プロローグ 「真っ黒な太陽」
それは九月頃のとある放課後の教室にて。
-やられた。
引き抜かれたナイフに身体は引き攣り、糸が切れた玩具のように全身から力が抜ける。
倒れてしまう身体を支えようとして力を込めるが、腹に広がる灼熱の痛みがそれを許さなかった。
視界には迫る床と、先ほどまで真っ白だったカッターシャツが自分の血で真っ赤に染まっていた。
受け身も取れずに顔面から伏した身体は、蛙が潰れたように無様な声を上げる。
間もなくして、身体から血の気が引いていくのと同時に教室の床に真っ赤な絨毯が敷かれていく。
誰がこんな事をしたのか。
もう死ぬことを悟った俺は、せめて拝んでやると既に無くなった力を振りしぼり震える頭を上げる。
目の前には真っ黒な上下スウェットに身を包んだ、覆面の男がいた。
背丈は中肉中背といった感じで、それ以外に特徴はない。ただ「カカカッ」と奇怪な音を発して揺れる姿は屍人のようにも思えた。
「こ、これでいいんだ⋯⋯これで⋯⋯」
目の前の男はブツブツと自分に言い聞かせるように呟くと、次の瞬間、抑えていた興奮を爆発させる。
「これで僕が世界を牛耳るッ!僕がぁ!世界をッ!」
殺人に酔っているのか、勝利を確信したように手にしていた血に濡れたナイフを頭上にかざして、興奮に震えながら暗くなり始めた太陽に照らして紅銀色に輝かせる。
覆面をした状態でも分かるくらいに恍惚な表情を浮かべた男は子どものように「やった⋯⋯ついにやってやったぞ」とこれが現実だと確かめるように小声ではしゃぐ。
「ごふッ⋯⋯」
ついに首すら上げる力すら無くなった俺は、血反吐を吐いて、血濡れた地面へとバシャッと音を立てて落ちる。床には血の海ならぬ血の鏡が出来あがり、自分の死相が浮かんでいた。
その出血量は、誰が見ても命まで届いているのは明白だった。
「ま、まだ生きてたのか⋯⋯」
それでも男はまだ生きていたのが許せなかったみたいで、興奮収まらぬ声で跨ると、ナイフを逆手に持ち替える。
だがすぐ落とされる事はなく、変わりにカチャカチャと金属音が聴こえた。
「大丈夫⋯⋯一人は殺ったんだ⋯⋯できる、できるよ⋯⋯」
男は自分をあやすように何度も唱えてはナイフを振り下ろさない。
「-ンッ!?」
瞬間、電撃が走ったような衝撃が身体全体を駆け抜け、反射的にシャチホコのようにビクンッと跳ね上がり痙攣する。
すぐに視界が薄れていくのを感じ、血が抜けたせいもあってか寒気が身体から対応を奪っていく。数秒して男がナイフを振り下ろしたのだと気付く。
薄れゆく意識の中、「一人は殺った」と言う男の発言に引っ掛かり、まだ動く目玉をぐるりと見わたす。
確か放課後居残りだったのは俺と、もう一人。
出来れば帰っていてくれと願ったが、それは叶わなかった。
自分より少し離れた所で、同じようにうつ伏せで寝転がる存在を発見する。
腰の位置まである金髪はこの学校では彼女しか居ない。赤点を取って居残りしていた”二階堂天”だつた。
彼女も刺されたのか、真っ赤な血溜まりが彼女を囲い、絹糸のように綺麗な金髪が浸かって赤く染めあがっていた。
そして残念な事に、二階堂はもう事切れているのかうつ伏せのままピクリとも動かない。
「ちく、しょ⋯⋯」
もう残された時間は少ないのだろう、ついにその目すら力を無くして瞳がだらんと下がり落ちる。
そこには自身の血の鏡に映る太陽が見える。
だが太陽は暗く、更にはその半分しかその輝きを放っていない。
-そうだ。今日は数十年に一度しかないと言われていた《皆既日食》の日だ。
家からでは見えないと屋上から覗こうと放課後、学校に残ったのが運の尽きだった。
教室に日食グラスを忘れて取りにいけば、教室を開いて目の前に立っていたのは覆面の男。
脳が処理できずに固まっていると、まるで電撃に撃たれたような鋭い痛みが身体中を駆け巡る。
反射的に原因を見やれば、腹部に突き立てられたナイフ。
それが引き抜かれたのを見て、ようやく刺されたのだと理解する。
「⋯⋯もうすぐ時間だぁ」
男は興奮を抑えきれずに漏らした感嘆の声に思わず視線を移すと、窓の方を見てニタリと笑っていた。
皆既日食は直接目で見てはいけない筈なのに、男は狂気的な笑みを浮かべて、太陽に照らされて鈍く輝くナイフを何度もギラつかせる。
「⋯⋯本当に死んだよなぁ?」
ふいに男は、誰に問い掛けるでもなく声を発すると、徐ろに二階堂に近付いていき、なんの躊躇いもなくナイフを突き刺した。
やはり二階堂の意識はもう無いのか、刺されても何の反応もない。それでも男は何度も繰り返す。
「やめっ⋯⋯⋯⋯ろ⋯⋯」
止めようと手を伸ばそうとするも身体は動かない。
せめてもと声を捻り上げるが、それすら掠れて男には届かない。
「本当にっ、死でくれなゃ⋯⋯困るんだよぉ⋯⋯」
男は嗚咽を漏らしながら、さっきまでとは違い余裕無く必死にナイフを振り下ろす。
何度も何度も、もう二階堂のズタズタの背中を執拗に突き刺して確実な死を与える。
そしてどれほど突き刺した分からない頃、男はピタッと手を止め見上げる。
「あぁ⋯⋯」
そして興起の声を漏らして口角を上げた。
同時に俺は限界に達し、力が抜けて瞳を落とす。
落としたその視線の先にあるのは-血濡れた床に映る太陽。
太陽は月へともう殆ど隠れダイヤモンドリングが映しだされていた。皆既日食となるのも数分後だろう。
視界いっぱいに映る血に染まった床のせいか俺自身がそうなのか、視界は真っ赤に染まって音が遠くなっていく。
これが”死”なのか-と、本能で感じた。
-こんなことならさっさと帰れば良かったじゃないか。
その時になるまで知る余地のない後悔が支配していく。
沈みゆく意識の中、視界の端で何かが動いた気がした。
反応するように俺の目が自動的にそちらを向くと、そこには二階堂の手があった。
もう事切れて動かない筈なのに、動いた気がした。
刺された後の筋反射かなにか、か?
さっきよりもこちらに伸びているような-⋯⋯。
希望的観測なのかもしれない。
本能が手を動かそうとするが、そうそうに宿主を見捨てた身体では叶わない。
そもそも動けたところで届く範囲ではない。
それでも彼女に手を伸ばしたいと思っていた。
だが身体はおろか思考すら阻まれて、俺は死へと向かっていた。
-くそっ⋯⋯俺がもっと強ければ。
俺のあと少し遺された力は歯ぎしりに充てられる。
死ぬ前には走馬灯が見えると言うが、普段から鍛えていたせいか、俺の場合は後悔が押し寄せていた。
俺の身体はとうに冷え切って視界が狭くなり、この世界から消えようとしている。
「これで⋯⋯」
男は打ち震えた声で小さく呟いた。
まるで念願叶った夢のように、両手を胸の前で繋いで嬉しそうに。
音が遠くなっていく。
だらんと垂れる勇人の瞳は、最後に真っ赤な床のみを映し出す。
そこに映る太陽は月に完全に隠れて皆既日食の姿を見せる-。
-そういえば、これを見たかったんだっけ?
刹那、意識は闇に引っ張られて、俺-刀道勇人という存在はこの世界から消えた。
前に投稿したことはありましたが、上手く書けずに消してしまいました。
何年か温めていた作品となりますので、他の人が楽しんでいただけるような物に出来るよう精一杯頑張ります!




