第6話 フロスティアへ
馬車が帝都を出たのは、夜明け前のことだった。
窓の外を流れる景色を眺めながら、私は膝の上の書類鞄を抱きしめていた。中には、第1章の裁判で使った全ての証拠——業務記録の写し、第三国検証の結果、そして今回新たに見つけたオットー伯爵に関する資料。これが、私の武器だ。
「フェリシア様」
向かいに座る護衛騎士が声をかけてきた。三十代半ばの寡黙な男で、名をハンスといった。グレイシアが直々に選んだ護衛だと聞いている。
「何でしょう」
「陛下から、伝言を預かっております」
「伝言?」
手紙ではなく、口頭。その意味を理解するのに、一瞬かかった。証拠を残さないための配慮だ。皇帝が皇妃候補に私的な手紙を送れば、公私混同と批判される恐れがある。だから——
「お聞かせください」
ハンスが姿勢を正した。
「『勝って帰ってこい。待っている』——以上です」
短い言葉。飾り気のない、不器用な言葉。でも、その一言一言が胸に染みた。
「……ありがとうございます」
「お伝えしました」
ハンスはそれ以上何も言わず、再び沈黙に戻った。
窓の外で、朝日が昇り始めていた。
フロスティア連邦の国境に着いたのは、出発から五日後のことだった。
帝国領とは違い、穏やかな丘陵地帯が広がっている。国境の検問所には、連邦の紋章——交差した天秤と羽根ペン——が掲げられていた。中立国の象徴だ。
「アドラー帝国より、フェリシア・シュタール顧問官がお越しです」
ハンスが書類を提示すると、連邦の役人が丁寧に頭を下げた。
「ようこそ、フロスティア連邦へ。大陸評議会の会場まで、ご案内いたします」
対応は丁重だった。中立国として、どの国の代表にも公平に接する——そういう姿勢が徹底されているのだろう。
馬車が連邦の首都へ向かう間、私は窓の外を眺めていた。帝国とも祖国とも違う、穏やかな風景。ここで、全てが決まる。
会議場は、首都の中心にある壮麗な建物だった。
白い大理石の柱が並び、天井には各国の紋章が描かれている。ロビーには既に、各国の代表団が集まっていた。
「帝国顧問官、フェリシア・シュタール様のお越しです」
案内役の声が響くと、視線が集中した。好奇、警戒、そして——値踏みするような目。国際社会の舞台は、宮廷とはまた違う緊張感がある。
私は背筋を伸ばし、堂々と歩いた。エルザに教わった通り、視線を逸らさず、かといって睨みつけもせず。自信を持って、しかし傲慢にならず。
「フェリシア様、お久しぶりです」
声をかけてきたのは、フロスティア連邦の外務大臣だった。第1章の検証を依頼した時に、やり取りをした相手だ。
「ご無沙汰しております、大臣閣下」
「今回の評議会、大変な状況だとお聞きしました。ご健闘をお祈りしております」
「ありがとうございます。公正な場で、真実を述べる機会をいただけることに感謝しております」
外交的な挨拶。でも、その言葉の裏には意味がある。「公正な場」——つまり、どちらかに肩入れするつもりはない、という連邦の立場表明だ。
他の国の代表とも挨拶を交わした。南方諸侯国連合の使節、小国の外交官たち。誰もが私を観察している。「誘拐されたという女」が、どんな人物なのかを見定めようとしている。
見せてやろう。私は誘拐などされていない。自分の意志で、ここにいる。
ロビーの奥から、一団が現れた。
先頭を歩くのは、白髪の老人だった。厳格な顔立ち、黒い正装。そして——冷たい目。
「ローゼリア王国宰相、ヴィルヘルム・フォン・クラウゼ閣下のお越しです」
案内役の声に、ロビーの空気が張り詰めた。
ヴィルヘルム宰相は真っ直ぐ私の前まで歩いてきて、立ち止まった。至近距離で、その目が私を見下ろす。
「久しぶりだな、シュタールの娘」
「お初にお目にかかります、宰相閣下。ローゼリアにおりました頃は、お会いする機会がございませんでしたので」
皮肉を込めて答えた。私が外務省で働いていた五年間、宰相が下級職員に会うことなどなかった。今さら「久しぶり」などと言われても、白々しいだけだ。
「ほう。口の減らない娘だ」
「事実を申し上げただけです」
ヴィルヘルムの目が細まった。
「帝国に誘拐され、洗脳されたと聞いていたが……なるほど、元気そうで何よりだ」
「誘拐などされておりません。私は自分の意志で祖国を出ました」
「そうかな?」
宰相が一歩、近づいた。威圧するような距離。でも、私は一歩も引かなかった。
「明日、真実を明らかにしましょう。評議会の場で、全ての国の代表の前で。——楽しみにしているよ」
不敵な笑みを浮かべて、彼は去っていった。
周囲のざわめきが大きくなる。各国の代表が、今のやり取りを見ていた。ローゼリアの宰相と帝国の顧問官が、公然と対立している——その構図は、明日の評議会への期待を高めたことだろう。
「……上等です」
小さく呟いて、私は拳を握りしめた。
宿舎の部屋は、質素だが清潔だった。
窓からは、会議場の建物が見える。明日、あそこで全てが決まる。
書類鞄を開き、証拠資料を確認した。業務記録の写し、検証結果、オットー伯爵に関する資料。全て揃っている。
「大丈夫。準備はできている」
自分に言い聞かせた。
ヴィルヘルム宰相は自信満々だった。何か、切り札を持っているのかもしれない。でも、私には私の武器がある。五年間の仕事の記録。第三国の公正な検証。そして——真実。
私は誘拐などされていない。自分の意志で祖国を出た。自分の足で帝国に来た。自分の力で居場所を作った。
それを、証明する。
窓の外で、月が昇っていた。明日は、晴れるだろうか。
「勝って帰ってこい。待っている」
グレイシアの言葉を思い出す。
「……必ず、勝ちます」
静かに誓って、私は目を閉じた。
明日、大陸評議会の幕が上がる。




