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三歩下がれと言われたので三千里離れた国へ逃げました  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第2話 社交界は戦場でして


招待状が届いたのは、東宮別棟に移って二週間が経った頃だった。


「シュタインベルク公爵夫人主催の茶会……」


封蝋を開き、中身を確認する。美しい筆跡で書かれた招待状には、日時と場所、そして茶会での作法が丁寧に記されていた。


エルザが私の肩越しに覗き込み、眉をひそめた。


「見せていただけますか」


招待状を渡すと、彼女は内容を黙読し始めた。数秒後、その目が鋭くなる。


「これは……」


「気づきましたか」


「ええ。茶会の作法に、三箇所の誤りがあります」


やはり。私の違和感は正しかった。


「一つ目、入室時の礼の角度。王都式では十五度ですが、ここには三十度と書かれています。二つ目、着席の順序。主賓が先に座るのが正式ですが、主催者が先と記載されています。三つ目——」


「茶器の持ち方、ですね」


「その通りです」


エルザが招待状をテーブルに置いた。


「これを信じて茶会に臨めば、あなたは全ての作法を間違えることになります。そして保守派の貴婦人たちの前で、恥をかく」


「罠、ですか」


「間違いなく」


分かっていた。ヘルガ夫人は、最初の挨拶で私を侮れないと判断した。だから、次は別の手を使ってきた。知識で勝てないなら、偽の知識を与えて自滅させる——陰湿だが、効果的な方法だ。


「どうしますか」


エルザの問いかけに、私は少し考えてから答えた。


「正しい作法で臨みます」


「それでは、招待状を無視したと思われます」


「ええ。だから——」


私は微笑んだ。前世で何度も経験した、相手の罠を逆手に取る交渉術。


「向こうが選ばせてくれるように、仕向けます」


茶会当日、会場となった宮廷の応接間には、二十人ほどの貴婦人が集まっていた。


私が入室すると、会話がぴたりと止まった。視線が集中する。好奇、警戒、そして——明らかな敵意。保守派の牙城に、外国人の皇妃候補が乗り込んできた。そういう構図だ。


ヘルガ夫人が優雅に立ち上がった。


「ようこそ、フェリシア様。お待ちしておりましたわ」


「お招きいただき、光栄です」


入室の礼。ここが最初の分岐点だ。


招待状には三十度と書かれていた。だが、王都式の正式な角度は十五度。どちらを選ぶか——いや、選ばない。


「シュタインベルク公爵夫人」


私は礼をする直前で動きを止め、にっこりと微笑んだ。


「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


「あら、何かしら」


「入室の礼ですが、帝国式と旧王国式では角度が異なると聞いております。本日の茶会は、どちらの作法でお迎えすればよろしいでしょうか」


会場がざわめいた。


ヘルガ夫人の目が、一瞬だけ揺れる。この質問の意味を理解したのだろう。私は招待状の間違いに気づいている——そう宣言したも同然だ。


だが、彼女は認めるわけにはいかない。自分が偽の作法を教えたと認めれば、主催者としての面目が潰れる。


「……王都式で結構ですわ」


「かしこまりました」


十五度の礼を捧げる。完璧に。一分の隙もなく。


「では、お席へどうぞ」


ヘルガ夫人の声には、微かな苛立ちが混じっていた。一本取られた、という表情だ。


着席の順序も、茶器の持ち方も、同じ手法で切り抜けた。「どちらの作法がお好みですか」と尋ね、相手に選ばせる。罠を踏まず、かといって相手の面目も潰さない。針の穴を通すような作業だったが、エルザの特訓のおかげで何とか乗り切れた。


茶会が半ばを過ぎた頃、一人の令嬢が私の隣に座った。


金髪碧眼、人形のように整った容姿。儚げな雰囲気を纏った若い女性——カロリーネ・フォン・シュタインベルク。ヘルガ夫人の姪にして、もう一人の皇妃候補。


「初めまして、フェリシア様」


「初めまして、カロリーネ様」


「お噂はかねがね。外国から来られて、あっという間に皇帝陛下の寵愛を得られたとか」


寵愛。その言葉の響きに、棘があった。


「寵愛というほどのものでは。私はただ、与えられた仕事をこなしてきただけです」


「ご謙遜を。冒険者ギルドの改革、大陸評議会での弁論……どれも素晴らしいご活躍だったと聞いておりますわ」


「お褒めいただき、恐縮です」


カロリーネの青い目が、じっと私を見つめていた。その奥にあるのは——敵意だけではない。もっと複雑な何かが渦巻いている気がした。


「私、ずっと不思議だったんです」


「何がでしょう」


「あなたのような方が、なぜ祖国を捨てたのか。能力があるなら、その場所で戦えばよかったのではありませんか」


「……戦えない場所も、あります」


答えながら、私は彼女の表情を観察していた。敵意の裏に隠れているもの。それは——


「私には、選ぶ権利がありませんでした」


ぽつりと、カロリーネが呟いた。


「え?」


「何でもありませんわ」


彼女は立ち上がり、去り際にこう言った。


「あなたなんかに、皇妃の座は渡しませんわ。……あなたなんかに」


その言葉は、私への敵意だったのだろう。でも、なぜか——彼女自身を責めているようにも聞こえた。


茶会が終わり、東宮別棟に戻ると、机の上に小さな包みが置かれていた。


「これは……?」


「陛下の執務室から届いたものです」


エルザが淡々と答えた。


包みを開けると、焼き菓子が入っていた。素朴な見た目だが、香ばしい匂いが漂う。そして、小さな紙片が一枚。


『よくやった』


それだけ。署名もない。でも、この不器用な字はグレイシアのものだ。


「……どうして、茶会のことを?」


「陛下には、宮廷内に多くの耳があります。皇妃候補の動向を把握していないはずがありません」


見ていてくれた。公の場では何もできないと言いながら、ちゃんと見ていてくれた。


焼き菓子を一つ、口に含む。甘さの中に、ほのかな苦みがある。大人向けの味だ。


「……美味しい」


「それは良かったですね」


エルザの声に、わずかな温かみがあった。


「茶会の件、及第点ですか」


「辛うじて。ただ——」


エルザが窓の外を見た。夕陽が沈みかけている。


「カロリーネ様との会話。何か気になることがありましたか」


「……ありました」


彼女の言葉が、頭から離れない。「選ぶ権利がなかった」と呟いた、あの声。敵意の裏にあった、複雑な感情。


「彼女は、ヘルガ夫人の姪です。夫人の後ろ盾があってこそ、皇妃候補でいられる。それが、どういう意味か——」


「分かっています」


エルザの言葉を遮って、私は言った。


「彼女もまた、誰かの道具なのかもしれない。……かつての私のように」


エルザが目を見開いた。そして、小さく頷いた。


「あなたは、思っていたより——」


「何ですか」


「いえ。明日も早いので、今日はお休みください」


彼女は何かを言いかけて、飲み込んだ。その表情が、少しだけ柔らかくなった気がした。


焼き菓子の包みを抱えて、寝室に向かう。窓の外には、星が瞬き始めていた。


三ヶ月のうち、二週間が過ぎた。残り二ヶ月半。まだまだ先は長い。でも——


「よくやった」


あの不器用な三文字が、胸の中で温かく灯っている。


明日も、頑張ろう。

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