第2話 入国審査で能力を試されまして
商隊と別れてから、半日が過ぎていた。
帝国国境の入国管理所。灰色の石造りの建物は、王国のそれより二回りほど大きい。行き交う人々の服装も、どこか実用的で飾り気がない。
「目的は?」
審査官が無表情で尋ねてくる。四十がらみの男で、目つきが鋭い。
「就職活動です」
「職歴は?」
「ローゼリア王国外務省にて、翻訳・調整業務を五年間」
審査官のペンが止まった。書類から顔を上げ、まじまじと私を見る。
「外務省勤務の貴族令嬢が、なぜ帝国に?」
「……労働環境の相違です」
嘘ではない。アルベルトの下で働くことを「労働環境」と呼ぶなら、だが。
審査官の眉が寄せられた。書類をめくり、何かを確認している。無職、後ろ盾なし、元貴族令嬢——私のプロフィールが、どれだけ怪しく見えるかは分かっている。
「お嬢さん」
審査官が書類を閉じた。
「帰国をお勧めする。帝国で無職の外国人が生きていくのは、容易ではない」
予想していた言葉だった。けれど、引き下がる気はなかった。
「私の能力を試していただけませんか」
審査官が目を丸くした。
「試験でも、実技でも、何でも構いません。帝国にとって有用な人材であることを、証明する機会をいただきたいのです」
自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。王国にいた頃の私なら、こんな主張はできなかっただろう。三歩下がって、黙って従って、誰かの言いなりになっていた。
でも、もう違う。
私は、私の人生を生きると決めた。
「……面白いことを言う」
声は、審査官のものではなかった。
振り返ると、入口に男が立っていた。長身で、銀色の髪。氷のように青い瞳が、真っ直ぐに私を見ている。背後には、揃いの軍服を着た騎士が数名。
審査官の顔色が変わった。慌てて立ち上がり、深々と頭を下げる。
「へ、陛——」
「視察中だ。構わなくていい」
男が片手で制した。審査官は口をつぐみ、直立不動の姿勢になる。
陛——何だろう。陛下? まさか、この人が。
男が歩み寄ってきた。近くで見ると、整った顔立ちがよく分かる。冷たい印象だが、どこか惹きつけられるものがある。
「能力を試せ、と言ったな」
「……はい」
「ならば証明してみろ」
男が懐から紙を取り出し、私に差し出した。黄ばんだ古い紙。見覚えのある書体が並んでいる。
古代帝国語だ。
「読めるか?」
「拝見します」
紙を受け取り、目を通す。外交文書の形式。差出人は……古代の諸侯、宛先は帝国の前身となった王家。内容は、領土を巡る交渉の提案。
難解な言い回しが多いが、外務省で似たような文書を何度も扱った。あれは八百年前の文法で、これは六百年前——いや、五百年ほど前か。
「十分、いただけますか」
「好きにしろ」
私は紙に集中した。単語を拾い、文脈を読み取り、現代語に置き換えていく。周囲の視線が気になったが、意識の外に追いやった。
七分後、顔を上げた。
「要約します。これは約五百年前、西方諸侯ヴェルナー家から当時のアドラー王家に宛てた書簡です。内容は、国境地帯の森林資源の共同管理に関する提案。諸侯側は木材の伐採権を、王家側は通行税の減免を、それぞれ譲歩する形での合意を求めています」
男の表情は変わらない。
「根拠は」
「第三段落に『双方の利を以て』という定型句があります。これは当時の外交文書で、相互譲歩を前提とした提案に用いられる表現です。また、署名の書式から差出人の身分が諸侯級と判断できます」
沈黙が落ちた。審査官が息を呑む気配がする。
男が、わずかに口角を上げた。笑った、というほどではない。けれど、鉄面皮のような表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……悪くない」
その一言で、空気が変わった。審査官が安堵の息を吐く。護衛の騎士たちの緊張も解けたようだった。
「お前、名は」
「フェリシア・シュタールと申します」
「俺はグレイシア。見ての通り、この国の皇帝だ」
やはり。
驚きはあったが、納得の方が大きかった。審査官の態度、護衛の存在、そして何より——この人の纏う空気。一介の貴族や軍人ではない。
「冒険者ギルド本部に行け」
皇帝が懐から別の紙を取り出し、何かを書き付けた。署名と押印。紹介状だ。
「人手が足りんと聞いている。お前の能力なら、使い道があるだろう」
「……ありがとうございます」
紹介状を受け取る手が、わずかに震えた。
王国では、五年間働いても、自分の名前で評価されることはなかった。ここでは、たった十分で、皇帝から直接の紹介状をもらえた。
「感謝は成果で返せ」
皇帝はそれだけ言うと、踵を返して歩き去った。護衛の騎士たちが後に続く。
その背中を見送りながら、私は思った。
公正な人だ、と。
身分も出自も問わず、能力だけを見て判断する。噂に聞いた「実力主義」は、本当だったらしい。
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ギルド本部へ向かう馬車の中で、私は紹介状を見つめていた。
皇帝の署名。帝国の紋章。そして、一行の走り書き。
『この者、有用。試すに値する』
無表情で、言葉少なで、感情が読めない人だった。けれど、言葉は嘘をついていなかった。
窓の外を、帝都の街並みが流れていく。灰色の石造りの建物、赤い屋根、行き交う人々。王国とは違う空気。でも、不思議と居心地が悪くない。
「この国なら」
呟きが、唇からこぼれた。
「やっていけるかもしれない」
馬車が、ギルド本部へ向かって走り続ける。
紹介状を懐にしまい、私は静かに目を閉じた。三千里下がった先で、最初の扉が開いた。次は、自分の力で道を切り開く番だ。




