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三歩下がれと言われたので三千里離れた国へ逃げました  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第1話 三歩下がれと言われたので、三千里下がります


春の陽射しが窓から差し込む応接間で、私は婚約者の言葉を聞いていた。


「女は黙って夫に従うものだ」


アルベルト・ヴァイス侯爵子息——私の婚約者は、ソファに深く腰かけたまま、こちらを見ようともしない。隣には男爵令嬢クラリッサが寄り添っている。婚約者の隣に、別の女。普通なら怒るべき場面なのだろう。


けれど私の胸に浮かんだのは、怒りではなかった。ああ、やっぱり。そんな、妙に冷めた納得だった。


「口を開くな、意見をするな、三歩下がって歩け」


アルベルトの声が続く。


「お前はそれすらできていない」


「ようやく躾が始まりますわね」


奥のソファでマルグリット夫人——アルベルトの母が、扇で口元を隠しながら笑った。


「フェリシアさん、あなたには少々、自由にさせすぎましたわ。外務省でお仕事ですって? はしたない。これからは屋敷で、令嬢らしく過ごしていただきます」


令嬢らしく。その言葉の意味を、私は知っている。この人たちにとっての「令嬢らしさ」とは、黙って従い、意見を持たず、夫の付属品として微笑むことだ。


五年間、外務省で働いてきた。翻訳をした。条約の草案を書いた。外交使節団の調整をした。その全てが、アルベルトの名前で提出された。私の仕事は、私のものではなかった。


「……かしこまりました」


私は静かに頭を下げた。


「三歩ほど、下がらせていただきます」


アルベルトが初めてこちらを見た。けれど私は、もう彼の目を見ていなかった。


---


その夜、シュタール伯爵邸の自室で、私は最低限の荷物をまとめていた。


着替えは三日分。路銀として、五年間こつこつ貯めた給金。身分証明になる書類。そして——


「これも、持っていきましょう」


机の引き出しから、分厚い紙束を取り出す。外務省で作成した書類の写し。私が書いた全ての報告書、条約草案、議事録の控え。


官僚としての習慣だった。自分が作った書類は、必ず写しを取っておく。何かあった時のために。何かあった時——今が、その時なのかもしれない。


荷物に紙束を詰め込みながら、私は窓の外を見た。月が高い。商隊の出発まで、あと二時間。毎週この曜日の深夜、王都から東の国境へ向かう定期便がある。調べておいてよかった。


胸元に手を当てる。服の下に、銀のペンダントの感触。母の形見だ。


『自分を大切にしなさい』


八歳で亡くなった母が、最後に言った言葉。十四年間、ずっと守れなかった。でも、今夜から変わる。私は、私のために生きる。


---


廊下に出た瞬間、声がかかった。


「フェリシア」


振り返ると、父が立っていた。シュタール伯爵エドムント。私を十二歳の時に、勝手にヴァイス家と婚約させた人。


「こんな夜更けにどこへ行く。まさか、逃げ出すつもりではあるまいな」


「……お察しの通りです、お父様」


隠す気はなかった。どうせ、止められはしない。


「馬鹿な真似はやめろ。ヴァイス家との繋がりがどれほど重要か、分かっているのか」


「存じております」


「ならば——」


「ですが、私は道具ではありません」


父の言葉を遮った。


「私は、あの家の『従順な嫁』になるために生まれてきたのではありません。私の人生は、私のものです」


父が目を見開いた。この人が私をこんな目で見るのは、初めてかもしれない。驚き。そして、困惑。


「お前……」


「お元気で、お父様」


私は頭を下げ、そのまま廊下を歩き出した。背後から呼び止める声はなかった。追いかけてくる足音もなかった。


それが、この家における私の存在価値だった。


---


深夜の王都を抜け、商隊の集合地点に着いた時、東の空がわずかに白み始めていた。


「お嬢さん、本当に乗るのかい? 帝国まで一週間以上かかるよ」


商隊の隊長が、怪訝そうな顔で私を見る。


「構いません。料金は前払いで」


金貨を渡すと、隊長は肩をすくめて馬車を示した。


荷馬車の隅に座り、私は懐から紙を取り出した。ヴァイス家のテーブルに残してきた、置き手紙。書いた内容は、よく覚えている。


『三歩下がれとのご命令でしたので、三千里ほど下がらせていただきます。どうぞお幸せに。』


我ながら、いい皮肉だと思う。彼がこれを読んだ時、どんな顔をするだろう。想像すると、少しだけ口元が緩んだ。


馬車が揺れ始める。王都の城壁が、ゆっくりと遠ざかっていく。


懐からもう一枚、紙を取り出した。大陸の地図だ。指先で、東の大国をなぞる。


「アドラー帝国……」


実力主義の国。血統より能力を重視する国。噂でしか知らない。本当かどうかも分からない。


でも、少なくとも——


「私の能力を、試してもらえるかもしれない」


朝日が昇り始めていた。馬車の幌の隙間から差し込む光が、地図の上に落ちる。国境の向こうに何があるかは分からない。けれど、振り返る気はなかった。


三歩下がれと言われたから、三千里下がる。それだけのことだ。


馬車が東へ向かって走り出す。私は地図をたたみ、静かに目を閉じた。


新しい人生が、始まる。

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― 新着の感想 ―
妻(という便利な存在)を訪ねて 『三千里』ですね。 ※『三千院』と打ち込みそうになったのは内緒(^-^)
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