第10話 皇妃の条件
修了式は、晴れやかな朝に行われた。
東宮別棟の大広間に、重臣たちが集まっている。正面には皇帝の紋章が掲げられ、窓からは春の光が差し込んでいた。三ヶ月前、この場所に来た時とは全てが違う。あの頃は孤立していた。今は——味方がいる。
「フェリシア・シュタール。前へ」
エルザの声に促され、私は広間の中央に進み出た。
「本日をもって、皇妃教育課程の全てを修了いたしました。帝国史、宮廷礼法、外交儀礼、領地経営——いずれも、基準を満たしております」
エルザが書類を読み上げる。淡々とした声。いつもと変わらない、実務的な口調。
「よって、フェリシア・シュタールを、皇妃候補としての資格を有する者と認めます」
重臣たちが頷く。中には、三ヶ月前は私に冷たい目を向けていた者もいた。今、彼らの目には敬意が宿っている。
「エルザ殿、一言よろしいですか」
「何でしょう」
「ありがとうございました。あなたの指導がなければ、私はここに立てていませんでした」
エルザが眼鏡を押し上げた。その口元が、わずかに緩む。
「合格です」
いつもの言葉。でも、その後に——
「……いえ、最初から分かっていました」
「え?」
「あなたは、皇妃にふさわしい。最初にお会いした時から、そう思っていました。ただ——」
エルザが小さく笑った。初めて見る、温かな笑み。
「それを証明するのは、私ではなく、あなた自身の役目でしたから」
胸が熱くなった。厳しく、時に冷たく見えた指導。でも、それは全て——私が自分の力で証明できるように、という配慮だったのだ。
「ありがとうございます。本当に」
「こちらこそ。——良い弟子でした」
重臣たちの拍手が響いた。
修了式の後、私は皇帝の執務室に向かった。
扉を叩くと、すぐに返事があった。
「入れ」
中に入ると、グレイシアは窓際に立っていた。いつもの場所。いつもの姿。でも、今日は何かが違う。空気が、少しだけ柔らかい。
「修了式、終わったか」
「はい。無事に」
「そうか。……よくやった」
「ありがとうございます」
沈黙が落ちた。グレイシアが振り返る。その目が、真っ直ぐ私を見つめていた。
「フェリシア」
「はい」
「あの時——最初に婚約を申し込んだ時、俺は嘘をついた」
「嘘、ですか」
「偽装だと言った。政治的な保護策だと。——あれは、嘘だった」
心臓が跳ねた。分かっていた。第1章の終わりに、彼は本心を明かしてくれた。でも、今また——
「今度は、本当のことを言う」
グレイシアが一歩、近づいた。
「俺の隣で、共に歩いてくれ」
「陛下……」
「皇妃としてではなく、お前として。フェリシア・シュタールという一人の女性として——俺の傍にいてくれ」
彼の手が、私の手を取った。大きくて、温かい手。三ヶ月前と同じ。でも、今はもう——偽装なんかじゃない。
「皇妃の条件なんて、どうでもいい。教養があるとか、血筋がいいとか、そんなものは関係ない。俺が求めているのは——」
言葉が途切れた。グレイシアが、珍しく言葉を探している。
「……お前だ。お前だけだ」
涙が溢れた。堪えようとしたけれど、無理だった。
「はい」
声が震える。でも、はっきりと答えた。
「はい。喜んで」
グレイシアの目が揺れた。そして——初めて見る、本当の笑顔。
「ありがとう」
その一言が、何より嬉しかった。
バルコニーに出ると、帝都の街並みが広がっていた。
春の風が心地よい。隣にはグレイシアがいる。彼の手が、まだ私の手を握っている。
「結婚式は、来月にしよう」
「来月……早いですね」
「待てない」
短い言葉。でも、その声には——照れが滲んでいた。
「陛下」
「グレイシアでいい」
「……グレイシア」
名前を呼ぶと、彼の耳が赤くなった。もう何度も見た光景。でも、何度見ても——可愛いと思ってしまう。
「来月。楽しみにしています」
「ああ」
街を見下ろしながら、私たちは黙って立っていた。言葉はなくても、伝わるものがある。そういう関係を、私たちは築いてきた。
「フェリシア」
「はい」
「……幸せにする」
「私も、あなたを幸せにします」
グレイシアが少し驚いたような顔をした。そして、小さく笑った。
「対等だな、やはり」
「当然です」
風が吹いて、髪が揺れた。春の匂いがする。新しい季節の、始まりの匂い。
部屋に戻ると、カロリーネとエルザが待っていた。
「おめでとうございます、フェリシア様」
カロリーネが微笑んだ。以前の儚げな雰囲気は消え、今は穏やかな表情をしている。
「ありがとうございます。カロリーネ様こそ——これからどうされますか」
「北部の修道院で、しばらく静かに過ごすつもりです。叔母様の騒動が落ち着いたら、また新しいことを始めたいと思っています」
「いつでも、力になりますよ」
「ありがとうございます。……友人として」
友人。その言葉が、嬉しかった。敵だった相手が、今は友人になっている。
「エルザさんも、ありがとうございました」
「私は仕事をしただけです」
相変わらずの口調。でも、その目は優しかった。
「結婚式の準備、お手伝いいたします。——皇妃殿下」
「まだ皇妃じゃありませんよ」
「来月にはなります。慣れておいてください」
エルザが眼鏡を押し上げて、くすりと笑った。
二人が去った後、机の上に手紙が置かれているのに気づいた。
見覚えのある封蝋。シュタール伯爵家の紋章。
リーゼロッテからだ。
封を切り、中を読んだ。
『姉様へ
評議会での勝利、宮廷での勝利、おめでとうございます。遠くからですが、ずっと応援していました。
姉様、私は決めました。帝国に行きます。
もう、この国にいる理由がありません。父上はまだ姉様を『取り戻す』ことに執着していますが、私はそれに付き合うつもりはありません。私も、自分の人生を選びます。姉様のように。
そして——お伝えしなければならないことがあります。
ローゼリアで、何かが起きようとしています。宰相閣下が失脚した後、宮廷内の空気が変わりました。王太子派と第二王子派の対立が激化し、不穏な動きがあるようです。詳しいことは分かりませんが、姉様にも関係があるかもしれません。
帝国に着いたら、直接お話しします。
もうすぐ、お会いできますね。楽しみにしています。
リーゼロッテより』
手紙を読み終えて、私は窓の外を見た。
リーゼロッテが来る。そして、祖国で何かが起きようとしている。
でも今は——今だけは。
左手の婚約指輪を見つめた。深い青の宝石が、夕陽を反射して輝いている。
三ヶ月前、東宮に来た時は何もなかった。味方も、居場所も、未来も。でも今は——全てがある。
信頼できる師がいる。友人がいる。そして、隣を歩いてくれる人がいる。
「ただいま」
誰にともなく呟いた。
ここが、私の居場所だ。




