それを『連れ戻す』なんて——間違っています」


リーゼロッテの目が、真っ直ぐ私を見ていた。


「私は、父上の道具にはなりません。姉様を傷つける側には、絶対に立ちません」


胸が熱くなった。あの控えめだった妹が、父に逆らって、自分の意志で決断した。


「だから、亡命しました。もう、あの国には戻りません」


「リーゼロッテ……」


「姉様のように、自分で選んで生きたいんです。遅すぎたかもしれませんが——」


「遅くないよ」


私は妹の手を取った。


「私だって、五年間は選べなかった。でも、選んだ。あなたも、今選んだ。それで十分」


リーゼロッテの目から、涙がこぼれた。


少し落ち着いてから、リーゼロッテは祖国の状況を話し始めた。


「姉様、ローゼリアは今、内乱寸前です」


「宰相が失脚した後、混乱しているとは聞いていたけど……」


「それだけではありません。王太子派と第二王子派が、激しく対立しています」


王太子ルートヴィヒと、第二王子。二人の王位継承争いは以前からあったが、宰相という重しがなくなったことで、表面化したのだろう。


「王太子派は、帝国との関係悪化を利用しようとしています。姉様の『誘拐』を口実に、戦争を起こそうと——」


「評議会で否定されたのに?」


「王太子派は、評議会の決定を認めていません。『帝国に買収された』と主張しています」


無茶苦茶だ。でも、権力争いの中では、そういう詭弁がまかり通ることもある。


「父上も……王太子派に取り込まれています」


「そう……」


驚きはなかった。父は常に、強い方につく人だ。王太子が優勢と見れば、そちらに加担するだろう。


「姉様」


リーゼロッテが声を低くした。


「気をつけてください。王太子派は、姉様を——」


その時、扉が叩かれた。


「フェリシア様、陛下がお呼びです。リーゼロッテ様もご一緒に、とのことです」


エルザの声だった。


皇帝の執務室に入ると、グレイシアがいつもの場所に立っていた。


窓際で、腕を組んで、こちらを見ている。その視線が、私の隣に立つリーゼロッテに移った。


「お初にお目にかかります、皇帝陛下」


リーゼロッテが深々と頭を下げた。


「リーゼロッテ・シュタールです。姉が、いつもお世話になっております」


「顔を上げろ」


グレイシアの声は、いつもと変わらない。低く、感情を抑えた声。


「亡命の件、聞いている。受け入れを許可する」


「ありがとうございます」


「礼はいらない」


グレイシアが一歩、前に出た。リーゼロッテの前に立ち、じっと見下ろす。妹が少し緊張しているのが分かった。


「お前は、フェリシアの妹だ」


「はい」


「ならば——」


グレイシアが、珍しく言葉を選ぶように間を置いた。


「フェリシアの家族は、俺の家族だ。この帝国で、お前の居場所は保証する」


リーゼロッテが目を見開いた。私も、少し驚いた。グレイシアがこんなに直接的に言葉にするのは、珍しい。


「困ったことがあれば、言え。できる限りのことはする」


「陛下……ありがとうございます」


リーゼロッテの声が震えていた。きっと、こんな言葉をかけられるとは思っていなかったのだろう。


グレイシアが私を見た。その目が、わずかに和らいでいる。


「結婚式の準備は進んでいるか」


「はい。順調です」


「そうか。——妹が来たなら、式にも出席させろ」


「もちろんです」


「ならいい」


それだけ言って、グレイシアは執務に戻った。いつもの無愛想な態度。でも、さっきの言葉は——本心だ。


「行こう、リーゼロッテ」


「はい、姉様」


部屋を出る時、私はグレイシアの背中を見た。彼は振り返らなかったが、耳の先がわずかに赤い気がした。


その夜、リーゼロッテと二人で話をした。


彼女の部屋は、私の隣に用意された。東宮別棟の一室。窓からは、中庭の薔薇園が見える。


「姉様、皇帝陛下は……いつもああなんですか」


「ああって?」


「無愛想だけど、優しい……というか」


思わず笑ってしまった。


「そうね。不器用なだけよ。言葉より行動で示すタイプ」


「姉様のこと、大切にしているんですね」


「……うん」


照れくさくて、視線を逸らした。


「結婚式、楽しみにしています。姉様の花嫁姿、見たいです」


「ありがとう。あなたにも、素敵な人が見つかるといいね」


「私は……まだ、そういうのは」


リーゼロッテが俯いた。そして、顔を上げた時——その目が、真剣だった。


「姉様」


「なに?」


「さっき、途中で終わってしまいましたが……王太子派の話です」


「うん」


「姉様を、狙っています」


心臓が、少し速くなった。


「狙うって……どういうこと?」


「詳しいことは分かりません。でも、王太子派の人たちが話しているのを聞きました。『帝国皇妃になる前に、始末しろ』と」


始末。その言葉が、冷たく胸に落ちた。


「結婚式の前に、何かを企んでいます。気をつけてください、姉様」


窓の外で、風が木々を揺らしていた。


結婚式まで、あと三週間。幸せな日々が続くと思っていた。でも——祖国は、まだ私を放してくれないらしい。


「ありがとう、リーゼロッテ。教えてくれて」


「姉様……」


「大丈夫。今度は、一人じゃないから」


妹の手を握った。小さくて、温かい手。


守らなければならないものが、また一つ増えた。でも、それは重荷じゃない。


家族だから。

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