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三歩下がれと言われたので三千里離れた国へ逃げました  作者: 秋月 もみじ
第2章

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11/30

第1話 東宮の朝は早くて


引っ越しの前夜、私はいつものように皇帝の執務室にいた。


グレイシアが淹れた茶を受け取り、一口含む。この部屋で過ごす時間も、明日からはなくなる。皇妃教育の期間中、私は東宮別棟に住むことになる。皇帝との私的な接触は制限され、会えるのは公の場だけ。


「三ヶ月か」


グレイシアが呟いた。窓の外を見たまま、こちらを向かない。


「通常は半年から一年と聞きました。短縮していただいたのですね」


「お前なら、三ヶ月で十分だ」


「買いかぶりすぎでは」


「事実を言っている」


相変わらず、この人は褒めるのが下手だ。でも、その不器用さが心地よくなっている自分がいる。


「明日から、会えなくなりますね」


言葉にすると、思った以上に寂しさが込み上げてきた。たった半年前まで、誰かと会えないことを寂しいと思う日が来るなんて想像もしなかった。五年間、感情を殺して生きてきた私が。


グレイシアが振り返った。いつもの無表情。でも、目だけが真剣だった。


「三ヶ月だ」


「はい」


「それまでに、必ず迎えに行く」


心臓が跳ねた。迎えに行く。その言葉が、まるでおとぎ話の王子様みたいで——いや、この人は皇帝だから、王子様より上か。


「……待っています」


声が震えそうになるのを堪えて、私は微笑んだ。グレイシアの耳が、わずかに赤くなっていた。


翌朝、東宮別棟に到着した私を待っていたのは、銀縁眼鏡の女性だった。


「フェリシア・シュタール様ですね。本日より皇妃教育を担当いたします、エルザ・ヴァイスハウプトと申します」


きっちりとまとめられた茶髪、実務的な服装、そして——値踏みするような冷たい目。第一印象は「厳しそう」の一言に尽きた。


「よろしくお願いいたします、エルザ様」


「様は不要です。私は宮廷女官長補佐に過ぎません。平民出身ですので」


平民出身。その言葉を、彼女は卑下でも自慢でもなく、ただの事実として口にした。


「では、エルザさんと」


「それで結構です。——さて、荷解きは後にして、まず現状を把握していただきます。こちらへ」


有無を言わさぬ口調で、彼女は歩き出した。私は慌ててその後を追う。


東宮別棟は、思っていたより広かった。私に与えられた部屋は、執務室と寝室と書斎が一体になった贅沢な造り。窓からは中庭の薔薇園が見える。美しい場所だ。でも、あの執務室の無骨な椅子の方が、なぜか恋しかった。


書斎に通されると、エルザがテーブルの上に地図のようなものを広げた。


「宮廷の派閥図です」


見れば、人名と矢印が複雑に絡み合った図表だった。


「帝国宮廷は大きく三つの派閥に分かれています。皇帝陛下を支持する改革派、伝統的な貴族制度を重視する保守派、そしてどちらにも属さない中立派」


「なるほど」


「改革派はフェリシア様に好意的です。実力主義を推進する陛下の方針と、あなたの経歴が合致しているからです。問題は保守派」


エルザの指が、一つの名前を指した。


「ヘルガ・フォン・シュタインベルク公爵夫人。保守派の中心人物であり、皇太后様の側近です」


「シュタインベルク……帝国建国以来の名門ですね」


「よくご存じで。彼女は『皇妃は帝国貴族から選ばれるべき』という信念を持っています。外国人で、しかも爵位を剥奪された元令嬢が皇妃になることを——」


「許せない、と」


「その通りです」


エルザが眼鏡を押し上げた。その目が、少しだけ和らいだ気がした。


「状況を正確に把握する能力。それがあなたの武器ですね」


「……褒めていただいているのでしょうか」


「事実を言っています。——さて、本日午後、ヘルガ夫人があなたに『ご挨拶』に来られます」


「挨拶、ですか」


「名目上は。実際は威圧です。あなたの反応を見て、扱いやすい相手かどうかを判断するつもりでしょう」


エルザが立ち上がり、窓際に移動した。


「それまでに、帝国式の礼法を叩き込みます。完璧に。一分の隙もなく」


「午前中だけで、ですか」


「できますか」


挑戦的な問いかけ。私は立ち上がって、彼女の目を見た。


「やります」


エルザの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「良い返事です」


午後、応接間にヘルガ夫人が現れた。


白髪交じりの黒髪を完璧にまとめ上げ、深紅のドレスを纏った壮年の女性。鋭い目が、私を頭からつま先まで値踏みする。


「お初にお目にかかります、シュタール様。いえ——今は何とお呼びすればよろしいのかしら。爵位をお持ちでないのでしたわね」


開口一番、それか。


午前中、エルザに叩き込まれた知識が頭を巡る。帝国式の礼法では、爵位を持たない者への呼称は複数ある。その中で、相手の地位を最も尊重する形式は——


「フェリシアで結構です、シュタインベルク公爵夫人。肩書きよりも、名前で呼んでいただける方が光栄ですわ」


にっこりと微笑む。エルザが教えてくれた「笑顔の作り方」を、忠実に再現する。


ヘルガ夫人の眉がぴくりと動いた。


「あら、ご謙遜を。帝国顧問官という立派な肩書きがおありでしょうに」


「顧問官は職位であって、爵位ではありませんわ。夫人のお家柄と比べれば、取るに足らないものです」


帝国式礼法の要諦。相手を立てながら、自分を卑下しすぎない。卑屈に見えれば侮られ、傲慢に見えれば敵を増やす。その絶妙な均衡点を、エルザは「針の穴を通すような作業」と表現した。


「……お上手ですこと」


ヘルガ夫人の声に、かすかな苛立ちが混じった。


「宮廷の作法を、どこでお学びになったのかしら。ローゼリアの片田舎では、このような礼儀作法は教えていないと聞いておりますけれど」


「帝国に参りましてから、多くの方に教えていただきました。帝国の方々は、とても親切でいらっしゃいます」


嘘ではない。エルザは厳しいが、確かに教えてくれた。親切かどうかは解釈の問題だ。


「そう……」


ヘルガ夫人が扇子を開いた。その奥で、目が細められる。


「では、一つお尋ねしますわ。帝国式の茶会では、最初の一口をいただく前に何をするか、ご存じかしら」


罠だ。直感的に分かった。


帝国式の茶会作法には、地域によって微妙な違いがある。王都グラオス式と、北部式と、南部式。ヘルガ夫人がどの作法を「正解」とするかで、私の答えは変わる。


だが——エルザはこう言っていた。「迷ったら、相手に選ばせろ」と。


「帝国式と一口に申しましても、様々な流派がございますわ。夫人は、どの作法がお好みでいらっしゃいますか」


一瞬、ヘルガ夫人の表情が固まった。


「……王都式ですわ」


「では、私も王都式で。杯を掲げ、主催者への敬意を示してから、一口目をいただく——でよろしいでしょうか」


沈黙が落ちた。


ヘルガ夫人の目に、初めて警戒の色が浮かんだ。侮っていた相手が、思ったより手強いと気づいた時の目だ。


「……お見事ですこと」


扇子が閉じられた。


「皇妃教育が終わりましたら、ぜひ茶会にお招きしますわ。その時を、楽しみにしておりますわね」


社交辞令。だが、その奥に潜む敵意は隠しきれていない。


「こちらこそ、楽しみにしております」


私も社交辞令で返した。笑顔の下で、覚悟を固めながら。


ヘルガ夫人が去った後、エルザが応接間に入ってきた。


「お見事でした」


「……及第点ですか」


「ギリギリ、ですが」


エルザが眼鏡を押し上げる。その目は、午前中より少しだけ温かい気がした。


「ただ、一つ問題があります」


「問題?」


「あの夫人を敵に回しました」


分かっている。あの切り返しは、ヘルガ夫人のプライドを傷つけた。侮っていた相手に一本取られた屈辱は、彼女の敵意を確実に深めただろう。


「避けられませんでした」


「ええ、避けられなかったでしょう。どう答えても、夫人はあなたを敵と見なしたはずです。であれば——」


エルザが窓の外を見た。夕陽が薔薇園を赤く染めている。


「最初から一矢報いておく方が、後々の交渉がしやすくなります。侮られたままでは、いつまでも足元を見られますから」


「……あなたも、そうやって生き延びてきたのですか」


問いかけると、エルザは少しだけ笑った。初めて見る、穏やかな表情だった。


「平民が宮廷で生きていくには、それしか方法がなかっただけです」


彼女の過去に、何があったのかは分からない。でも——この人は、信頼できる。直感的にそう思った。


「エルザさん」


「はい」


「三ヶ月、よろしくお願いします」


「……こちらこそ」


窓の外で、夕陽が沈んでいく。


明日から、本当の戦いが始まる。宮廷という名の戦場で、私は皇妃の座を勝ち取らなければならない。


三ヶ月後、グレイシアが迎えに来てくれる。


その時、胸を張って「ただいま」と言えるように——私は、この場所で戦う。

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