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三歩下がれと言われたので三千里離れた国へ逃げました  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第8話 裏切り者の名前


帝都の城門をくぐった時、私は目を疑った。


街路の両側に、人が溢れていた。商人、職人、労働者、子供たち。彼らが口々に叫んでいる。


「フェリシア様、おかえりなさい!」


「評議会での勝利、おめでとうございます!」


「帝国の誇りです!」


馬車の窓から手を振ると、歓声が一層大きくなった。花びらが舞い、祝福の言葉が飛び交う。


「……これは」


「評議会での弁論が、帝国中に伝わっているのです」


隣のハンスが淡々と説明した。


「『自分の意志で祖国を去り、自分の力で道を切り開いた女性』。民衆の間で、フェリシア様は英雄になっています」


英雄。大げさな言葉だ。私はただ、真実を述べただけなのに。


でも、この歓声は——嬉しかった。認められている。受け入れられている。帝国の民として。


馬車が宮殿の正門に着いた。扉が開き、私は外に出た。


そこに、彼が立っていた。


グレイシアは、いつもの無表情で私を見ていた。


正門の階段を下り、私の前に立つ。周囲には宮廷の人々がいる。衛兵、侍従、貴族たち。全員の視線が集中している。


公の場だ。皇帝として、感情を見せるわけにはいかない。分かっている。


でも——


「……長かった」


その一言に、全てが込められていた。


低い声。短い言葉。でも、その目には——安堵と、喜びと、そして押し殺した感情が滲んでいた。


「ただいま戻りました、陛下」


私も、公式な言葉で返した。でも、声が少し震えていたかもしれない。


「よくやった」


グレイシアが小さく頷いた。そして、踵を返す。


「報告は後で聞く。まずは休め」


その背中を見送りながら、私は胸の高鳴りを抑えようとした。


長かった。本当に、長い二週間だった。


東宮別棟に戻ると、エルザが待っていた。


「おかえりなさいませ、フェリシア様。評議会での弁論、見事でした」


「ありがとうございます。あなたの教えのおかげです」


「私は何も。——それより、お客様がお見えです」


「客?」


エルザが応接室を示した。扉を開けると——


カロリーネが立っていた。


「お帰りなさい、フェリシア様」


その声は、以前とは違っていた。敵意がない。むしろ、緊張と決意が入り混じった表情だ。


「カロリーネ様。どうして……」


「お話があります。どうか、聞いていただけませんか」


応接室のソファに向かい合って座った。


カロリーネは俯いたまま、しばらく黙っていた。やがて、小さく息を吐いて顔を上げた。


「私は、叔母の道具でした」


「……」


「小さい頃から、そう育てられました。シュタインベルク家の栄光のために、皇妃になれ。陛下の寵愛を得ろ。一族の地位を高めろ。——それが、私の役目だと」


彼女の声は淡々としていた。でも、その奥に長年の苦しみが滲んでいる。


「評議会での勝利を聞いて、私は考えました。あなたは自分で選んで、自分で戦って、自分で勝ち取った。私には、それができなかった。ずっと、誰かの言いなりで——」


「カロリーネ様」


「でも」


彼女が私を見た。その目に、新しい光が宿っている。


「もう、道具でいるのはやめます」


「……!」


「叔母が何をしているか、私は知っています。オットー伯爵と共謀して、ローゼリアと内通していたこと。あなたを排除するために、偽の証拠を作ろうとしていたこと。——全て」


心臓が跳ねた。証拠。内通の証拠。


「それを……証明できますか」


「はい」


カロリーネが懐から、数枚の紙を取り出した。


「叔母とオットー伯爵の間で交わされた手紙です。ローゼリアの宰相宛ての通信文の下書きもあります。私が、叔母の書斎から持ち出しました」


震える手で受け取った。目を通すと——確かに、内通の証拠だった。ローゼリアとの連絡内容、私を排除する計画、評議会での工作。全てが記されている。


「なぜ……これを私に?」


「あなたが言ったでしょう。『選ぶのに、遅すぎることはない』と」


カロリーネが微笑んだ。寂しげだが、どこか晴れやかな笑み。


「私は叔母の道具でした。でも、あなたは違う。自分で選んで、自分で戦った。——私も、そうなりたい」


「カロリーネ様……」


「これが、私の選択です。遅すぎたかもしれませんが、今からでも——」


「遅くありません」


私は立ち上がり、彼女の手を取った。


「ありがとうございます。この証拠で、全てが変わります」


カロリーネの目に、涙が滲んだ。


カロリーネが去った後、エルザと証拠を精査した。


「間違いありません。これで、ヘルガ夫人とオットー伯爵を告発できます」


「明日、御前会議で」


「ええ。陛下に報告して、許可を得ましょう」


私は証拠を抱えて、皇帝の執務室へ向かった。


執務室に入ると、グレイシアは窓際に立っていた。


「報告があります」


「聞こう」


カロリーネの訪問と、内通の証拠について説明した。グレイシアは黙って聞いていた。その表情は、いつも以上に読めない。


「……そうか」


「明日、御前会議で告発する許可をいただきたいのです」


「許可する」


短い言葉。でも、その目には——静かな怒りが燃えていた。


「俺の婚約者を、俺の国で陥れようとした。その報いは、受けてもらう」


「陛下……」


「お前は、よくやった。評議会での弁論も、今回の証拠入手も。——お前なしでは、ここまで来られなかった」


グレイシアが振り返った。その目が、真っ直ぐ私を見つめる。


「明日、俺は裁定者として臨む。公正に、証拠に基づいて判断する。——だが」


一歩、近づいてきた。


「判決は、決まっている」


「……はい」


「終わったら——」


グレイシアが言葉を切った。言いかけて、飲み込んだ。


「何ですか?」


「……いや。明日の後で話す」


珍しく、彼は言葉を濁した。でも、その耳が赤くなっているのを、私は見逃さなかった。


「では、明日」


「ああ。——休め」


部屋を出る時、背中に視線を感じた。振り返ると、グレイシアがまだこちらを見ていた。


「おやすみなさい、陛下」


「……ああ」


その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。


部屋に戻り、窓の外を見た。


明日、全てが決まる。ヘルガ夫人とオットー伯爵への告発。宮廷内の陰謀との決着。


長かった戦いが、終わろうとしている。


「あと少し」


呟いて、私は目を閉じた。


明日、勝つ。そして——グレイシアが言いかけた言葉を、聞く。

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