第10話 三千里の先で見つけたもの
手紙が届いたのは、婚約発表から一ヶ月が過ぎた頃だった。
差出人の名前を見て、私は少し驚いた。リーゼロッテ・シュタール。五年間、一度も連絡をくれなかった妹からの手紙。封を切ると、几帳面な文字がびっしりと並んでいた。
『姉様へ。お元気でしょうか。こちらは大変なことになっています——』
手紙の内容は、祖国の顛末だった。
アルベルト・ヴァイスは、外務省を罷免された。第三国の検証結果が公表されたことで、五年間の功績が全て虚偽だったことが明るみに出たのだ。「天才外交官」の評判は地に落ち、社交界からも締め出された。婚約者だったクラリッサ嬢は、失脚が決まった途端に婚約を破棄したらしい。
『ヴァイス侯爵家は、領地経営の失敗も重なり、没落寸前とのことです。アルベルト様は実家に戻られましたが、以前のような傲慢さは影を潜め、別人のようだと噂されています』
ざまぁ、という感情が湧くかと思った。でも、不思議と何も感じなかった。ただ、遠い国の出来事を読んでいるような気分だった。
『父上も反省しておられます。姉様を道具のように扱ったことを。もし許していただけるなら、一度お会いできないかと——』
私は静かに手紙を閉じた。
許すも許さないもない。ただ、もう関係のない人たちだ。私はあの国を出た。爵位を剥奪された。国外追放になった。そして今、私はここにいる。
窓の外を見る。帝都の街並みが、春の陽射しに輝いていた。ここが、私の居場所だ。
手紙を引き出しにしまい、仕事に戻った。返事を書くつもりはなかった。過去は過去だ。振り返る必要はない。
その日の夕方、皇帝から呼び出しがあった。
執務室に入ると、いつものように茶が用意されていた。でも、皇帝の様子がどこか違う。落ち着かないように、部屋の中を歩き回っている。
「陛下? どうされましたか」
「……座れ」
言われるまま椅子に座る。皇帝は窓際に立ったまま、こちらを見ようとしない。
長い沈黙があった。
「フェリシア」
「はい」
「婚約を……解消したい」
心臓が、止まったような気がした。
解消。偽装婚約を、終わりにする。それは最初から決まっていたことだ。期限付き、互いに干渉しない、業務上の関係。条件は私が承諾した。だから、これは——当然の流れだ。
なのに。
「……そう、ですか」
声が震えた。自分でも驚くほど、動揺していた。
「理由を、お聞きしても」
「ああ」
皇帝が振り返った。その目が、真っ直ぐ私を捉える。
「偽装では、嫌だからだ」
「……え?」
「だから、解消したい。偽装の婚約を」
皇帝が一歩、近づいた。
「そして——本物の婚約をしたい」
息が止まった。言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「本物……?」
「最初から、そのつもりだった」
皇帝が目を逸らす。耳の先が赤い。
「政治的な保護策だと言ったのは嘘だ。いや、嘘ではないが……それだけではなかった」
「陛下……」
「お前が帝国に来た時から、気になっていた。国境で古代帝国語を読んだ時、ギルドを改革した時、父親の手紙を突き返した時——ずっと、目が離せなかった」
皇帝の言葉が、堰を切ったように溢れ出す。いつもは寡黙なこの人が、こんなに多くの言葉を連ねるのを初めて見た。
「だが、お前は傷ついていた。祖国に裏切られ、婚約者に利用され、家族に売られた。そんな相手に、すぐに想いを伝えるのは——重荷になると思った」
だから偽装という形を取った。傍にいる口実が欲しかった。お前が自分の足で立ち直るまで、静かに見守りたかった。
「……あの指輪」
私は左手を見た。深い青の宝石が、夕陽を反射してきらめいている。
「サイズがぴったりでした。事前に調べたと仰いましたが——」
「俺が選んだ」
皇帝が、小さく頷いた。
「慣例では側近が用意する。だが、お前に渡すものを他人に任せたくなかった。だから、自分で——」
言葉が途切れる。皇帝が額に手を当てた。照れているのだ。この人が。
「……陛下は、ずるいですね」
「何がだ」
「最初から本気だったなんて。私、ずっと悩んでいたんです。この気持ちに名前をつけていいのか。偽装なのに、こんなに温かい気持ちになるのはおかしいんじゃないかって」
皇帝が目を見開いた。
「お前も……?」
「はい」
私は立ち上がった。皇帝の前に立つ。見上げると、驚いたような、期待するような、複雑な表情が見えた。
「私も、陛下のことが——」
言葉にしようとして、喉が詰まった。五年間、感情を殺して生きてきた。誰かを好きになることも、誰かに好かれることも、諦めていた。だから、この気持ちを言葉にする方法が分からない。
「……好きです」
絞り出すように言った。顔が熱い。たぶん、真っ赤になっている。
皇帝が、ゆっくりと手を伸ばした。私の頬に触れる。大きくて、温かい手。
「俺の隣にいろ」
低い声が、耳に響く。
「これは命令ではない。……願いだ」
目頭が熱くなった。泣くつもりはなかったのに、涙が溢れてくる。
「はい」
声が震える。でも、はっきりと答えた。
「はい。喜んで」
皇帝が——グレイシアが、微かに笑った。初めて見る、穏やかな笑顔だった。
バルコニーに出ると、夜空に星が瞬いていた。
隣にグレイシアがいる。いつものように、無言で。でも、今は沈黙が心地よかった。言葉がなくても伝わるものがある。そういう関係を、私たちは築いてきた。
「祖国から、手紙が来ました」
「知っている。妹からだろう」
「……監視していたんですか」
「お前に届く手紙は全て確認している。当然だ」
悪びれもせずに言う。呆れるべきなのだろうが、なぜか笑ってしまった。
「アルベルトは失脚したそうです。ヴァイス家も没落寸前だと」
「そうか」
「……復讐したわけではないのに。不思議な気分です」
「お前は正しいことをしただけだ。自分の仕事を守り、自分の足で歩いた。その結果、嘘が暴かれ、真実が明るみに出た。——因果応報というやつだ」
グレイシアが空を見上げた。
「お前は何も悪くない。胸を張れ」
その言葉が、静かに胸に染みた。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
いつもの台詞。でも、その声は優しかった。
私は左手を見た。婚約指輪が、星明かりを反射して輝いている。偽装ではない、本物の証。
「三歩下がれと言われたから、三千里下がりました」
呟くように言った。グレイシアが横目でこちらを見る。
「後悔しているか」
「いいえ」
首を横に振った。
「三千里下がった先で——私は、隣を歩いてくれる人を見つけました」
グレイシアが目を見開いた。そして、小さく笑った。
「……お前は時々、とんでもないことを言うな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「好きにしろ」
ぶっきらぼうな声。でも、繋がれた手は温かかった。
夜風が頬を撫でる。帝都の街並みが、星空の下に広がっている。ここが私の居場所だ。この人の隣が、私の帰る場所だ。
三歩下がれと言われた日から、ずいぶん遠くまで来た。
でも——これで良かった。
むしろ、これが良かった。
隣を見ると、グレイシアが同じように街を見下ろしていた。無表情に見えるけれど、その目は穏やかだ。私にしか分からない、小さな変化。
「陛下」
「グレイシアでいい。二人の時は」
「……グレイシア」
名前を呼ぶと、彼がこちらを向いた。
「なんだ」
「これからも、よろしくお願いします」
彼は何も言わなかった。代わりに、繋いだ手を少しだけ強く握った。
それだけで、十分だった。




