第8話 裏切り者の名前
帝都の城門をくぐった時、私は目を疑った。
街路の両側に、人が溢れていた。商人、職人、労働者、子供たち。彼らが口々に叫んでいる。
「フェリシア様、おかえりなさい!」
「評議会での勝利、おめでとうございます!」
「帝国の誇りです!」
馬車の窓から手を振ると、歓声が一層大きくなった。花びらが舞い、祝福の言葉が飛び交う。
「……これは」
「評議会での弁論が、帝国中に伝わっているのです」
隣のハンスが淡々と説明した。
「『自分の意志で祖国を去り、自分の力で道を切り開いた女性』。民衆の間で、フェリシア様は英雄になっています」
英雄。大げさな言葉だ。私はただ、真実を述べただけなのに。
でも、この歓声は——嬉しかった。認められている。受け入れられている。帝国の民として。
馬車が宮殿の正門に着いた。扉が開き、私は外に出た。
そこに、彼が立っていた。
グレイシアは、いつもの無表情で私を見ていた。
正門の階段を下り、私の前に立つ。周囲には宮廷の人々がいる。衛兵、侍従、貴族たち。全員の視線が集中している。
公の場だ。皇帝として、感情を見せるわけにはいかない。分かっている。
でも——
「……長かった」
その一言に、全てが込められていた。
低い声。短い言葉。でも、その目には——安堵と、喜びと、そして押し殺した感情が滲んでいた。
「ただいま戻りました、陛下」
私も、公式な言葉で返した。でも、声が少し震えていたかもしれない。
「よくやった」
グレイシアが小さく頷いた。そして、踵を返す。
「報告は後で聞く。まずは休め」
その背中を見送りながら、私は胸の高鳴りを抑えようとした。
長かった。本当に、長い二週間だった。
東宮別棟に戻ると、エルザが待っていた。
「おかえりなさいませ、フェリシア様。評議会での弁論、見事でした」
「ありがとうございます。あなたの教えのおかげです」
「私は何も。——それより、お客様がお見えです」
「客?」
エルザが応接室を示した。扉を開けると——
カロリーネが立っていた。
「お帰りなさい、フェリシア様」
その声は、以前とは違っていた。敵意がない。むしろ、緊張と決意が入り混じった表情だ。
「カロリーネ様。どうして……」
「お話があります。どうか、聞いていただけませんか」
応接室のソファに向かい合って座った。
カロリーネは俯いたまま、しばらく黙っていた。やがて、小さく息を吐いて顔を上げた。
「私は、叔母の道具でした」
「……」
「小さい頃から、そう育てられました。シュタインベルク家の栄光のために、皇妃になれ。陛下の寵愛を得ろ。一族の地位を高めろ。——それが、私の役目だと」
彼女の声は淡々としていた。でも、その奥に長年の苦しみが滲んでいる。
「評議会での勝利を聞いて、私は考えました。あなたは自分で選んで、自分で戦って、自分で勝ち取った。私には、それができなかった。ずっと、誰かの言いなりで——」
「カロリーネ様」
「でも」
彼女が私を見た。その目に、新しい光が宿っている。
「もう、道具でいるのはやめます」
「……!」
「叔母が何をしているか、私は知っています。オットー伯爵と共謀して、ローゼリアと内通していたこと。あなたを排除するために、偽の証拠を作ろうとしていたこと。——全て」
心臓が跳ねた。証拠。内通の証拠。
「それを……証明できますか」
「はい」
カロリーネが懐から、数枚の紙を取り出した。
「叔母とオットー伯爵の間で交わされた手紙です。ローゼリアの宰相宛ての通信文の下書きもあります。私が、叔母の書斎から持ち出しました」
震える手で受け取った。目を通すと——確かに、内通の証拠だった。ローゼリアとの連絡内容、私を排除する計画、評議会での工作。全てが記されている。
「なぜ……これを私に?」
「あなたが言ったでしょう。『選ぶのに、遅すぎることはない』と」
カロリーネが微笑んだ。寂しげだが、どこか晴れやかな笑み。
「私は叔母の道具でした。でも、あなたは違う。自分で選んで、自分で戦った。——私も、そうなりたい」
「カロリーネ様……」
「これが、私の選択です。遅すぎたかもしれませんが、今からでも——」
「遅くありません」
私は立ち上がり、彼女の手を取った。
「ありがとうございます。この証拠で、全てが変わります」
カロリーネの目に、涙が滲んだ。
カロリーネが去った後、エルザと証拠を精査した。
「間違いありません。これで、ヘルガ夫人とオットー伯爵を告発できます」
「明日、御前会議で」
「ええ。陛下に報告して、許可を得ましょう」
私は証拠を抱えて、皇帝の執務室へ向かった。
執務室に入ると、グレイシアは窓際に立っていた。
「報告があります」
「聞こう」
カロリーネの訪問と、内通の証拠について説明した。グレイシアは黙って聞いていた。その表情は、いつも以上に読めない。
「……そうか」
「明日、御前会議で告発する許可をいただきたいのです」
「許可する」
短い言葉。でも、その目には——静かな怒りが燃えていた。
「俺の婚約者を、俺の国で陥れようとした。その報いは、受けてもらう」
「陛下……」
「お前は、よくやった。評議会での弁論も、今回の証拠入手も。——お前なしでは、ここまで来られなかった」
グレイシアが振り返った。その目が、真っ直ぐ私を見つめる。
「明日、俺は裁定者として臨む。公正に、証拠に基づいて判断する。——だが」
一歩、近づいてきた。
「判決は、決まっている」
「……はい」
「終わったら——」
グレイシアが言葉を切った。言いかけて、飲み込んだ。
「何ですか?」
「……いや。明日の後で話す」
珍しく、彼は言葉を濁した。でも、その耳が赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
「では、明日」
「ああ。——休め」
部屋を出る時、背中に視線を感じた。振り返ると、グレイシアがまだこちらを見ていた。
「おやすみなさい、陛下」
「……ああ」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
部屋に戻り、窓の外を見た。
明日、全てが決まる。ヘルガ夫人とオットー伯爵への告発。宮廷内の陰謀との決着。
長かった戦いが、終わろうとしている。
「あと少し」
呟いて、私は目を閉じた。
明日、勝つ。そして——グレイシアが言いかけた言葉を、聞く。




