第3話 舞踏会の一曲
鏡の中の自分が、別人のように見えた。
深い青のドレスに身を包み、髪は編み込んでまとめ上げられている。控えめだが上質な宝石のイヤリング。首元には——グレイシアから貰った婚約指輪と同じ、青い宝石のネックレス。
「お似合いです」
エルザが淡々と言った。彼女の「お似合いです」は、他の人の「素晴らしい」より信頼できる。
「ありがとうございます。でも、緊張します」
「当然です。今夜は皇帝陛下主催の舞踏会。帝国中の貴族が集まります。皇妃候補としての初めての公式な場」
分かっている。だからこそ、胃が痛い。
「一つ、覚悟しておいてください」
「何でしょう」
「おそらく、誰もあなたをダンスに誘いません」
予想はしていた。保守派の貴族たちにとって、私は招かれざる客だ。外国人で、爵位もなく、実力だけでのし上がってきた女。そんな相手と踊れば、保守派から睨まれる。だから誰も近寄らない。
「孤立する、ということですね」
「ええ。それでも、堂々としていてください。動揺を見せれば、彼らの思う壺です」
「分かりました」
深呼吸をして、部屋を出た。
大広間は、眩いばかりの光に満ちていた。
シャンデリアが天井から無数の光を降らせ、貴族たちの宝石が煌めく。楽団の奏でる優雅な旋律。笑い声と囁き声が混じり合う、華やかな空間。
私が入場すると、近くにいた貴婦人たちが一斉に顔を背けた。
分かっていたことだ。分かっていても、胸が痛む。
壁際に移動し、グラスを手に取った。飲む気はないが、何か持っていないと手持ち無沙汰になる。周囲の視線を感じながら、私は静かに佇んでいた。
一曲目が終わり、二曲目が始まる。誰も近づいてこない。
三曲目。四曲目。時間だけが過ぎていく。
周囲では、貴族たちが楽しそうに踊っている。カロリーネの姿も見えた。彼女は複数の貴公子に囲まれ、優雅にダンスを披露している。それが本来の皇妃候補の姿なのだろう。私とは違う。
「……大丈夫」
小さく呟いた。誰に言い聞かせているのか、自分でも分からない。
五曲目が終わった時、広間の空気が変わった。
ざわめきが波のように広がり、人々が道を空けていく。その先から歩いてきたのは——
「陛下……?」
グレイシアだった。
皇帝の正装に身を包み、無表情のまま真っ直ぐ私に向かってくる。周囲の貴族たちが息を呑む気配がした。
彼は私の前で立ち止まり、手を差し出した。
「一曲、踊れるか」
心臓が跳ねた。皇帝が自ら、皇妃候補をダンスに誘う。それが何を意味するか、この場にいる全員が理解している。
「……よろしいのですか」
「皇帝として、婚約者と一曲踊ることに問題はない」
建前だ。公の場での中立を保つため、彼は私に近づかないはずだった。それなのに——
「光栄です」
その手を取った。大きくて、温かい手。
楽団が新しい曲を奏で始める。ゆったりとしたワルツ。グレイシアの手が私の腰に添えられ、私たちは踊り始めた。
周囲の視線が集中しているのが分かる。驚き、困惑、そして——保守派の貴婦人たちの、隠しきれない憤り。
「注目されていますね」
小声で言うと、グレイシアが低く答えた。
「構わん」
「陛下の立場が——」
「俺の婚約者が、一人で壁際に立っている方が問題だ」
見ていたのだ。ずっと、見ていてくれたのだ。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな。これくらいしかできん」
本当は、もっとしたいのだろう。でも、皇帝という立場が彼を縛っている。公の場では中立を保たねばならない。派閥争いに介入できない。それでも、この一曲だけは——
「想像より長い三ヶ月だ」
グレイシアが呟いた。その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「私もです」
「あと二ヶ月。……待てるか」
「待ちます」
「そうか」
彼の手が、わずかに強く私を引き寄せた。ほんの数センチ。周囲には気づかれない程度の距離。でも、その温もりが胸に染みた。
曲が終わりに近づく。名残惜しいが、これ以上は——
「次の舞踏会でも、一曲だけは踊る」
「え?」
「約束だ」
グレイシアの目が、真っ直ぐ私を見ていた。無表情の奥に、確かな感情が灯っている。
曲が終わった。私たちは離れ、互いに礼をした。
「ありがとうございました、陛下」
「ああ」
彼は踵を返し、玉座の方へ戻っていった。その背中を見送りながら、私は胸の高鳴りを抑えようとした。
周囲のざわめきが大きくなる。貴族たちが互いに囁き合っている。皇帝が自ら踊りに来た——その意味を、誰もが理解している。
壁際に戻ると、さっきまでとは空気が違っていた。何人かの貴族が、遠巻きにこちらを窺っている。敵意だけでなく、好奇や打算の目も混じっている。
「……少しは、風向きが変わったかしら」
独り言のように呟いて、私はグラスに口をつけた。
舞踏会が終わり、大広間を後にしようとした時だった。
回廊を歩いていると、曲がり角の向こうから声が聞こえてきた。
「——そろそろ、本格的に動きましょう」
足を止めた。聞き覚えのない男性の声だ。
「焦る必要はありませんわ、オットー伯爵。まだ時間は——」
ヘルガ夫人の声。私は咄嗟に柱の陰に身を隠した。
「しかし、今夜の舞踏会をご覧になったでしょう。陛下があの女を庇っている。このままでは、既成事実が積み上がってしまいます」
「分かっておりますわ。ですから、もう少しだけ——」
「ローゼリアからの連絡を待ちましょう。あちらの準備が整えば、一気に片がつきます」
ローゼリア。祖国の名前が出た瞬間、背筋が凍った。
「……そうですわね。では、連絡を待ちましょう」
足音が遠ざかっていく。私は柱の陰で息を殺していた。
ローゼリアとの連絡。「本格的に動く」という言葉。何かが企まれている。それも、私を排除するための何かが。
「……エルザさんに、報告しないと」
小さく呟いて、私は東宮別棟への道を急いだ。
部屋に戻ると、エルザが待っていた。
「お帰りなさい。舞踏会は——」
「エルザさん、聞いてください」
彼女の言葉を遮り、私は回廊で聞いた会話を伝えた。ヘルガ夫人と、オットー伯爵という男。そしてローゼリアという単語。
エルザの表情が、みるみる険しくなっていった。
「オットー・フォン・レーヴェンシュタイン伯爵……宮廷外務顧問です。かつてローゼリアに駐在していた経歴があります」
「つまり、祖国との繋がりがある?」
「可能性は高いですね」
エルザが窓の外を見た。夜空に星が瞬いている。
「今夜は、ひとまずお休みください。明日、詳しく調べます」
「でも——」
「焦っても仕方ありません。情報が足りない状態で動けば、こちらが不利になります。まずは、相手の動きを見極めましょう」
彼女の言葉は正しかった。前世でも、拙速な判断が失敗を招いた経験がある。今は情報を集める時だ。
「……分かりました」
「それと」
エルザが、小さな包みをテーブルに置いた。
「陛下の執務室から、また届いています」
開けると、今度は干し果物だった。そして、紙片が一枚。
『一曲だけですまなかった』
また、あの不器用な字。不器用な言葉。でも——
「……十分です」
呟いて、私は干し果物を一粒、口に含んだ。甘酸っぱい味が、舌の上に広がる。
三ヶ月のうち、一ヶ月が過ぎた。
残り二ヶ月。まだまだ先は長い。そして、どうやら——思っていた以上に、険しい道のりになりそうだ。
でも、待っていてくれる人がいる。見ていてくれる人がいる。
だから、負けない。




