表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

怪談まとめ2024

【黒い人】(12/24追加)


「ママ、そこにいる人が、水が欲しいって」

「なあに、まこちゃん。どこにいる人?」

「そこにいる人だよ」

「だからどこ?」

「ベッドの下にいる人!」

 そういって娘はベッドの下を指さした。もちろんそこには誰もいない。


 最初に娘から「ベッドの下にいる人」の話を聞いたとき、私は聞き流した。「そんな人はいないよ」と伝え、一緒にテレビを見ようと提案し、娘との会話を切り上げた。娘はまだ小学1年生で、変なことを言って私の気を引かせたいのかもしれない。その程度に軽く考えていた。


 その翌日の朝、娘は起きてくるなり、娘の「ベッドの下にいる人」の話をし始めた。

「ママ、ベッドの下の人、水欲しいって! 夜もずっとウーウー言っててうるさいから早く水あげてよ!」

「まこちゃん、そんな人いないよ」

「いるもん! 黒い人がママには見えないの」

「まこちゃん、一緒にベッドの下、覗いてみよう」

 娘の手を引いて、娘のベッドの下を一緒に覗き込む。恐る恐るベッドカバーをめくったが、そこには誰もいなかった。しかし、娘には別のモノが見えているような振る舞いをした。娘は私の後ろに隠れてしまい、私の右足から顔をのぞかせるようにベッドのほうを見つめた。

「ママ、よく見てよ。黒い人いるでしょう。男の人だよ」

「いないのよ、そんな人。ふざけるのもいいかげんにして」

 私が強めにいうと、娘はしゅんと肩を落とした。これでしばらくは、変なことを言い出さないだろう。

 そのあと、娘は居間に行き、テレビで子供用の動画を見ていた。娘の不気味なおふざけは終わったのだと私は思い、ホッとしながら家事仕事に戻った。


 その夜、就寝のため私が自室に入る前に夫が話しかけてきた。普段は何も言わずに自分の部屋に直行して眠ってしまうのに、珍しい。私たち夫婦はだいぶ前から別の部屋で眠っている。

「まこが変なこと言っててさ。何かベッドの下にいるんだって」

「うそ、あなたにもその話してきたの」

「ママが聞いてくれないから、パパに話すってよ」

 夫は普段、娘に頼られることがないので、にやにやと嬉しそうにしていた。キモチワルイ。

「なんでもいいけど、ちゃんとかまってるか。テレビとか動画ばっかり見せてほったらかしなんじゃないか」

「なによ、私のせいだって言いたいの」

「心配してるんじゃないか」

「ならあなたがかまってやればいいじゃないの。私にかまってないで」

 二人の間がどんどん険悪になっていくのが分かる。最近の夫との典型的な会話だ。私はこれ以上の会話は無意味だと感じ、急いで布団にもぐって寝たふりをした。夫は諦めたかのように床についたようだった。


 翌日、娘のむせび泣く声で目が覚めた。私は飛び起きて、娘の部屋に急ぐ。夫は起きてくる様子さえ見せなかった。それよりも娘のことを対処しなければならない。

 娘はベッドの上で、泣き叫んでいた。鼻水まで垂れてきており、朝から悲惨な状況だ。

「どうしたのまこちゃん。どっか痛いの」

「痛くないよっ」怒りに任せて叫ぶような娘の声。娘のこんな声を聞いたのは久しぶりだった。

「なら、なんなのっ」私の声もつられるように大きくなる。

「だって、だって、ママは聞いてくれないじゃんっ」

「また黒い人のこと?」

「……うん」

 娘の真剣な様子を見て、私は困ってしまった。小学1年生でも、幼児退行をしてしまうのかしら。私は致し方がないと思い、娘の話を聞いてやることにした。

「黒い人がまだベッドの下にいるの?」

「……そう。夜中に出てきて、水が欲しいっていうの。それで、まこが水を持ってきてあげても、それじゃ満足しないの。それじゃないって。ずっと水が欲しい、水が欲しいってうるさいの。そしたら今日の朝、まこの足の親指を吸い始めたの」

 娘は一気に話し終えると、また泣き出してしまった。これでは手に負えない。

「そんな……」

 娘の話を聞くと、娘がふざけているとはどうも思えなかった。しかし、どうしようもない。私は娘を落ち着かせるために、一芝居することに決めた。

「まこちゃん、まだ黒い人はベッドの下にいるの」

「見たくない。けど、いると思う」

「まこちゃん、見ててね。お母さんが黒い人を連れてくからね」

 私は、娘のベッドの下に手を伸ばした。そして手を握る動作をした。

「まこちゃん、黒い人はお母さんと手をつないでるかな」

「……うん。つないでる」

「今から、黒い人をパパの部屋に連れていくからね」

 私は手を握り、中腰のまま、娘の部屋を出た。その様子を見るために娘はベッドから起き、不安そうに私の姿を見ていた。この時には娘は泣き止んでいた。

 私は夫の部屋のドアを開け、夫のベッドのところに来た。夫の部屋に入ったのは久しぶりだった。久しぶりに入った部屋は、他人のにおいがした。少しすえたにおいだ。夫はまだ眠っていた。

 私は、黒い人と手をつないでいるだろう手とは逆の手の人差し指を口元にあて、「しー」のマークを作った。夫を起こさないためだ。娘も口元に両手を当て、黙っている。私は握りこぶしを作っていた手をそっと夫のベッドの下にやり、手のひらを開いた。娘に目をやると、何度かうなずく素振りをした。

 そして私は娘の手を引き、夫の部屋を出た。そして娘と自室に戻り、久しぶりに娘と一緒に寝た。娘は昨夜あまり眠れなかったようで、安心したようにすぐ寝入ってしまった。


 その日から、夫は寝不足になったようだ。私には何も言ってこないので、私もあえて話題にしなかった。


【靴の墓場】(12/19追加)

 朝のジョギングは最高だ。健康に良いこともさることながら、朝日を浴びて清々しい気持ちになると精神的にも良い。また多くの人が眠っている朝に走るという行為は、私は頑張り屋さんで努力をしているのだ、という証明にもなると思っている。つまりは、イイコト尽くめなのだ。

 朝のジョギングコースは、荒川に沿って整備された歩道である。この歩道のコースは幅も広く、私のように走っている人もいれば、犬の散歩やサイクリングを楽しむ人もいる。以前は、荒川を横切るように造られた高架下に住むホームレスの人もいたが、行政の厳しい指導により浮浪者はいなくなった。治安も良くなり、とてもクリーンな空気になったのだ。

 荒川脇の歩道を北上して少しいくと、川辺に面して小さな公園がある。その公園の入り口には、大きなアーチの真ん中に巨大な銀製の鈴が設置されている。これは公園のシンボルとなっており、公園の名前も「銀の鈴公園」と名付けられていた。

 夏の暑い日。日中は猛暑で、炎天下のなかでは暑すぎて走れない。そのため、私は日が昇る朝5時頃にジョギングを行っていた。今日も変わらずのコンディションで走り、銀の鈴公園の前を通り過ぎるときだった。銀の鈴モニュメントの下に、男性の革靴が逆さ向きにおいてあることに気づいた。公園の入口真ん中に奇妙なゴミが捨ててある。その日の私はそう思っただけであった。

 翌朝、銀の鈴公園前を通ると今度は女性の黒いハイヒールが、昨日の革靴同様、逆さ向きに置いてあった。誰かのいたずらなのか、少し奇妙な気持ちになった。しかし、どうすることもできず、気にしないようにしてジョギングコースに戻った。毎朝、晴れの日も雨の日も銀の鈴の下には、逆さ向きの靴が置かれた。よれよれの運動靴、泥がついた長靴、エナメル加工のパンプス、どこから現れるのか、多様な靴があった。私は不気味に思い、靴には近づかないようにしていた。

 ある日の曇りの日。銀の鈴の下には、幼稚園児が履くような小さな運動靴が逆さ向きで置いてあった。私は強い違和感を覚えた。どこかで見たことがあるような気がする。恐る恐る靴に近づいてみると、やはり私の息子の靴だった。


 どうしてこんなところに。


 私は怖くなって、靴を持ち家に急いで帰った。息子の無事を確認すると、彼はまだベッドで寝ていた。よかった、息をしている。

 それから息子を注意深く見守っているが、特に何か恐ろしいことは起きていない。


【赤ちゃん落とし】(12/18追加)


 私は緊急外来(ICU)で働く看護師だ。一般的にはコードブルーと呼ばれており、この職業をもとにしたドラマもできて、世間では「かっこいいあこがれの職業」というイメージがある。しかし、実態は体力的にも精神的にも厳しい仕事だ。まず夜勤があり、生活サイクルが乱れる。そんな乱れのなか、全身熱傷の重体患者や新型コロナウイルス感染者の重篤患者など、死に瀕した患者が毎日運ばれてくる。奇跡的に一命を取り留める患者もいるが、残念ながら命を落としてしまう患者もいる。生きるか死ぬかは基本的に運なのだ。 

 あの光景を見るまではそう思っていた。

 病院への通勤途中に、急な勾配の坂がある。その坂の入口に古くてぼろいアパートがこぢんまりと建っている。2階建ての建物で、坂に面してベランダのバルコニーが異様に突き出した形をしていた。いつもカーテンが締まっており、人が住んでいる気配はない。その坂を上って行ったところに病院があり、土地の関係で駐車場は坂を下った先にあった。病院に行くにはどうしてもこの坂を上らなければならない。坂を迂回する道もあるが、歩行時間が2倍もかかってしまう。運動がてら、私はこの坂を往復する日々が続いていた。

 ある新月の夜。夜勤に向かうため、この坂を上ろうと坂の入口に立ったところで、異変に気付いた。古いアパートの二階バルコニーに女性が立っている姿が見えた。女性は顔を下にしてうつむき、長い髪の毛がゆらゆら揺れていた。灰色のワンピースを着ている。暗がりにいるため、表情は読み取れない。その女が腕に何かを抱えているのが分かった。目を凝らしてみると、それは真っ黒な裸の赤ん坊のように見えた。おもむろに女が赤ん坊を抱えていた両腕をあげた。私が「あっ」と思った瞬間、女は赤ん坊を勢いよく地面に投げ捨てた。赤ん坊は「びしゃあ」という音とたてて、地面にぶつかり、ぐちゃぐちゃにはじけてしまった。周りには黒い肉塊のようなものが散らばっている。

 私は全身に鳥肌がたつのを感じた。やばい、ここにいてはまずい。硬直する体を何とか動かし、坂を猛ダッシュで駆け上った。坂の上についたところで、私は好奇心に負けてアパートのほうを振り返った。バルコニーの女は下を向き、赤ん坊を落としたところを見つめているようだった。

  その日を境に、新月の夜や月が雲に隠れて月光がない夜には、バルコニーの女が現れるようになった。そのたびに、胸に抱えた赤ん坊のようなものを突き落としていた。女が抱える赤ん坊は、日によって漆のような黒色、くすんだ黄、どす黒い赤、汚い青と様々な色をしていることが分かった。また私は気づいたことがある。女が赤ん坊を落とした日に、病院で死人が出ることであった。救急患者が死ぬこともあれば、病状が急変して命を落とす患者もいる。月日が巡り、女が赤ん坊を落とすことに慣れてきた頃、赤ん坊の色が患者の死因に関係しているような気もしてきた。外傷は赤、病変は黄色、老衰は青、という傾向があるようだ。しかし、黒色がよくわからない。

 ある雪の日。また女が黒い赤ん坊を投げ捨てていた。赤ん坊は、道に積もった雪の上に叩きつけられ、白い雪の上に真っ黒な塊が散らばり、そのコントラストに目がくらむほどであった。病院に出勤後、すぐに急患で運ばれた患者の対応をした。その患者は、自宅で首を吊って自殺を試みたところを家族が発見し、緊急に運ばれてきたらしい。救急措置むなしく、深夜を過ぎたところで患者は息を引き取った。私は、ご遺体の体をきれいにしながら、「そうか、黒色の赤ん坊は自殺か」とどこか腑に落ちたような気がした。女が赤ん坊を落とすからと言って何か出来るわけでもなく、私は仕事を淡々とこなした。


【赤い顔の男】(12/13追加)


 群馬県は前橋市に引っ越してきた。今時、転勤なんて珍しい。しかし、若手で独身、両親も介護の必要がない私は、群馬県への転勤を断る理由がなかった。東京から田舎への転勤。群馬県からならば東京にも行きやすいだろう、転勤は負担にはならないだろうと会社からは軽い姿勢で転勤を命じられた。別に嫌ではないが、それ相応の手当や優遇措置はつけてもらいたいところである。


 引っ越ししたアパートは、築30年の古いアパートだ。内装はリノベーションしたというが、外観は頼りない見た目をしている。私の部屋は304号室。ちょうど空きができたということで、深く考えずにそこに決めた。


 306号室の角部屋の異様さには、引っ越し前から分かっていた。ドアの両脇に盛り塩と小さい獅子舞の人形が置いてある。何かの宗教を信じている人なのかどうか、魔よけなのかどうか、飾り物なのかは全く分からない。少し気味が悪いのは事実である。


 しかし私は、隣の部屋ではないから何かあっても大丈夫かと思い、入室を決めた。実際、入居して3か月は何も起こらず、仕事にも慣れ始め、快適に過ごしていた。


 梅雨が始まった6月中頃。雨上がりの夜19時。会社から帰宅すると、エレベーターの出口から306号室に向かって、赤い色の足跡がうっすらだが点々と続いていることがあった。足跡は大きく、男性のものだ。裸足で歩いたこと分かる。気味が悪いな、と思いつつ、管理人に知らせるほどのことではないか、下手に騒いでめんどくさいことになるのも嫌だし、と思い、気にしないようにした。


 6月も終わる頃。大雨が降った。私は、自炊をしないので、夜ご飯を買いに行こうか悩んでいた。ゲリラ豪雨が過ぎ去り、小雨になったころ。時計の針は23時を過ぎていたが、コンビニでご飯を買って来ようと思い、ドアを開けて廊下に出たときだった。306号室の部屋の前に、顔を真っ赤なペンキで塗りたくられたような男が立っていた。男は、ボロボロの灰色の着物を着て、袖や裾から出ている手足も真っ赤な色をしている。まるで、赤鬼だ。その男がこちらを振り向き、とんでもない形相でこちらを睨んできた。目には憎悪の色が浮かんでいる。私は恐怖で身動きひとつ取れなかった。しばらくの間、赤い男は私を睨んでいたが、突然こちらに向かって走ってきた。やばいー。そう思った瞬間、306号室のドアが勢いよく開いた。


「あんたはうちのもんでしょうがっっっ!!」


 甲高い女の声が響いた。その瞬間、こちらに走ってきていた赤い男の姿は消えてしまった。306号室の住人はぴしゃりとドアを閉め、辺りには静寂が残るのみだった。私は、どうすべきか少し悩んだ挙句、外出はせず、急いで部屋に戻った。


 次の日の夜のことである。テレビを見ながら、お夕飯を食べていた。その日は晴れていて、少し暑かったのでバルコニーに面した窓を開けていた。網戸にしており、夜風が入ってきて気持ちいい。するといきなり窓をバンと叩く音がした。驚いて窓のほうを見ると、そこには女の首が横から覗いていた。長い髪の毛はぼさぼさで、肌は黄黒く、しわとしみが多い顔であった。両目がカッと見開かれている。女がこちらを恨むように見つめている。そして、


「あんたのものじゃ、ないんだよっっっ!」


 と叫んだ。


 恐ろしくて動けないでいると、女の首は引っ込んでいった。


 私は引っ越しを決めた。


【ゴミ捨て場】(12/13追加※怪談ではありません)


 ごみ収集の仕事は、慣れてしまえば単純な仕事だ。指定の場所に収集車に向かい、ごみ袋を車のタンクに放り込む。分別のないゴミはある程度ならば許容している。しかし、燃えるゴミの日にスーツケースを捨てる行為は、捨てた者の人間性を疑う。スーツケースに「収集できない」旨のシールを貼り付けて、放置。ゴミの捨て方である程度の人間かが分かるというものだ。

 その場所は町内でも有名な、荒れたゴミ捨て場であった。そこはとある古いアパートの前、建物入口と道路の間にあるごみ捨て場だ。分別をしていないゴミが多いこともさることながら、生ごみを前日夜に捨てるものが多く、朝までにカラスなどの鳥に攻撃されごみ袋の中身がぶちまけられていることが多い。ゴミが周囲の道路に広がり、景観は不快で、悪臭もひどい。俺は、散らばったゴミをある程度は集めるが、細かいものまでは手が回らない。これは俺の良心から行う行為ではなく、仕事だから行っている。

 今日は燃えるゴミの日。その古アパート前のゴミ捨て場の荒れっぷりは、歴代最高とも言える悲惨な状況であった。俺は、憂鬱な気持ちでゴミ袋を車に詰め込む作業を始めた。そのなかに一つ、カラスにつつかれたのであろう、ごみ袋が破れて中が出てきている袋をつかんだ時だった。生ごみのいくつかが足元に落ちてしまった。俺は舌打ちをしながら、その中身を集めていると、その中に人間の人差し指が出てきた。すでに腐敗していて、血液は黒く変色している。

 やべえ、と俺は焦った。見てはいけないものを見てしまった。次に思ったのは、これを先輩に報告すべきかであった。本来は報告すべきなのであろう。しかし、面倒な仕事が増えるだけだ。ただでさえ残業が多い職場だった。本来であればこの指には気づくはずがなく、いつも通りに収集作業を終えていたはずだ。たまたまカラスが袋を破いて、偶然俺が中身を外に落としてしまった。俺はやっかいごとに巻き込まれたくない。

 1分悩んで、俺はその人差し指をひょいと拾い、収集車のローラーに放り投げた。そして何事もなかったかのように、次の収集地へ向かった。

 町内で女子高生の失踪事件が報じられたのは、その2週間後であった。それから3か月が過ぎたが、女子高生は見つかっていない。

 あの指とその事件の因果関係は不明なのだ。俺は、時たまに思い出す人差し指の腐敗した色に嫌気を覚えながら、今日も仕事に向かった。


【ありがとう】(12/5追加)

 私のお父さんは、よく「ありがとう」という人だった。1日50回は言っていたと思う。ありがとう、から会話が始まり、ありがとうで会話が終わる。お父さんは昔からよくヘコヘコしていたが、53歳の時に脳梗塞を起こし、後遺症により下半身不随になってから特にありがとうと言うようになった。自分一人では何も出来なくなった父を母は懸命に介護していた。

 父を母なよく思っていなかった。父の介護の疲れもあり、母は娘の私によく文句を言っていた。「お父さんは、ありがとうって言ってるだけ。中身なんてないのよ」と。そんな母に対して、最初のうちは労いや励ましの言葉をかけていたが、最近は出来るだけ聞き流すようにしている。

 そんな父が階段から落ちて亡くなった。頭を打撲して即死だったらしい。医師は私たち母娘を慰めるように「痛みや苦しみは感じなかったことでしょう」と説明した。私たちは悲しみを感じる暇など無いくらい、お通夜やお葬式の準備に忙しかった。

 お葬式が終わった日の夜。クタクタになって帰宅し、私は自室のベッドに身を投げ出した。全身からお線香の匂いがする。お風呂に入らなければ、と思ってウトウトしていると、耳元で微かな声が聞こえた。

「ありがとう、ありがとう」

 それはお父さんの声に似ていた。お父さん、死んじゃったのか。最期に私のところに来てくれたのかな。

「ありがとう、ありがとう

 ー死ね 」

 ーお父さんじゃない!私はガバっと身を起こして当たりを見渡した。心臓がバクバクしている。先程の声はお父さんの声から、ドスの聞いた女の声に聞こえた。

 その日は興奮で一睡も出来なかった。しかし、その後にその声が聞こえることはなかった。


【飛び込み自殺】(11/26追加)

 初めて電車に飛び込んで死ぬ人を見た。轢死する人は一定数いて、その場に出くわしたらどんなに恐ろしいことだろうとは思っていた。しかし、そんな光景に遭遇するなんて。しかも、それが私の姿だったなんてー。

 通勤のために東京、旗の台駅から出発する。1番線、2番線のみの小さい駅で、それぞれのホームが向かい合う形になっている。私は、2番線の五反田行きを利用している。朝番の仕事なので、ほぼ始発の電車に乗らないと間に合わない。

 冬のある日。早朝5時はまだくらい。駅にいる人はまだ少ない。眠い目を擦りながら、電車を待っていると、対側のホームにフラフラとふらついている女性がいた。大変おぼつかない足取りである。大丈夫かな、と見ていると向こうもこちらを見つめ返して来た。その顔は私にそっくりだった。ぎょっとしていると、踏切の音がカンカンと耳をつんざくほど鳴り出した。1番線のホームに電車が来る。その女から目を離せないでいると、女がにやっと大きく笑った。電車が迫って来ている。女がホームから勢いよく線路に飛び込んだ。電車に引かれてしまったー。車両停止の緊急ボタンを押す暇もない。遺体はどんなにグロテスクだろう、と恐る恐る電車の先頭車両の方を見た。するとそこに女の遺体はなく、周囲の人も騒いでいる様子がない。

 え、私だけ、見間違いなのかな。疲れているのかなー。私に、特に何か出来ることはなく、そのまま会社に向かった。

 その日から毎朝その女が電車に飛び込むところを見かけるようになった。私は無視を決め込んでいる。


【掃除機うるさい】(11/25追加)

  僕は繊細だ。神経質だ。親なのだから両親は、僕の性質に気を使うべきだと考えている。

  中学受験を控えた秋の半ば。僕は、学校が終わると、真っ直ぐ家に帰って勉強に励んでいた。塾に行く資金は無いようで、両親は独学の勉強方法に熱を入れた。僕の子ども部屋はもともと1階だったが、集中できる環境のために2階の父の部屋に移された。僕は、机に齧り付く勢いで1日少なくとも5時間は勉強をした。両親も応援してくれるし、勉強は嫌いではない。

  しかし、勉強中、周囲の物音により、僕の集中を邪魔されることは大嫌いであった。特に母親の家事の音はかなり集中力を削がれた。母親にはこの事を何度も伝え、母も気を遣うようになったが、時たまにイライラして勉強が手につかなくなってしまう。

  秋も冬に変わる寒い日。僕はいつものように理科のノートと教科書を交互に見比べていた。模擬テストの見直しは、知識の定着に大変効果的である。

  突然外からドタドタと足音が聞こえた。普段の母親が発する音とは思えない音だ。その音がピタッと止まると、今度は掃除機のバキューム音が聞こえてきた。僕が怒るので、母はこの時間帯に掃除機をかけることはないはずだ。掃除機の音が物凄くうるさい。僕は耐えかねて、文句を言おうと勢いよくドアを開けて音のする方向に怒鳴ろうとした。

  するとそこには真っ黒な人の影があった。その影がこちらを振り向くような仕草をとった。顔と思しき部分には真っ白な眼球が2つ並んでいる。それが異様に白い。その影はどことなく僕に似ていた。

  僕はその場に立ちすくんでいた。影と僕はどちらも動かなかった。

  その時、1階の玄関のドアが開く音がした。母が帰って来たのだ。そう思いたい。

  僕は影の方を振り向きもせず、階段を駆け下りた。玄関には、買い物袋を持った母がいた。やはり母だ。

  その日は台所で勉強した。夜になり、父と一緒に2階を確認するも、影はもういなかった。しかし、その日は両親の布団の隣に来客用の布団を敷いて僕は寝た。両親がどことなく嬉しそうなことは、腑に落ちない。


【自転車漕ぎ漕ぎおじさん】(11/22追加)

 学校からの帰り道。田舎には、大工さんを生業にしている家がいくつかあって、自分で作った大きな家屋を持っている家族がいくつかいる。彼らの家は、通常の家より大きく、少し豪快な作りになっていることが多いのでよく目立つ。

 私の帰路の途中には、増改築を繰り返したであろう大きいが古い家がポツンと建っている。そこには老夫婦しか住んでおらず、旦那さんは若い頃は土地に根を張った大工さんだったという。彼のせがれさんは田舎は嫌だと都会に就職に行ってしまったという。老夫婦は出不精な性根らしく、あまりご近所付き合いをしなかった。

 ある冬の日、夕方がすぐ暗くなってしまうようになった帰路。その家の前を通ると、庭に駐輪してある自転車に乗った見知らぬ男がいた。男は止まっている自転車にただ乗っているだけで、漕ぎ出そうという意志を感じられなかった。むしろ、停まったままの自転車のペダルをひたすら逆回転させて漕いでいる。男の顔は、焦点はあっていないものの、大変真面目に、必死に漕いでいた。

 その自転車の横を足早に通り過ぎる。私はできるだけ、男と目が合わないように、男を刺激しないように早歩きをした。

 振り返って男を見てみたい好奇心に駆られたが、そんなことをして何が起きるか分からない。急に襲ってくるかもしれない。

 その家を通り過ぎると、私は自分の家に猛ダッシュした。その日以来、その男を見たことはない。


【近道の先の】(11/20追加)

 酔っ払った。飲みすぎた。

 金曜日の夜、給料日前日のこともあって同僚と会社の愚痴で盛り上がった帰り道。アパートに帰る道中。いつもは大通りを歩いて帰るが、一刻も早く寝床に着きたかったため、今日は近道を使おう思った。大通りをいつもは直進してから右折するが、信号渡って手前のコンビニを右に曲がって細道を進む。街灯が少なく暗い道で普段は歩かない。この細道を5分も歩けば、アパートの前の道に出られるはずだった。

 しかし、10分歩いても道が真っ直ぐ続いていた。周囲の住宅には不思議と明かりがない。あれ、こんなに道が長かったかな、と思っていると目の前に3階建ての建物が現れた。窓は木の板が打ち付けてあり、壁にはヒビが入っている。人の気配はなく、無人のようだった。ふと、2階の1部に玄関扉がついていることに気づいた。何故、2階にー。そう思っていると、おもむろにそのドアが開いた。中から黒い人影が複数人出てくるように見えた。人影は顔が見えず、女性か男性かも、分からない。

 ふと、耳元で、子供の声が聞こえた。

「ーおかえりなさい」

 私はダッシュで来た道を戻った。鳥肌が止まらない。大通りに出たところで、細みたを振り返る。その入口には、入って行ったときにはなかった、道路陥没のために通行禁止になっている看板が立てかけてあった。



【トイレットペーパー】(11/19追加)

 お客さんからの長電話が終わり、一息つこうとトイレ休憩にたった。私の会社が入っているオフィスビルは築30年で、とても古い。来年、耐震工事が入るらしいが、外壁も内装も使い古されて手垢のついた様な黄ばみがあった。

 自席から女子トイレまでは廊下を歩いてつきあたりまで行かねばならなかった。

 女子トイレも照明が少なく、どこか暗い。昔ながらのタイル貼りの床が、建物の古さを強調している。

 私は手前から2番目のトイレに入る癖があった。 私がトイレに入った時は誰もいなかった。用を足し、トイレットペーパーを巻きとっていた時のことだ。ふと、ペーパーに血のようなものが着いていることに気づいた。ペーパーの途中に血が着いており、巻き出すごとに血の付着面が増えていく。悪質なイタズラかとも思ったが、ペーパーの途中に血をつけるなんて出来ないことなのではないかという疑問が湧いた。

  気味が悪いと思いながらも、好奇心から巻き取り続けていると急に「死ね」という血文字が出てきた。私は恐ろしくなって、そのトイレットペーパーを巻き取るのを止め、血がついたペーパーを便器に投げ捨てた。後ろに置いてあった新しいペーパーを取り出して使い、急いで流すボタンを押して、トイレを後にした。手は自席近くの給湯室で洗った。

 それ以来、2番目のトイレには入らないようにしている。


【道端のカップル】

 学校からの帰り道、イトーヨーカドーの曲がり角、歩道のへりに若いカップルが毎日夕方頃に座って話し込んでいる。高校生だろうか。角刈りの野球少年みたいな男の子と、あまりパッとしないショートボブの女の子だ。2人はよく手を繋いで、楽しそうに雑談に花を咲かせている。

 冬も深まってきたある夜、初雪がふった日も2人は傘を刺してだべっていた。その次の日は、恐ろしいほど晴れたおかげで、雪が全て溶けた。その日から、女の子の姿が見えなくなり、男の子だけが歩道のへりに座るようになった。

 もう春になったが、男の子はまだ座っている。


【腕の血管】

 最近は、異常気象によるゲリラ豪雨が多い。今日も、晴れていたと思ったら、急に雨が滝のように降り出した。私は会社のオフィスにいたが、帰社時に振られたら嫌だなと思っていた。ふと、パソコンのキーボードを打つ手元を見ると、腕の血管がやけに青く浮き出ていることに気づいた。手首の頸動脈は、特に青緑色で今でも飛び出て来そうなくらい膨れている。私は違和感を感じたものの、特に痛みや支障はないので仕事に戻った。

 ふと気づくと天気は晴れていた。腕の血管も元の色と形状に戻っていて、私は安心した。

 帰宅時、また突発的な雨が降った。傘をさす腕の血管は、再度、はちきれんばかりに青く浮かび上がっていた。このまま異常気象が進んで、とんでもない滝雨になったら、私の血管はどうなってしまうのだろう。


【獣臭い 】

 ペット禁止のアパートのはずなのに、隣の家が獣臭い。転勤のために田舎から大阪のアパートに引っ越してきて3日目。八尾駅から徒歩15分のところにある、築30年の古いアパートだ。古いと言っても、最近リノベーションしたらしく、ボロさは微塵も感じない。

 最近は引っ越してきても、ご近所にお土産を手渡し、挨拶をする習慣はないのだと大家さんから言われていた。それよりも、刺激をしないように出来るだけそっとしておく。ひっそりと何の問題もなく淡々とそれぞれの生活を送ることが好まれるらしい。

 獣の臭いが鼻につくようになったのは、夏場、隣の家が窓を開け、換気のために網戸にしている時だ。実家で猫を3匹飼っていたため、その臭いはよく分かる。猫の糞尿や毛玉を吐いた時の嘔吐の臭いが、風にのって私の家まで届いていた。

 大家さんに相談しようか。しかし、臭いだけで猫を飼っている証拠は他には見つからない。獣の物音はなく、ゴミ収集所のゴミ袋にも猫の砂やペット用品が捨てられている様子はなかった。

 最近、そのお隣さんがやたらと出前を取っていることに気づいた。海鮮丼の配達屋さんがよく隣を訪問している。出勤時に、ふと見るとお隣さんの玄関に食後の皿と盆が置いてあることがある。そこにはいつも丼の米だけが残っており、刺身部分だけが綺麗に食べられているのであった。


【仮眠室】

 夜勤は慣れれば辛くない。3交代制で、警備の仕事に就いていた時のことである。もともと夜更かしが得意で、深夜でも活発に動くことができた。夜勤には、仮眠を含む休憩も含まれるし、賃金も割高だ。こんなにお得なことはないと思った。

 警備は2人体制である。警備員それぞれが休憩を取ることができるようになっている。会社の仮眠室は、「出る」、と噂されている。先日、私もようやく見ることができた。仮眠のためどうしても眠りが浅くなってしまうところ、仮眠室のドアが勝手に開く気配がした。そのドアから白い女性の手が、すぅっと出てきたのである。本当に出た、と思っていると休憩時間が終わり、私は起き上がった。女性の手は消えていた。

 出ると言っても、手くらいならば何ら支障はないなと、私は少し残念な気持ちで仕事に戻った。


【あぜ道】

 私は看護師だ。救急病棟に勤めている。私の仕事は、急患で運ばれてきた患者さんたちの手術前後のお世話だ。この世に存在する仕事の中では、人間の死に最も近い職業の1つである。

 自宅から病院までは、車で通勤していた。田舎の都市に住んでいるため、住宅地と畑のあぜ道が両立している。病院への近道のために、畑道を選んで走っていた。ある日、満月の夜、畑道を進んでいると、前方に老人が歩いてくるのが見えた。着ている服が、救急病棟の患者さんがオペ用に着ている白い服にそっくりである。顔はどこか虚ろで下を向いていた。私は車を減速させて、老人の横を通った。サイドミラーを覗き、老人の背中が小さくなっていくのを眺めていた。


【黒い影】

 幽霊の色を知っているだろうか。私は、幼い頃から幽霊が見えた。電柱の影に、家と家の間に、人混みの中に。彼ら、彼女らは彷徨っているだけで特に何かをするということはない。幽霊の大抵は生前の姿を薄く淡く、汚れたような色をしている。ごく稀に、モヤがかかって、不気味なほどに白い、もしくは黒い影であるものもいる。それらが何故その色を発しているのかは分からない。

 ある日、スーパーの駐車場の傍らにひときわ黒い影を見かけた。その影はほぼ毎日現れた。先日、どうしてもその影の隣を通らなければならない時があった。私はその影を刺激しないように、その横を通り抜ける。


 ふと横目で見た影は、黒人の顔をしていた。


 私は、腑に落ちた思いがした。黒人だって人間だったのだし、幽霊になっても、それはおかしくないよな、と。


【虫刺され】

 右太ももの内側を虫に刺された。蚊に刺されたのか、ダニなのか、真っ赤に腫れてしまっている。刺された部分は陥没しているが、陥没している周りの肉はぷっくりと赤く腫れている。痒みは2週間続いた。虫刺されにしては、治りが遅い。治まらない痒みに遂に皮膚を引っ掻いてしまい、出血し、カサブタが出来た。

 痒みが治まった後、すぐにおヘソの下に同じ様な虫刺されができた。また出血するまで掻いてしまう。そこが完治すると、次に右胸に虫刺されが生じた。虫刺されはどんどん上の部位に移動していき、今は右目の下まであがってきてしまっている。


【白い男】

 残業が終わり、帰宅をするのは毎日深夜の時間帯だった。遅すぎる夕飯を食べ、風呂に入って眠る。

 とある日、金縛りにあう。体は動かないが、意識だけは冴えている。瞼はあかないはずであるが、何かの気配を感じる。やっと金縛りが解け、体が動けるようになった。すると、目の前に男の形をした白いもやが、私に向かって斧を振り上げる像が見えた。斧が私にたどり着く瞬間に、白いもやは消えてしまった。

 私は、疲れているところを無理やり起こされて、とてもイライラした。皆、死ねと思いながら、また眠りに戻った。


【キャベツの虫】

 私の実家は農家だ。子供の頃は、畑仕事をよく手伝っていた。特に私が得意としたのは、キャベツについている青虫取りである。農薬は使わない主義だったので、キャベツにはよく青虫がついており、葉を食べていた。同系色の青虫を葉の内側や裏側に見つけては、取って足で潰す。その作業を繰り返していた。

 とある夏の日の夕方。いつものように青虫を取っているとふと視線を感じた。気のせいかと思い、作業を続けていると、1匹の野良犬が遠くにいることに気づいた。こちらをじっと見つめてくる。これ以上近づいてきた場合は、ホウキを持ってこなければいけないと強く思ったことを覚えている。


【視える】

 私は、昔から「視えてしまう」人だ。子供の頃から道路の暗がりや建物の間、電車のホーム、ビルの屋上に、黒や白の人影を視る。幼い時は必要以上に怯えていたが、成人した今、日常の光景として慣れてしまった。彼ら彼女らはそこにいるだけで何もしてこない。危険はないのだ。

 しかし、最近気づいたことがある。私が視線を向けた方向がぼやけて見えるなと思った瞬間に、人ならざる人影がたちまち形成されることを。出現した人影の視線は日ごとに強くなっているように感じる。


【電車のホーム】

 電車のホームと線路の間の溝、暗い空間が大嫌いだ。人の青白い顔が浮かび上がって見えるからである。その顔は、ある日は中年の男性、ある日は若い女性と様々だ。

 あの暗い空間は、誤って線路に落ちた人の避難空間だと聞く。しかし、あんな顔があっては、逃げたくても逃げられないだろう。

 溝によく顔が出現するホームは、特に新宿駅の埼京線である。埼京線の線路にはたくさんのゴミが落ちているため、浄化も遅くなっているのかもしれない。


【街灯女】

 学校から帰ってくる帰り道。田んぼのあぜ道の途中にひとつだけ街頭が立っている。最近、その街頭の下に、中年の女が俯きながら立っているのをよく見かけるようになった。

 自宅に帰るためには、その道を通らなくてはならない。女は決まって夕方5時頃に街灯の下に立っており、俯いたまま動かない。

 僕は女をできるだけ刺激しないように、女の横を通り抜ける。

 ある夏の日、日が伸びて帰路でも明るい夜だった。女の横を通り過ぎることにも慣れてきた。ふと女の手元を見ると、旧いスマートフォンを使って、熱心にテキストを打っていた。


【黒い赤ちゃん】

 大学受験のために、睡眠時間を削って勉強をしていた。夜は3時に寝て、朝は5時に起きる。学校が終わると塾に行き、終電で帰って、自宅で復習。何としてでも有名大学に入りたかった。

 冬のセンター試験が現実味を帯びてきた秋。私は、模試の後、深夜の自己採点作業を終えて、気絶するように眠りについた。

 眠りについてしばらくすると金縛りにあった。疲労のためか、金縛りにあうことは少なくなかったため、今回も煩わしい気持ちでいた。しかし、普段と違い、体が重い。ふと意識を胸のあたりにやると、黒い塊が見えた。それは赤ちゃんのように見えた。それが、私の胸から顔の方にハイハイをしてくる。赤ちゃんが私の首元まで辿り着くと、私の首を小さい手で締め始めた。

 何これ、と思ったところで金縛りが解けた。上体をおこして胸元を確認するが何もいない。私は、何故か涙が出てくるのを感じた。


 もう無茶な勉強は辞めようと決めた。


【翁の仮面】

 大学進学のために、田舎から上京してきた。実家暮らしが長かった私は、新しい生活に不安と期待を抱いていた。自由気ままなアパート暮らしの始まりである。

 入居1日目。まだ荷解きが済んでいない部屋に、布団を敷いて寝ていた。キッチンと寝床が分かれており、コンパクトな2部屋だ。眠りについてからしばらくして金縛りにあった。初めてあった金縛りの体験に、少しパニックになった。どうしても身体を動かすことができない。

 すると頭の上、キッチンに繋がるドアが開いた。そして、どこかで見たことがあるような、彫刻で掘られたお爺さんの仮面が、こちらに向かってゆっくり動いて来るのを感じた。仮面は笑顔である。確か、翁の面、と呼ばれていた記憶がある。

 もう少しで私の頭に触れるという所で、仮面は消え、金縛りは解けた。

 私は大学を卒業するまでの4年間、同じアパートで暮らした。翁の面を見たのは、初日の1度きりであった。


【温泉旅館】

 群馬県の古い温泉街に、家族で旅行に出かけた時のことであった。

 最終日は、老舗の旅館で温泉を楽しんだ。家族それぞれがゆったりとした時間を過ごせたように思う。名残惜しくも帰路に経つ時間になってしまった。チェックアウトの際に、私は部屋にヘッドフォンを忘れてしまったことに気づいた。

 部屋は4階。枕元に置いてあった忘れ物を無事に見つけ、受付に戻る。すると、先程使ってきたエレベーターが見当たらないことに気づいた。エレベーターは、北、南、中央と3つに位置し、私はたしか中央エレベーターを使ったはずだった。旅館は新館と本館で入り組んだ形をしているが、つい5分前に乗って来たはずのエレベーターがない。

 エレベーターを探しまわる。部屋と部屋の死角になっているかもしれない。実はこの階にはエレベーターはなかったのかもしれない。右に進んでいるようで、左に進んでいるのかもしれない。

 家族が待っている。焦りがピークに達した時、ようやく中央エレベーターを見つけることができ、家族が待つ駐車場へと向かった。

 私は、戻りたいと強く願ったために、運良く旅館から出ることができた。きっと、帰りたくない人たちは、エレベーターに辿り着くことが出来なかったであろう。


【横歩きおじさん】

 金曜日の夜。飲み会後に帰路に着くため、最終電車に乗った。最寄り駅を出る際、改札口前に横歩きしか出来ないおじさんがいた。

 おじさんは、前向きに歩行する人々の間を器用に横歩きで進んで行く。改札は横歩きの方が通りやすそうであった。

 改札を出てすぐ、おじさんは急に立ち止まり、あたりをキョロキョロと見回した。そして自分も前向きに歩こうと思ったのか、横歩きを止めて、前に足を数歩動かし始めた。しかし、足取りはおぼつかない。よちよちとしか歩けず、おじさんは最大限困ったという顔で下を向いてしまった。

 そしてまた横歩きを始めて、街中に消えていった。


【小さいおじさん】

 職場のトイレに小さいおじさんが出た。そこまで古くないオフィスビルのありふれた女子トイレだ。入ってすぐ1番目のトイレで用を足していた時に、汚物入れの影に隠れていた小さいおじさんを見つけた。

 小さいおじさんは、満員電車にならばどこにでもいそうな疲れた、しょぼくれた顔をしている。髪の毛は薄い。何故か素っ裸である。

 最初、おじさんは困ったようにこちらを見あげていた。しかし、開き直ったのか、影から出てきて汚物入れの蓋を開け始めた。手馴れた手つきで捨てられている使用済みナプキンを物色している。お目当てのナプキンを見つけたのか、そこに付着していた血液を舐めていた。

 おじさんを見つけて以来、1番目のトイレには入らないようにしている。苦手な同期が1番目のトイレに入っていくのが見えたが、伝えることも出来ないので、何事も無かったかのように振舞った。


【女の首】

 帰社後、自宅に戻ってすぐジョギングをするのが私の日課だ。残業などがあり、いつも夜11時頃に家の周辺を数キロ走っている。

 家から少し走ったところ、上り坂にさしかかる手前の電柱に、トレンチコートを来た長髪の女をよく見かけるようになった。今ではほぼ毎日現れる。電柱に取り付けられた電灯の下に立っているため、顔に色濃い影がおち、表情は伺えない。その女は何をするでも無く、そこに立っているままである。

 ある日、その女の首が少しづつ左に傾いていることに気づいた。日を増す事に、傾きが大きくなる。

 数ヶ月後、遂に首が90度に曲がってしまった。女の首はどこまで曲がっていくのだろう。


【ピアノ】

 真ん中のドから右に7度いったシの鍵盤を引く際に、小指が消えるようになった。音が聞こえる。しかしシを小指でひくと、第2関節から先が見えなくなる。

 他の鍵盤に問題はない。また、このシを他の指で引く場合も問題はない。小指だけが見えなくなってしまう。

 支障もなく、どうすることもできないために、見て見ぬふりをしている。ピアノの先生が怖いため、練習は続けなければならない。

 シを引く時の小指はどこに行ってしまったのだろう。


【ベッドの溝】

 この度、ソファベッドを新しく購入した。狭いアパートに一人暮らしの私にとっては、夢のような買い物であった。

 ソファからベッドに変形させるために、背もたれ部分からベットを引き出す。すると、そこに溝が生まれる。

 ベッドで寝むるようになって3日目。その溝にしばしば女性の顔が現れるようになった。眠るために横になると、私の視線のすぐ先に女の顔が覗いている。驚いて2度見すると、すぐ消えてしまう。女性は無表情でただ私の顔を直視しているだけだった。

 ソファベッドを買ってから64日目。まだ女性の顔は溝にいるようだ。


【自動ドア】

 とある西東京のレンタルビデオ店。私は、レジ係をしていた。お客さんはまばらにやって来るが、基本的には暇を持て余していた。

 閉店間際の23時56分。自動ドアが開き、入店音が軽やかになる。そこには誰もいない。自動ドアが閉まる。また自動ドアが開き、入店音が鳴るがそこにはまたしても誰もいない。

 自動ドアが5回鳴ったところで、閉店時間になった。閉店作業のために、内側からドアの自動機能を切った。その時には、入店音が鳴ることはなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ