第4話 密書は夜届く
噂は、思ったより早く広まった。
「ローゼリア王国が、フェリシア・シュタールは帝国に誘拐されたと主張しているそうです」
エルザの報告を聞いて、私は目を閉じた。予想していなかったわけではない。祖国が私を取り戻そうと動いていることは、爵位剥奪の時から分かっていた。でも、まさか「誘拐」という形で来るとは。
「誘拐、ですか」
「ええ。正式な声明はまだ出ていませんが、外交筋で噂が流れています。帝国が婚約を口実にローゼリアの元貴族を拉致した、と」
馬鹿馬鹿しい。私は自分の意志で祖国を出た。置き手紙まで残して。でも、それを証明するのは簡単ではない。国際社会では、声の大きい方が正義になることもある。
「宮廷内の反応は?」
「芳しくありません。保守派は『厄介事を持ち込んだ』と批判を強めています。中立派も、様子見に転じました」
つまり、私の味方がさらに減ったということだ。
「……そうですか」
「フェリシア様」
エルザの声が、わずかに柔らかくなった。
「まだ、諦めるには早いです」
「分かっています」
分かっている。でも、正直なところ——怖かった。
宮廷を歩くと、視線の質が変わっていた。
以前は無視か敵意だった。今は、それに加えて嫌悪と警戒が混じっている。「帝国に厄介事を持ち込んだ女」という目だ。
廊下ですれ違った貴婦人たちが、わざとらしく距離を取る。聞こえよがしの囁き声が、背中に刺さった。
「外国人なんて、やはり信用できませんわ」
「誘拐だなんて、帝国の名誉に関わりますわよ」
「陛下も、お考え直しになればよろしいのに」
振り返らなかった。振り返っても、何も変わらない。私は黙って歩き続けた。
東宮別棟に戻ると、見知らぬ使用人が待っていた。
「フェリシア様、お届け物です」
差し出されたのは、小さな封筒だった。封蝋には見覚えがある——シュタール伯爵家の紋章。
「どなたから?」
「商人を経由して届きました。差出人は、リーゼロッテ・シュタール様とのことです」
妹からの手紙。前回の手紙は、祖国の顛末を知らせるものだった。今度は、何を——
部屋に入り、封を切った。
『姉様へ
お元気でしょうか。こちらは大変な状況です。
宰相ヴィルヘルム閣下が、姉様を「誘拐された被害者」として国際社会に訴える準備を進めています。大陸評議会で正式に声明を出し、帝国に引き渡しを要求するつもりだそうです。
父上も、この計画に賛同しています。姉様を取り戻せば、シュタール家の名誉が回復できると考えているようです。姉様の意志など、誰も聞こうとしません。
でも、姉様。もっと危険なことがあります。
宰相閣下の側近から聞いた話ですが、帝国の宮廷内に、ローゼリアと通じている者がいるそうです。その人物が、姉様の動向を逐一報告しているとのこと。名前までは分かりませんでしたが、かなりの地位にある人物のようです。
姉様、宮廷内にも内通者がいます。気をつけて。
私にできることがあれば、何でもします。今度こそ、姉様の力になりたいのです。
リーゼロッテより』
手紙を読み終えて、私は深く息を吐いた。
内通者。宮廷内に、ローゼリアと繋がっている人物がいる。舞踏会の夜に聞いた、ヘルガ夫人とオットー伯爵の会話が蘇った。「ローゼリアからの連絡を待ちましょう」——あれは、この計画のことだったのか。
「エルザさんを、呼ばないと」
立ち上がろうとした時、扉が叩かれた。
「フェリシア様、エルザです。入ってもよろしいですか」
タイミングが良すぎる。いや、彼女のことだ。何か察したのかもしれない。
「どうぞ」
密書の内容を伝えると、エルザは長い沈黙の後、口を開いた。
「オットー伯爵で、間違いないでしょう」
「断定できますか?」
「状況証拠ですが、十分です。元駐ローゼリア大使、ヘルガ夫人との密談、そして『かなりの地位にある人物』という条件。全てが一致します」
「でも、証拠がない」
「ええ。だからこそ、慎重に動く必要があります」
エルザが地図を広げた。大陸全土が描かれた、外交用の地図だ。
「大陸評議会は、二週間後にフロスティア連邦で開催されます。ローゼリアが声明を出すなら、そこが舞台になるでしょう」
「私が出席して、直接反論するしかない……」
「そうなりますね。ただ、問題があります」
「何でしょう」
「陛下の許可が必要です。皇妃候補が国際会議に出席するには、皇帝の名代としての資格が要ります」
つまり、グレイシアに話を通さなければならない。
「……行ってきます」
「夜分ですが、よろしいのですか」
「待っていられません」
私は部屋を出た。
執務室の扉を叩くと、すぐに返事があった。
「入れ」
中に入ると、グレイシアはいつものように書類に向かっていた。私の顔を見て、ペンを置く。
「どうした。顔色が悪い」
「報告があります」
密書の内容と、エルザとの相談結果を伝えた。グレイシアは黙って聞いていた。その表情は、いつも以上に読めない。
「大陸評議会に出席したい、ということか」
「はい。私が直接、証言するしかありません」
「……」
沈黙が落ちた。グレイシアが立ち上がり、窓際に移動する。
「俺は、皇帝として動けない」
「分かっています」
「宮廷内の派閥争いに介入すれば、均衡が崩れる。ローゼリアとの外交問題に私情を挟めば、帝国の信用に関わる。だから——」
「だから、私が一人で戦います」
グレイシアが振り返った。その目に、苦しげな光が宿っていた。
「すまない」
「謝らないでください。陛下には、陛下の立場があります。私は——自分で選んでここにいるんです。だから、自分で戦います」
長い沈黙の後、グレイシアが小さく頷いた。
「評議会への出席を許可する。帝国顧問官としての資格で、陳述の機会を求めろ」
「ありがとうございます」
「それと——」
グレイシアが机に戻り、引き出しから一枚の紙を取り出した。
「法務省に、オットー伯爵の過去の外交記録を調査させている。まだ表には出せないが、何か出てくるかもしれない」
心臓が跳ねた。動けないと言いながら、彼は動いていた。表立っては無理でも、裏で手を回している。
「陛下……」
「俺にできるのは、ここまでだ。あとは、お前が——」
「勝ってきます」
グレイシアの目が、わずかに和らいだ。
「ああ。待っている」
その言葉を胸に、私は執務室を後にした。
部屋に戻り、妹の手紙をもう一度読み返した。
『今度こそ、姉様の力になりたいのです』
リーゼロッテ。五年間、何もできなかったと悔やんでいた妹。でも今、彼女は危険を冒して情報を送ってくれた。
「……ありがとう」
手紙を大切にしまい、窓の外を見た。星が瞬いている。
二週間後、フロスティア連邦。そこで全てが決まる。
内通者の存在。祖国の陰謀。宮廷内の孤立。
敵は多い。でも——味方もいる。グレイシアがいる。エルザがいる。そして、遠い祖国には、妹がいる。
負けるわけにはいかない。




