第5話 敵は内にあり
法務省からの調査結果が届いたのは、密書を受け取ってから三日後のことだった。
「オットー伯爵の外交記録です。陛下の指示で、過去十年分を精査したそうです」
エルザが分厚い書類の束をテーブルに置いた。私はページをめくりながら、目を凝らす。駐ローゼリア大使時代の報告書、通商交渉の議事録、外交使節団の随行記録——膨大な量だ。
「何か、引っかかる点は?」
「一つ、気になる箇所があります」
エルザが特定のページを開いた。五年前の日付が記された、通商条約の草案だ。
「この条約交渉、フェリシア様が外務省で担当されていた案件ではありませんか」
見覚えがあった。私が翻訳と草案作成を担当し、アルベルトの名義で提出された条約。あの頃の仕事の一つだ。
「ええ。確かに私が関わりました」
「では、この署名をご覧ください」
エルザが指し示したのは、条約草案の承認欄だった。ローゼリア側の担当者として、アルベルトの署名がある。そして、帝国側の立会人として——オットー・フォン・レーヴェンシュタインの名前。
「オットー伯爵が、この交渉に関わっていた?」
「ええ。当時、彼はまだ駐ローゼリア大使でした。条約締結の立会人を務めています」
つまり、オットー伯爵はアルベルトと直接やり取りをしていたことになる。あの改竄された条約の、当事者として。
「待ってください」
私は別の書類を引っ張り出した。第1章の裁判で使った、改竄の証拠資料。第三国の検証結果が記された報告書だ。
「この条約も、改竄された23件の一つです。私が作成した草案を、アルベルトが自分の名義に書き換えた」
「つまり——」
「オットー伯爵は、改竄を知っていた可能性がある」
立会人として署名した条約が、後に改竄と認定された。普通なら、自分の関与を説明する必要があるはずだ。なのに、彼は何も言わなかった。裁判の時も、今も。
「知っていて、黙認していた……」
「あるいは、共犯だった可能性もあります」
エルザの目が鋭くなった。
「これは使えますね。評議会で、彼の信用を揺さぶる材料になります」
「でも、決定的な証拠ではない」
「ええ。だからこそ、もう少し調べる必要があります」
私は立ち上がった。
「宮廷の図書室に、過去の外交文書のアーカイブがあると聞きました。行ってきます」
図書室は、宮廷の東棟にあった。
高い天井まで届く書架が並び、古い羊皮紙の匂いが漂っている。外交関連の資料は奥の一角にまとめられていた。私は書架の間を歩きながら、目当ての年代の文書を探した。
「あら」
背後から声がして、振り返った。
カロリーネが立っていた。金髪が窓からの光を受けて輝いている。その表情は、前回会った時より——少しだけ、柔らかい気がした。
「奇遇ですわね、フェリシア様」
「カロリーネ様。図書室に、何か御用ですか」
「読書ですわ。……叔母様のお茶会に出なくて済む、数少ない言い訳ですもの」
皮肉めいた言い方だった。でも、その声には疲れが滲んでいる。
「お疲れのようですね」
「……そう見えますか」
カロリーネが近くの椅子に座った。私も、向かい側に腰を下ろす。
「フェリシア様は、なぜここに?」
「調べ物です。過去の外交文書を」
「熱心ですこと。評議会の準備ですか」
隠す理由もない。私は頷いた。
「ええ。祖国が私を『誘拐された』と主張するなら、それを否定する証拠が必要ですから」
「大変ですわね。敵が多くて」
「慣れています」
「……そう」
沈黙が落ちた。カロリーネは窓の外を見ている。その横顔が、どこか寂しげだった。
「フェリシア様」
「はい」
「前に聞きましたわよね。なぜ祖国を捨てたのか、と」
「ええ」
「今なら、少し分かる気がします」
カロリーネが振り返った。その青い目に、複雑な感情が渦巻いている。
「私も、選びたかった」
「何を、ですか」
「自分の人生を」
彼女は小さく笑った。自嘲するような、諦めたような笑み。
「シュタインベルク家の令嬢として生まれ、叔母様の期待を背負い、皇妃候補として育てられました。全て、私が選んだことではありません」
「……」
「あなたが羨ましかった。祖国を捨てて、新しい場所で、自分の力で道を切り開いた。私にはできないことです」
その言葉に、私は何と答えればいいか分からなかった。
彼女もまた、誰かの道具だった。ヘルガ夫人の野望のための駒。皇妃という名の、檻。
「カロリーネ様」
「何ですか」
「選ぶのに、遅すぎることはありませんよ」
カロリーネが目を見開いた。
「私も、五年間は選べませんでした。誰かの言いなりで、自分の仕事を奪われて、それでも我慢していた。でも、ある日——選んだんです。逃げることを」
「逃げる……」
「逃げるのは、負けじゃない。新しい場所で戦うための、戦略的撤退です」
我ながら、偉そうなことを言っている。でも、本心だった。
カロリーネは何も言わなかった。ただ、じっと私を見つめていた。その目の奥で、何かが揺れている気がした。
「……覚えておきますわ」
立ち上がり、彼女は図書室を去っていった。その背中を見送りながら、私は思った。
いつか、彼女も選べる日が来るだろうか。
図書室を出ると、廊下でヘルガ夫人と鉢合わせた。
「あら、フェリシア様。図書室で何をされていたのかしら」
「読書です。勉強になりますので」
「熱心ですこと」
夫人の目が、冷たく光った。
「評議会に出席されるそうですわね」
「ええ。祖国の主張に、直接反論するつもりです」
「そう……」
ヘルガ夫人が一歩、近づいた。
「では、評議会で決着をつけましょう。あなたが帝国にふさわしいかどうか、国際社会の目の前で証明していただきますわ」
宣戦布告。隠す気もない、露骨な敵意。
「望むところです」
私も一歩も引かなかった。
「私は自分の意志でここにいます。それを証明することに、何の躊躇もありません」
ヘルガ夫人の目が細まった。そして、くるりと背を向けた。
「楽しみにしておりますわ」
足音が遠ざかっていく。私は深呼吸をして、東宮別棟への道を歩き始めた。
その夜、私は皇帝の執務室を訪れた。
「評議会まで、あと十日です」
「ああ」
グレイシアは書類から顔を上げた。いつもの無表情。でも、目だけが真剣だった。
「準備は進んでいるか」
「はい。証拠も揃えました。あとは——」
「俺が出られない場所で、戦うことになる」
その言葉に、苦しげな響きがあった。
「分かっています」
「すまない」
「謝らないでください」
私は真っ直ぐ彼を見た。
「だからこそ、私が行くんです。陛下が動けない場所で、陛下の代わりに戦う。それが、私の役目です」
グレイシアが目を見開いた。そして、小さく笑った。初めて見る、穏やかな笑み。
「……対等だな」
「え?」
「お前は、守られるだけの存在じゃない。俺の隣で、共に戦う——対等なパートナーだ」
心臓が跳ねた。その言葉が、どれほど嬉しかったか。
「光栄です」
「勝ってこい」
「はい」
窓の外で、星が瞬いていた。
評議会まで、あと十日。
全ての準備を整えて、私はフロスティアへ向かう。




